幻想
「みんなに伝えたいことがあります」
美里は、晩御飯の料理を並べ終わると、テーブルに座る家族に言った。
「なに?」
スマホを見ながら無関心に長女の怜が聞き返した。怜は高校2年生で、長い髪を茶色に染めている。制服のままテーブルに着き、シャツのボタンを胸元まで外している。
長男の竜二は無言のまま、ゲームをカチャカチャやっている。竜二は中学3年生。五分刈りの頭で、健康的に日焼けをしている。
「なんなんだ、改まって」
口元に笑みを浮かべながら、光一は言った。光一は美里の夫で、高校で体育の教師をしている。七三分けの優男。色白で、一見すると体育教師には見えない。
「お母さん、明日この家を出ます」
美里は言うとテーブルに着き、じっと光一を見つめた。
「出るって、旅行にでも行くのか?」
要領を得ない様子で、光一が聞き返すと、美里はまっすぐ光一の目を見て、答えた。
「いいえ。もう帰ってきません」
「はあ?何言ってんの」
気怠そうに怜は言うと、スマホを置いて冷奴に醤油をかけた。
竜二は無言のまま、ゲームを続けている。
「帰ってこないって、どこに行くつもりなんだ?」
光一の問いに、美里は優しく微笑んだ。
「私のことを大切にしてくれる人の所へ行きます」
「お母さん、不倫してたの?」
やっぱり、という表情で怜は言った。
「そうよ。でも、みんな私を責められる?みんなだって、好きなことやって自由に生きてるでしょ?」
真面目な顔で、美里は言うと3人の顔を順に見ていった。
「じょ、冗談だろ。母さんがそんなこと、するわけないないじゃないか。なぁ?」
光一は引きつった笑みを浮かべて、子供2人を見た。怜は無言で光一を睨んでから、冷奴を口に運んだ。
「俺は知ってたよ。海斗と真依が、母さんと男の人が歩いてるの見たって言ってたから」
竜二は言うとゲームを置いて、いただきます、と言ってハンバーグを箸で割った。
「誰なんだ、海斗と真依って」
動揺した様子で光一は言った。
「同級生だよ」
面倒そうに答えて、竜二はハンバーグを口に運んだ。
「知ってて、なんでお前はそんなに冷静なんだ」
「えー?だって俺母さんについていくつもりだし」
「私も気付いてたし。お母さん、明るくなったしメイクも変わったし、出掛けるの多くなったし。こんだけあからさまにされて、なんでお父さん気付けないの?」
怜に言われて、光一は動揺した。そんなにわかりやすかったのか?いや、振り返れば違和感を感じた日もなくはなかった。どこか人が変わったような。
「浮気なんて思うわけないだろ。母さんがそんなことするなんて」
そう信じていたのか、現実を知るのが怖かったのか、光一にはわからない。
「女のサイン見落としてたねー。早く気付いてたら、母さん出ていかなかったかも」
「まだ出ていってないだろ」
「出て行くっていってんだから、確定じゃん。お父さん、今更止めるつもりなの?」
「今更って、何も話し合ってないのに勝手過ぎるだろ」
「よく言うよね男って、話し合おうってさ。その前に気付けよ、って話なんだけど」
「怜に何がわかるんだ。まだ高校生だろ」
「あーマジでウザっ。わかってないのお父さんの方じゃん」
「お、大人を馬鹿にするな」
「もうちょっとマシな言い返ししてよ。教師なんだから」
怜は気怠そうに言い、サラダに箸をのばした。
本当にもう駄目なのか。夫婦生活が、家族が、こんなにあっさり、妻のひとことで、終わってしまうのか。
光一はやり切れない気持ちを抑えながら、味噌汁を飲んだ。
「熱っ」
「ださっ。動揺しまくりじゃん」
怜は嘲笑して、言った。
「竜二、あなた私に付いて来るって言ったわね」
光一と怜の会話など聞いていなかったように、美里は竜二に話しかけた。
「うん。俺は母さんの方が好きだし」
光一は心を抉られた。家族にこんなにも、心をズタズタにされるとは。
「竜二、甘えたこと言わないで。あなたにそんな選択肢はないの」
「、、、え?」
美里の凄んだ口調に、竜二はたじろいだ。
光一も怜も驚きの表情を浮かべている。美里が竜二のことを怜よりも可愛がっていたのは明らかだったし、竜二にこんな口のききかたをするのは初めてだった。
「私の言うことも聞かずに、受験勉強もせずに毎日ゲームばっかりして、そんな勝手なあなたを私がなんでこれからも面倒見ると思えるの?」
「え?だって、母さんは母さんだし、親だし。それが普通じゃん」
「当たり前みたいに言わないで。勉強しないのも、ゲームするのも、あなたの自由よ。でもね、自由にした結果って言うのは必ずついてくるものなの。あなたが、いえ、あなた達みんなが自由に生きた結果ね、私に自由に生きたいって思わせたの」
