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歴史転換点・詳細(3)

■シベリア出兵

  「シベリア出兵と極東共和国」


 一九一七年三月、ロシア帝国の首都ペテルブルグで革命が起り約三百年続いた帝政が倒された。

 玉座にあったロマノフ王家はどことも知れず幽閉され、同年十一月の再度の革命により共産主義革命へと至った。

 

 当時世界は第一次世界大戦のただ中にあり、敵と味方に分かれていたにも関わらず、社会主義革命阻止のため軍を派遣するなど、積極的な妨害工作がおこなわれた。

 それほど共産主義とは異端の考え方だったのだ。

 

 革命に対する干渉は、最大規模はドイツ軍による大攻勢とブレスト=リトフスク条約の調印と言う形で一つの結論に至る。

 しかし、遠く極東でも各国の利権渦巻く中、活発な干渉が行われるようになった。

 

 極東からの干渉は、支那・満州に多くの利権を持つ英国の政治主導で進められた。

 その中で近在の日本は、治安出動のため南満州に出た部隊を除けば、約一個旅団の戦力をロシア極東に派遣したに止まっている。

 

 派兵の詳細を述べるなら、当時友好関係にあったロシア政府との取り決めの拡大解釈により、南満州以外ではウラジオストクに主力が駐留し、少数の偵察部隊や捕虜救出部隊(と言う名の反革命援助部隊)が満州を経由してシベリア奥地に派兵されている。

 

 また、シベリア出兵で主な役割を果たしたもう一つの国は、日英の援助でようやく近代的な政府を作り上げつつあった大韓帝国(立憲君主国)であった。

 当時同国は日英の衛星国のような位置にあったため(大戦にも一応参戦している)、連合軍(主に日英)の要請で日本式編成の一個師団の兵力を主に沿海州地域に派遣した。

 現地では、日英指導のもと治安維持などに活躍し、国際デビューを果たしている。

 

 いっぽう日露戦争以後中華地域への進出を強めていたアメリカ合衆国は、欧州での戦争に本格参加していないため軍事力、国力ともに余力があり、すでに足場を得ていた天津や上海を経由して積極的にシベリアに派兵した。

 そして白軍を援護するという自国民向けの宣伝の元、わざわざ新規動員した師団規模の大軍をシベリア奥地に派遣する。

 アメリカ国民の多くも、一夜にして弱者に追いやられた旧帝政ロシア政府側の白軍支援を肯定した。

 またアメリカ国内では、ロシア移民とポーランドを初めとする旧従属民族の対立と応援合戦が派手に行われた。

 

 そして民意に押されたアメリカは、最終的には精鋭の第1騎兵師団を始め、1個軍団を派遣するに至る。

 

 当初アメリカは、西シベリアの白軍(反革命軍)だったコルチャーク軍などを強く支援した。

 潤沢な支援を受けたコルチャーク率いる白軍は、一時シベリア全土を支配し、欧州ロシアを伺うほどの勢力となる。

 もっともアメリカが彼らを支援したもう一つの理由は、ロシア中枢から持ち出された膨大な量の金塊や財宝にあると言われた。

 俗に言うロマノフの遺産目当てというわけだ。

 だがコルチャークは、その後各地で反撃を受けて敗退。

 アメリカ軍自身も、自らの損害の大きさもあって後退。

 西シベリアに逃れた白軍など旧ロシア側を助けつつバイカル湖まで引き下がる。

 

 また一方で、シベリアに幽閉されたというロマノフ王家の救出に妙な熱意を見せた。

 そのために飛行船などの最新兵器すら派遣し、一時期王家の救出に成功したなどの報道が世界を駆けめぐったりもした。

 ロマノフの遺産共々事実は未だに明らかになっていないが、この時のアメリカの行動は感情的という以上のものだった。

 おとぎ話では、正義の騎士が王子や姫を助けるものだからだ。

 

 そして1920年までにアメリカ軍以外のほとんど全ての国がシベリアから引き上げるも、戦費と損害に似合う果実を求める国民の声を前にザバイカル地方以東で駐留を継続し、国際非難を浴びるようになる。

 だがここでアメリカ政府は方針変更し、アメリカへの亡命経験のあるA・M・クラスノシチョコフを強く支援する方針を打ち出す。

 軍事でなく政治で影響力を保持しようとしたのだ。

 

 クラスノシチョコフは、列強を恐れるソヴィエト中央の意向によってブルジョワ政権である極東共和国を建国し、政府首班兼外相となる。

 そしてアメリカの武力、援助を背景に短期間で勢力と基盤を拡大した。

 現地住民も、アメリカからもたらされる豊富な資金と物資になびき、共産主義に対する脅威感情はむしろ高まった。

 そして現地アメリカ軍、アメリカ資本と共に、アメリカ式民主主義を極東の大地に広げていく。

 主義よりもドルが強かったのだ。

 

