俺の瞳は彼女に奪われた
しんしんと真っ白な雪が降り注ぐ。
そんないかにもなホワイトクリスマスの光景はなく、寒空を見上げると三日月が見える。
今日は十二月二十五日。
世間ではクリスマス・イブが終わり、待っていたとばかりにクリスマスで賑わいを見せている。
そんな明るく眩しい行事の最中、俺は何が悲しくて朝から晩まで仕事をこなし、電車通勤ならあと数本で終電という時間に帰宅をしなければいけないのか。
「……はぁ」
心に伸しかかった重さはため息を生み出し、消えていく白い息は心中の虚しさを表しているようだった。
トボトボと重い足取りで自宅である集合住宅を目指し、開けた先に自室が待っている扉の前まで来た時には、やっと帰ってこれたと心の重しが溶けていく。
握ったビジネスバッグの中を漁り、かじかんだ手で部屋の鍵を探り当てる。
金属製の鍵の感覚があいまいな状態でドアノブまで手を伸ばし、くるりと回して鍵を開けた。
開かれた扉からあふれたのは、温かな空気と優しい光。
そして大型犬染みた人影が、玄関前の廊下で待機していた。
「お帰りー。待ちくたびれたよ、センパイ。早く入って入って!」
「大河、お前。ずっとそこで待ってたのか」
嬉々とした声を上げて、今にも俺へ飛びかかりそうな態勢を取るのは、恥ずかしながら彼女――いわゆる恋人という奴だ。
名前は大上大河。
俺の四つ下の二十四歳で、犬の耳っぽいクセ毛が特徴の女性。
服装はパジャマとポンチョで、非常にラフな格好。
身長は俺の頭一つ低く、既に社会人である筈なのに無垢そうな瞳は、ときおり心臓に悪い。
――訂正。
本当に心臓に悪いのは別の部分だ。
「ん? どしたのセンパイ」
「不法侵入だぞ、大河」
「んなっ! 前々から約束してたし、合鍵を渡されてる彼女に対してヒドイ! そんなこと言うセンパイにはクリスマスさせてあげません!」
「クリスマスするって何だよ。悪かったって。お前が暖房つけっぱの部屋にずっと居たと思ったら、ついな」
頬を膨らませる大河に謝りつつ、俺は自分の部屋に上がり込む。
大河もなら許しますと言って、むっとしていたのが嘘だったかのように笑顔を咲かせた。
俺はそのままリビングへと向かいつつ、スーツジャケットを脱ぎ、ネクタイを外す。
進むたびに暖かい空気が体に浸透し、落ちかけていた気分が急上昇する。
「それにしても今日は一段と遅かったね」
「有給取った奴が多すぎて、仕事がアホほど増えたんだ。……あのクソ上司め」
「あ、うん。だいたい分かった。じゃあ私も今日有給取ったから、会社は似たような状態だったのかな」
「じゃねえの、知らねえけど」
俺と大河はお互いに社会人。
だが働いている職種も会社も別々で、センパイと呼ばれているのは同じ会社の先輩後輩の関係からではない。
切っかけは大河と初めて会った時だ。
当時俺は大学生で、大河は高校生。
同じバイト先で俺が先に働いていたから、そう言った意味での先輩後輩というのは間違いではない。
俺はその時大上と呼んでいたが、大河は俺の呼び方に関して一転二転した。
初めは名字で清水先輩、次に名前の曜平先輩。
そのどれもが馴染み切れなかったのか、今のセンパイ呼びに定着した。
「ではでは。お疲れのセンパイに朗報です」
「なに。一億の宝くじ当たったとか、満漢全席でも用意したとか?」
「なぜぇ!? センパイ、まだ脳みそ凍ったままですか。早く溶かしてください。ほらほら」
「――……ちょっ、待て止めろ大河」
適当なボケを挟んだつもりが、大河はツッコミを入れるどころか、目をまん丸にして驚きの行動に移った。
ビジネスバッグと脱いだジャケットで両手がふさがっているのを良いことに、彼女は両手で俺の頭を手に取り、自分の胸へと押し当てる。
そう。
大河史上、一番の心臓に悪い部分は彼女の豊満な体。
