16. 壁ドン
今、シャノンの目の前には大きな胸板があり、背後は校舎の壁がそびえ立っている。
胸板の持ち主は覆いかぶさらんばかりの至近距離でシャノンの頭上近くの壁に手をつき、彼から漏れる吐息が彼女の前髪を揺らす。
「――で?」
「え?」
反射的に声のする方へ顔を上げると、アレックの恐ろしく冷たい瞳がシャノンを見下ろしていた。
「――ひぇっ」
思わず悲鳴に似た声が出てしまったシャノンは反射的に顔を伏せた。
ピリピリした威圧的な空気からなんとなく予感はしていたけれど、どうやらアレックは怒ってる。
美しく整った顔が怒ると恐ろしく怖い。
放課後、シャノンは先生から頼まれた用事を終え、カバンを取りに一人で教室に戻る途中にアレックに呼び止められたと思ったら、腕を掴まれ廊下の壁に押しやられていた。
端から見たら壁ドンという胸きゅんシチュエーションに見えるかもしれないけれど、そんな甘い雰囲気は漂っていない。
シャノン的には暗殺者にナイフを突き付けられている気分だ。
「どういう事かな?」
「へ?」
アレックの試すような問いかけに、シャノンは一体何を仕出かしてしまったのかとぐるぐる思考を巡らせるが、思い当たる事は何もない……と思う。
アレックの元に御令嬢達が押しかけているのは実質シャノンの作戦のせいかもしれないけれど、そんなのは怒られる筋合いはない。
以前怒られたジゼルとの距離感もちゃんと守っている。
しいていえば今日の“トルネオ様にクッキーを渡すべきか否か”問題があったけれど、結果渡していないのでセーフだ。
「……あの……何の事でしょうか?」
そんなに怒らせるような事をした覚えはなく、質問に見当もつかないシャノンは恐る恐るアレックを見上げると、彼の蒼い瞳が一瞬動揺したように見開いた。
「…………クッキー」
「え?」
「トルネオが君の手作りクッキーを食べたと言っていた」
「ああ、昨日久々にクッキーを焼いたので持ってきたんです。休憩時間にフローラ達とお茶をしてた時にトルネオ様がいらっしゃったのでお出ししたんです……が……え?まさか、私の作ったクッキーが原因でトルネオ様が体調を崩されたとかですか!?」
アレックがこんなにも怒っているのは、相当酷い状況なのではと血の気が引く
「いや、トルネオはすこぶる元気だ……腹の立つことに」
「そうですか……良かった。……ん?腹の立つ?」
トルネオが元気でホッとしたけれど、後の一文はどういう意味なのかとシャノンは思った。
「君の作ったクッキーはとても美味しかったと絶賛していた。⋯⋯ムカつくことに」
「そ、そうですか……え?⋯ムカ⋯?」
語尾が聞こえにくかったけれど不満そうな仏頂面で言い捨てるアレックはますます不機嫌になっている。
私が作ったクッキーをトルネオ様が褒めた事が気に食わないというのは、私がクッキーを作った事が気に食わないという事だろうかとシャノンは首をひねる。
「……怒ってますよね?」
「うん?そうだね。よく分かったね」
ニコリと笑うも目が笑っていない。
そりゃあ、そんなに冷気が出てたら嫌でも誰でも分かりますと突っ込みたくなる。
「私がクッキーを作った事に怒っているのですか?貴族令嬢に相応しくないと?」
シャノンなりに導き出した原因をぶつけるとアレックは少し眉をひそめ「そんな訳ないだろ」と即答した。
「お菓子作りが貴族令嬢に相応しくないなんて僕は微塵も思っていないよ。他人に頼らず自分で自分の好きな物を作り出せるのは素晴らしい」
さも当然のように言い放つ言葉は嘘偽りのない本心だと瞬時に感じた。
その言葉はとても嬉しかったけれど、じゃあ、なぜこんなにも怒っているのか、全く分からなくなってきたシャノンは軽く混乱する。
「なぜ、僕が怒っているのか本当に分からない?」
アレック手がシャノンの頬に触れ、思わず体がビクリと反応する。
まるで蛇に睨まれた蛙のごとく体がすくんだシャノンはウンウンと小さく頷くのが精一杯だった。
アレックの冷たい目がシャノンを見据え、なんとかその視線に耐えているとアレックが「ハァ」と小さくため息をついた。
「君に理解するのは難しいか」
何かを諦めたようにポツリと呟いた言葉に「え?」と聞き返す。
「僕は君が作ったクッキーなんて食べた事ない」
「は?……あ、そ、そうです……ね?」
確かにアレックが私の作った物を食べたことはないと思う。けれどそれが何だと言うのかシャノンにはさっぱり分からない。
「なのに、トルネオは食べた」
「……ん?」
「婚約者の僕より先にね」
「――んん?」
アレックの言葉を反芻して考える。
――えーと、つまり、あれか?
婚約者である自分は食べていないのに、トルネオ様が私の作ったクッキーを食べたからご立腹……?