「そんなの、言ってくれないとわかんないよ」
「これくらいのことは、自分で考えれないとあなた生きていけないわよ」
「無理だよ、俺まだ中学生じゃん」
「年齢に逃げないで。考え方や心は、もうちゃんと出来る筈なの。私はあなたのいつまでも子供でいようとするそういう所が、ほんとに嫌だった」
「嫌ってなんだよ、、、」
竜二は俯いて、泣きはじめた。今まで優しかった美里に突然厳しくされて、竜二は心のバランスが崩れた。
光一も怜も、竜二が可哀想と思ったが、美里の凄みに、何も言えなかった。
「泣けばいいわ。泣いても戻らないものがあるって、ちゃんと知りなさい」
冷たく美里は言うと、光一と怜の方を見た。
「怜も、その髪とボタン、私、何回なおしてって言った?」
「どうしたって、私の自由でしょ?」
怜はたじろがず、強気に言い返した。
「そうね。じゃあ私だって何したって、私の自由よね」
「浮気と一緒にしないでよ。頭おかしいの?」
「自分が自由にしたいなら、人の自由も認めなきゃね。それと、あなたお父さんの財布からお金、とってるわよね」
「なっ、、、」
「お父さん、それ知ってて、何も言わないのよ。何度も叱ってって言ったのに。そういう叱れない、怒れないとこ、もううんざりなの」
「うんざりって、なら君が言えばいいだろ。俺が苦手なこと知ってて、それは酷いんじゃないか?そういうのは補い合うのが夫婦だろ」
光一は少しムッとなって、言った。
「そうやって逃げて、怜と竜二どうなった?2人ともろくに勉強もしない、親の言うことを聞かない、怜は学校で男の子と淫らなことするし、竜二はこんな弱い、自分じゃ何もできない子になって」
「俺のせいか?俺が怒れないから、こうなたって?そんなことあるか。だいたい子供達のことは、君に任せてーーー」
「いつ?いつからそうなった?私が子供達の面倒全部見ますっていつ言った?」
「それは、、、ずるいよ、お母さん」
歯切れ悪く、ぼそぼそと光一は言った。
「そうだよ、母さんずるいよ」
泣きながら、竜二が言った。
「なんで何も言わなかったんだよ。いきなりこんなこと言われて、どうすりゃいいんだよ、俺たち。今まで何にもなかったじゃん、幸せだったじゃん」
「幸せ」
美里は呟き、ゾッとする冷たい微笑みを浮かべた。
「あなた達の幸せの陰で、私がどんな気持ちでいたかなんて、想像も出来ないでしょうね」
「わかるわけないじゃん!お母さん、いつも幸せそうにニコニコしてたじゃん。言うこと聞かないって言ったって、お母さん、そんな言い方しなかったじゃん。いつもしょうがないわねって感じで、私、受け入れてくれてるんだと思ってた!」
怜の言葉に、美里は表情を殺した。
「どうやって、15で男とSEXする娘を受け入れるのよ」
「15!?」
光一が驚いて、怜を見た。
「見んなよ!好きだったんだから、いーでしょ!なんでわかんないの?」
「まるで私が幸せを壊したみたいに言うけど、あなた達はみんな私の幸せを壊してたの。私は、自分の幸せは壊れているのに、あなた達の為に笑顔でいて、優しくいて、そんなこと、いつまでも出来るわけないって、わかるよね?」
「私が好きな人とSEXして、なんでお母さんの幸せが壊れんの、意味わかんない」
怜もついに泣きはじめた。
「幸せはね、人それぞれ違うの。私の幸せとあなた達の幸せは違ったみたいね」
「だから何でって、聞いてんの!何が違うの?私はお母さんの何を壊したの?お母さんの幸せって何?」
「私はね、怜」
「なに?」
「ただ穏やかに生きていたいの」
「はあ?」
「私の心を掻き乱すあなた達はもう、いらないの」
「いらないとか言わないでよ。娘じゃん、家族じゃん」
「それはね、怜」
「なに?」
「ただの幻想。私が親で、家族でいようと思ってたから、見れていた幻想よ。私の思い一つで消えてなくなるでしょ?」
夜中、寝室で光一と美里はいつもと変わらず、2人並んで寝ている。美里は光一に背を向けて寝ている。
「なぁ、起きてるか?」
光一が体を起こして、美里の顔を覗き込みながら、言った。
「起きてるわよ」
光一に背を向けたまま、美里は言った。
「本気で出て行く気なのか?明日」
「ええ。出て行くわよ」
静かに、美里は言った。
「みんな、変わるから。美里が穏やかに生きれるように変わるから、行かないでくれないか」
「いいわよ」
すんなりと言われて、光一は目を丸くした。冗談だったのか?さっきのは。それともみんなを怖がらせて、従わせたかったのか?
