第一話 ジュネーブにて
記録として残しておこう。
二〇××年、ジュネーブ。戦争こそ始まってはいないが、外交の場は常に火薬庫である。
銃声の代わりに、情報と虚偽が弾丸として飛び交う。
黒田官英、内閣情報調査室特任調整官。
彼の職務は、華やかさとは無縁だ。軍功章もなければ演説台もない。
だが「国家が自滅しないための役」を務めるのは、まことに骨の折れる仕事である。
さて、その夜の官英は、ジュネーブ旧市街のホテル・バーにいた。
照明は琥珀色、氷の衝突音は不必要に上品で、まるで「この空間には争いの種など存在しない」とでも言わんばかりであった。
だが実際には、テーブル一つを挟んで冷戦が再現されていた。
一方の客は、米国務省を名乗る女。実態はCIA欧州課の連絡官。
もう一方は、中国代表部の商務参事を装う男。正体は国家安全局の諜報員。
お互い見えない位置に座らせ、発言を制限しつつ会話する。
この配置こそ、黒田の戦術である。互いを直接衝突させず、自らは中立の椅子に収めるための。
米国人は言う。「東京湾で封印されている箱を開けろ」
中国人は言う。「鍵は売り物だ、買う気があるのか」
いずれも核心を語らず、隠喩めいた言葉で語る。
つまり、どちらの情報も軽々には判断できないということだ。
官英はグラスの縁を叩き、心拍を整える。
官英は理性を研ぎ澄ます。
一分間の空白。
彼らの話題の中心は、貨物ではなく「人間」の消失である。
実に愉快だ。国家の安全も同盟の均衡も、たった一人の亡命者によって揺らぐ。
そして調整官である黒田官英は、こう付け加えるのだ。
「戦争はまだ始まっていない。しかし、始まるかどうかは、我々の選択一つにかかっている」と。