「まさか、そんなつまらない事で怒って―――ブブッ!?」
言い終わる前にアレックの大きな右手がシャノンの両頬を挟んだ。
「つまらない事かどうかは君が決める事じゃないよね?」
アレックからの威圧に、シャノンはタコのような口のまま頷く。
「トルネオが君の手作りクッキーが美味しかったと自慢するものだから、思わず殴り飛ばそうかと思ったよ」
「――む、んむむーーつ!」
なんてことを言うのかとシャノンは必死で抗議するも容赦なくガッチリ挟まれた頬は動く事が出来ず、あられもない唇が僅かに動くだけである。
「ま、そこはグッと我慢して代わりに僕の数日分の仕事をプレゼントしてきたけれど」
殴られなくて良かったけれど、自分がクッキーを勧めたばっかりに完全にとばっちりを受けたトルネオ様にシャノンは申し訳なくなる。
「んむむむ―――!!」
「ん?何?」
シャノンの必死の抗議に耳を傾ける気になったのか、やっとアレックが手を離す。
やっと元の形に戻った唇を押さえながら「トルネオ様は悪くないですよね!?」と抗議する。
「トルネオを庇う気?」
「そうじゃなくてトルネオ様は気を遣って私が勧めたクッキーを食べただけで、自慢した訳ではなく、食べた感想を言っただけですよ?」
「どうだか」
シャノンの言葉を受け入れる気なんてないのか、アレックはツーンと顔を背ける。
ツーンて子供か!とシャノンは心の中で突っ込みながらも、頭脳明晰、眉目秀麗のこの完璧な男がこんなにもくだらない事で駄々をこているのかと思うと、可笑しく思えてきた。
「……つまり、拗ねているんですね?」
「…………」
ツーンとしたまま無言だということは、つまりそういう事なのだろう。
「―――ふっ、ふふっ」
込み上げてきた笑いが口をついて出るとアレックか「何?」と不機嫌そうに睨む。
「いえ、なんでも」
あまり笑ってはまた拗ねそうなので、笑いを我慢しコホンと一息つく。
「アレック様はいつでもココスさんが作ったクッキーを食べる事ができるから、私が作ったのをあげるなんておこがましくて思いつきもしなかったの。不愉快な思いをさせてごめんなさい」
そう謝るとアレックはツーンをやめてこちらを見たけれどまだ険しい顔をしており、謝ったくらいではご機嫌は直らない様子だ。
「お詫びといってはなんですが、明日マフィンを焼いて持ってくるのでそれで気持ちを収めてもらえませんか?」
「……マフィン?」
「ええ、アレック様はマフィンがお好きでしたよね?」
昔、アレックが好んで食べていたのを覚えている。トルネオが先にクッキーを食べたと拗ねているのだから、同じクッキーよりは好物のマフィンのほうがいいかと思い提案してみる。
「覚えてくれてたんだ」
「ええ、まあ……なんとなくですけど」
なんとなくと言うのは嘘で、マクリール邸へ遊びに行った時に毎回ココスさんの手作りスウィーツを一緒に食べていた、あの時間をシャノンは鮮明に覚えている。
「紅茶のマフィンがいい」
「え?あ、はい」
「あと、胡桃とブルーベリー」
「はい」
どうやら提案は受け入れられたらしい。
アレックのリクエストを聞きながら、家に材料があるかしら?と頭の中で在庫確認をする。
「オレンジと、チーズも」
「……分かりました」
「――後は……」
まだあるの!?と思わず声を上げそうになり顔を上げると、アレックがズイッと私の目を覗き込んだ。
「僕だけの為に作ること」
あ、これは沢山作ってついでにフローラとジゼルにもお裾分けなんてしたらアウトなやつだと悟った。
「……了解です」
「楽しみにしてる」
そう言ってアレックは満足そうにニコリと笑った。
先程までの鬼神のごとく怒っていた人物とは思えない程の変わりように、私がアレックの為にマフィンを焼く事がそんなに嬉しいのだろうかとシャノンは呆気にとられる。
怒っていた理由も、まるで本気で嫉妬をしているかのような………。
―――嫉妬?
アレックがトルネオ様に嫉妬?
…………んん?。
頭の中を整理しつつ考えを巡らせていたシャノンは無意識にアレックをガン見していたようで思いっきり目が合った。
あらためて見ると本当にきれいな顔をしているとシャノンは思う。
蒼い目は吸い込まれそうなくらい美しいし、まつ毛もこれでもかというくらい長い。
スラリと通った鼻筋は程よく高くて、形の良い唇は艷やかでうっすらピンクでとても柔らかそう。
お肌なんて、憎たらしいくらい綺麗だしシミ一つもない。
そして頭脳明晰、文武両道の公爵家嫡男⋯⋯。
「――いや、ないない。ないわ」
こんなにも完璧な人物が自分を好きで些細でくだらない事に嫉妬しているだなんて、一瞬でも想像した自分が可笑しくなった。
「何?」
ジロジロ見た挙げ句、薄っすらと笑い出したシャノンをアレックが不思議そうに見た。
「いえ、なんでもないです」
聡明なこの男に自分の考えを見透かされそうで気恥ずかしくなったシャノンは適当に話を合わせて、アレックから目をそらす。
「じゃあ、準備があるので帰ります」
「送るよ」
そう言うとアレックがようやく壁ドンを止め一歩下がったので空気が吸いやすくなった。
「フローラが教室で待ってくれているので遠慮します」
「じゃあ、教室まで」
「いえ、結構です。じゃっ!」
早くこの場を去りたいシャノンはアレックの申し出を断り、一気に駆け出した。
自分の頭によぎった“もしかして”は考えないように、とりあえずマフィンの材料を確保する段取りを反芻しながらフローラの待つ教室へ急いだ。