俺の顔を埋められるくらいの大きな胸、程よく丸みと柔らかさを持った体、そして知り合いから裏で安産型とセクハラを連発されている尻。
本人からしたら、好きな彼氏にじゃれ付いているだけなのだろう。
実際俺から見たら犬っぽい挙動で、耳と尻尾が幻視できるくらいだ。
仮にも俺たちは彼氏彼女の関係。
恋人になってから長いし、プラトニックな付き合いだと臆面もなく言えるほど清廉潔白でもない。
だからこそ不意な行動は、直前までの意思を無視する感情が沸き上がる。
端的に言えば、彼女の抱擁で血が爆発的に登ってしまった。
「お、おち、落ち着け。俺の頭は正常だから。一旦離れろ」
「おお、センパイ復活。……頭撫でたいから、もうちょっとやっていい?」
「ダメ」
最終的には呼吸困難でも引き起こす気かと思うほどの強い抱擁から、俺は無理くりに逃れ出た。
風呂にはもう入ったのか、彼女の体から香る良い匂い。
そんなものに俺は名残惜しさを感じていないと頭を振りかぶりつつ、改めて大河の言っていた朗報を目にした。
「これでセンパイもクリスマスが出来ます。しかもなんと彼女付きです」
「お前これ……。――ありがとうな、大河」
「ふふん。二十八歳のお誕生日、おめでとうなのです。曜平さん」
俺の片腕を取り、抱き着いた大河は上目遣いで微笑んだ。
目の前に広がるのは、クリスマスにちなんだ暖かい料理の数々。
そこに混ざるのは仰々しいプレートが立てられた、普段以上に豪華なケーキ。
「用意してくれたのも、待っててくれたのも嬉しい。けど大河、一つ聞いていいか」
「なに?」
「クリスマスっつったら、チキンじゃないのか。アレ、どう見てもハムだよな」
十二月二十五日が誕生日の俺の為に、クリスマスと誕生日が合わさっている卓上。
これ以上ない喜びが込み上げてくるものの、いくつかの見慣れない物に首を傾げる。
まずは私は鳥ですとばかりに置かれている、切り分けられたハム。
次に目に入るのは、プレートが置かれた丸太状のケーキ。
それは一般的に想像する円グラフ状のものではなく、飾りつけされたチョコレートのロールケーキだ。
「ケーキの方はブッシュ・ド・ノエル。ハムはユールシンカって言うんだって。昨日のお礼としてちょっと違うものを買って来たんだけど、いつも通りの方が良かった?」
「いや。見慣れないから驚いただけだ。むしろ新鮮味があって良いよ」
普段と違うとはいえ、別段不味そうな物が並べられている訳では無いし、言った通り目新しさがある。
余計な心配をさせない為に笑いかけた俺は、そそくさと荷物を片付けて席に着く。
ちなみに大河の言っていた昨日のお礼というのは、何のことは無い。
彼女の誕生日は十二月二十四日。
つまりは昨日が誕生日だったんだ。
俺も彼女も昨日は有給こそ取れなかったが、当日に前々から興味を示していた高級菓子を買って、更には次の土曜日に二人で遠出をする予定を入れている。
そのお礼としては豪奢があり、昨日俺が用意した物と比べると恥ずかしさが込み上げてくる。
でもそれと同時に湧いた、言い様の無い嬉しさだって嘘じゃない。
「はい、じゃあ……。いただきます!」
「いただきます。――って、大河お前。先に食べてた訳じゃないのか」
「むっ。折角の誕生日にそれ言う? センパイの彼女は、この程度の事ならホイホイと待てる女なんですよ」
自慢にもならない事でドヤ顔する大河。
そうだったなと相槌を打ちながら、彼女の用意した料理に手を付けていく。
卓上にある料理はさっきの通り。
準備した飲み物はいつものビールではなく、一会社員としては普段使いできない値の張る赤ワイン。
もっと大々的にやらないのか。
なんて冗談交じりに同僚から言われた時もある。