美里は体を起こし、覗き込んでいた光一の顔を正面から見た。
光一も美里を見つめた。
美里は、光一の耳元に顔を近づけると、小声で囁いた。
私、もうしちゃったよ。
光一は一瞬息を止めて、溢れてくる感情を飲み込んだ。考えまいとしていた。そんなことはないとわかっていたが、どこかで美里はその一線を超えていないのではないかと、期待していた。
美里は、顔を光一の前に持ってくると、首を傾げて見つめて、言った。
「それでも耐えられるの?あなた」
「ああ。構わない。それでも、俺は君に側に居てもらいたい」
本音なのか、わからなかった。意地を張ったのか、奪われたくなかったのか。美里にまんまと誘導されたような気もした。
「そう。じゃあ、側にいてあげる」
美里は優しく笑った。光一はもうその笑顔に心が救われないことを感じていたが、それには気づかないフリをした。
翌朝、光一は早朝から子供達を起こして、2人を正座させ、自分達の行いがどれだけお母さんを苦しめていたかを想像できる限り語り、1時間ほど説教をした。
美里はニコニコと笑いながら、その様子を見つめていた。
その日から、光一は目に止まったことは、すべて子供達に伝えるようにし、時には激しく怒った。
怜は髪を黒に戻してショートにし、制服のボタンはすべて留めて、派手な私服はすべてで捨てて、彼氏とも別れた。
竜二はゲームを全て売り払って、毎日美里の家事を手伝った。
みんなはじめは、お母さんが家にいてくれる、そう思うだけでやっていけた。
美里も穏やかにいつも笑っていた。
だが、そんな暮らしは続くわけもなかった。
3ヶ月が経ち、また夕食の時。4人は会話もなく、黙々と料理を口に運んでいる。
突然、怜が茶碗をテーブルに叩きつけた。
「なんだ、行儀が悪い」
機械的に、光一が眉を寄せて言った。
「お母さんに謝りなさい」
美里はニコニコと笑って、怜を見ている。
「もう耐えられない。こんなのおかしいよ」
「何がだ」
「いつもお母さんの顔色伺って、神経使いながら暮らして、間違ってるこんなの」
「それでお母さんがいてくれるんだから、それでいいだろう」
「よくないよ!だいたい、お母さん楽しんでるじゃん、私達が苦しんでるの見てさ!」
「そんなわけないだろ。お母さんは、ただ幸せなだけだ。穏やかに暮らせることが」
光一はまるで取り合わなかった。
怜はキッと光一を睨むと、美里に顔を向けた。
「もういいでしょ!?いつまで私達にこんなことさせるの?」
「やっと気付いた?ねぇ?だから私は家を出るって言ったのよ、あの時。私の幸せはあなた達の幸せとは違うの」
「わかったよ、わかったから、戻ってよ、いつもニコニコしてさ、何でも受け入れてくれたお母さんに」
涙ぐみながら、怜は言った。
「そんなお母さんはね、怜。はじめからいなかったの」
ニコニコと笑いながら、美里は言った。
「嘘だよ。お母さん、私達が小さい頃は本当にそうだった。本当に優しかった」
「それは幻想よ。私がそういう母親でいようとしていただけのことなの」
「違う!お母さんはそんなんじゃない!」
怜は言って、テーブルをガンガンと叩いた。
「やめなさい、怜。お母さんが困ってるだろ」
無感情に、光一が言った。
「お父さんもなんなの!?なんでそんななの!?こんなんなら別れるって、なんで言えないの!?」
光一は黙って、言い返さなかった。もはや自分の心がなんなのかさえ、わからない。美里に側にいて欲しかった。だかいて欲しかった美里は側にはいない。
それでもいつか、あの幻想の幸せの暮らしが本当になると信じていた。
「わかったわよね?これで。私とあなた達が幸せに暮らすなんて到底無理ってこと」
美里はそう言うと、テーブルから立ち上がった。
「それじゃあ、私は出ていきます」
「え?別れてなかったの?浮気相手の人と」
怜が何かを打ち砕かれたような顔をしたので、美里は包み込むような微笑みを見せた。
「言ってないわよ、そんなこと。側にいてあげるって言ったの。お父さんの」
「私と竜二は?」
「あなた達は言わなかったじゃない、私に側にいて欲しいって。お父さんに言われるまま、私に気を遣っただけでしょ?本当はあなた達だってわかってるのよ。こんなお母さんならいらないって」
「違う、いて欲しい、ねぇ竜二、いて欲しいよね?」
竜二は蒼白の顔で、俯いていた。
「ねぇ、竜二!」
「、、、、、、ない」
「なに?」
「いらない。こんなお母さん、いらない」
「なんで!お父さん、なんで何も言わないの!?」
怜は一縷の望みを光一にかけたが、光一ももう諦め顔だった。
「もういいだろ、怜。お母さんは違うんだ、もう」
「違わない!お母さんはお母さんだって」
「疲れたんだ、父さんも竜二も」
「やめてよ!なんで諦めんの!」
怜は泣き出して、光一と竜二は蒼白の顔で俯いたまま。
そんな3人を穏やかに微笑んで見つめてから、美里は言った。
「幻想が解けたわね。これであなた達も幸せになれるわ」