でも好いた相手を喜ばせるのに、派手さや値段を意識しすぎて相手に気を遣わせてしまったら、お互いに大手を振って喜べなくなってしまう。
だから俺たちはこれで良いんだ。
らしくない事をするよりも、ほんの少しだけ……
そう、ほんの少し気持ちの分だけ色を付ければ、それでいい。
「――……んぅー。おいしかったぁー!」
「ああ。特にお前が選んでくれたチーズの詰め合わせ。ワインに合うのが多くて良かった」
「私はこの山羊乳のチーズが好きだなぁ。キャラメルみたいでうまうま」
「一人でどんどん食うなよ。まあ、そんなに気に入ったなら別にいいけど」
満腹になるまで好きなだけ食べ尽くし、俺は食後の飲み物としてコーヒーを淹れていく。
大河は大河で、ブッシュ・ド・ノエルのホールを一人で半分も食べた後なのに、塩キャラメルのようなチーズをつまんでいる。
二つ用意したマグカップに安物のインスタントコーヒーを淹れ、専用の砂糖を入れた俺は、片方にだけミルクを混ぜた。
席に戻りながらミルクを入れた方を大河に渡すと、ありがと、と短いお礼が返ってくる。
一息。
コーヒーを口に含み、部屋は外と同じく静けさに包まれる。
ほうっと体に染み渡る熱を外に漏らし、特有の苦みを噛みしめていた俺と大河の目がバッタリと合う。
「ねえ、センパイ。実はもう一個。プレゼントがあるんです」
「へえ、それはまた。サプライズって奴か」
「ですです。ちょっと準備するので、センパイ。目をつぶって貰っていいですか」
お互いにコーヒーの入ったマグカップを置き、真剣な表情をする大河を真似て俺も合わせる。
さっきまでの、部屋の温度と同じ緩く温かな空気から一変し、その真剣さは雪降るなか仕事をこなすサンタの胸中と同じだろう。
大河に言われた通り、俺は目を閉じ次のアクションを待つ。
だが塞がれるのは目だけであり、残りの感覚は未だ健在。
見えない代わりに残りの五感、特に耳が良くなるのは自然だろう。
大河が立ち上がる音、そして歩き出す音をどうしても俺の耳は拾ってしまう。
「……大河?」
足音はどこか物を取りに行く様子もなく、俺の前で立ち止まる。
俺の呼びかけに返しはなく、衣擦れと僅かに軋む床の音が鳴り……
閉じた右目に柔らかな感触が触れた。
「――……っ! 大河、お前!?」
「へっへぇーん。センパイ、つーかまーえたー!」
何をされたのか、すぐに分かった。
いきなり何だと声を上げる間もなく、勢いよく俺の体は大河によって押し倒されてしまう。
閉じられた俺の右目に触れたのは、彼女の唇。
今となっては唇どころか、その豊満な体が押し当てられ、心臓の鼓動すら伝わってくる。
――ドクン、ドクンと。
「酔ってるのか、大河」
「酔ってても酔ってなくても。どっちだって良いじゃないですか、センパイ」
彼女の紅潮している顔は、アルコールによるものか、それとも別か。
意識を惑わす香りに蕩けた声は、俺の心で早鐘を打ち、体に熱を回していく。
瞳を奪った彼女の口づけ。
一拍二拍と脈打ち、心が交わるたびに俺の目は大河からそらせなくなっていく。
「……しよう?」
オオカミを誘う子羊のように。
潤みを持たせた瞳で、大河は俺に訴えかけてくる。
だがその姿は、俺から見れば鎖から解き放たれたオオカミそのもの。
「ったく。かわいい彼女の期待には、しっかり応えないとな」
「かわっ…………えへへっ…………」
今すぐにでも唇と唇が重なり合いそうな所で、俺は腕を大河の背中へ回して抱きしめる。
片手で頭を撫でて、了承の言葉を耳元でそっとささやいた。
嬉しそうな声が俺の耳を打ち、続く大河の行動により頬と頬が合わさって、柔らかい感触がすりついてくる。
楽しい聖誕祭を。
そんな言葉を俺たちが口に出来たのは、オオカミとの逢瀬で水曜日のクリスマスがもうすぐ終わる。
そんな寒く、夜も深まった時だった。