 また一方でアメリカ軍は、アラスカからシベリアを伺う姿勢を見せており、日本もアメリカの動きに血圧を上げて、欧州から帰ってきたばかりの軍の一部を対極東軍備として南満州、オホーツク地域を中心に日本領及び権益の及ぶ地域に展開した。

 このため、発足して間もないソ連政府の日米に対する脅威は、さらに強いものになった。

 彼らにしてみれば、シベリアの全てを日米に切り取られるのではと思えたのだ。

 

 そしていつの間にか理念の失われたアメリカ軍のシベリア出兵は続き、近在の生産拠点、補給拠点となった日本は、戦後不況からシベリア特需に沸く事になる。

 

 もっとも日本政府は、アメリカ主導による極東共和国を強く懸念していた。

 日本ばかりでなく、イギリスなど欧州列強も警戒を強めた。

 全ての者が、アメリカが北の大地に橋頭堡を固め、そこからチャイナへの進出を強めるのではと警戒したからだ。

 特に近在の対岸にアメリカの勢力が居座る事になる日本の警戒感は強く、極東共和国問題をいち早く発足したばかりの国際連盟に提訴した。

 しかも裏では、ソ連を暗に国家として認める事でソ連側と裏取引までした。

 

 そして「ポ=ソ戦争」で敗北したソ連は、貧弱という言葉すら不足する極東防衛の実状もあり、極東共和国の独立を領土を大幅に返還(ザバイカル地区の返還)させた後に改めて承認する。

 そして極東共和国は、アメリカの意向を無視して国連加盟に向けて動き出した。

 つまりソ連は、極東を自国ではない独立国として、事態そのものを列強を経由して国際連盟に丸投げしたのだ。

 

 事態が国連に移った時点で、国連に参加していないアメリカの軍の長期駐留は政治的に難しくなる。

 かくしてアメリカの非難する中、国際世論から撤退に追いやられたアメリカ軍と入れ替わるように日英を主とする国際連盟の監視団と最低限の警備部隊が再びシベリア入りする。

 そして彼らは国家運営の監視に入り、1923年に極東共和国内で総選挙が実施される。

 

 こうしてアメリカの余りにも強いアジアへの欲望が、旧帝政ロシアからもう一つ国家を誕生させるに至る。

 そしてアメリカは、世界に対して強い帝国主義的側面を持つことを印象づけてしまった。

 

 なお、最終的にアメリカ軍が撤退したのは、総選挙前の1922年11月初旬。

 以後の国家運営と国土防衛は、ソ連ではないロシア人により国家運営が紆余曲折の中行われ、ソ連、日本、英国の干渉を受けつつも、緩衝国家として歩んでいく事になる。

 

 その領土は、建国時の極東共和国から大きく減退した。

 ザバイカル州ばかりでなくオホーツク海沿岸なども返還したからだ。

 結果領土は沿海州、アムール州のみとなり、初期の総人口は100万人に届く程度で、主要な産業も貧弱な小国だった。

 

 建国後は、日英そしてアメリカの資本投下と進出、ソ連からの大量の亡命、様々な地域からのロシア系移民により相応の発展を示した。

 おかげで建国から20年の間に、人口は約5倍になった。

 国富も旧ロシアの逃亡資産の多くが人と共に移ってきた事もあって、数十倍にも膨れあがっている。

 また、旧ロシア勢力の多くが粛正を逃れ移り住んでおり、教会、貴族、富豪、コサックなど旧ロシア的なものを許容するロシアとして国家運営されていく事になる。

 ただし、皇帝が再び帝冠を頂くことだけはなかった。

 



■ジュネーブ海軍軍縮会議

 「ネイヴィー・カーニバル(海軍祭)」


 一九一八年夏、ドイツ帝国崩壊による第一次世界大戦の終了と共に世界に平和は訪れた、筈だった。

 

 しかし、大戦前後から始まっていた日本とアメリカによる艦隊建造競争が太平洋で加熱しつつあった。

 

 当時、艦隊建造競争をリードしていたのはアメリカ合衆国だった。

 彼らは、第一次世界大戦による好景気で大きくなった国富と工業生産力にものを言わせて巨大な計画を推進した。

 戦中はドイツへの対抗上、戦後は戦争で巨大化した日英の軍備に拮抗させると言う政策の元、「三年計画」もしくは「ダニエルズ・プラン」と呼ばれる艦隊建設計画を推進した。

 同計画は、アメリカ自身がまともに大戦に参加しなかった事で当初はゆっくりしたペースで進められていた。

 そして結局戦争には積極参加しなかったが故に、景気拡大の煽りを受けて順調に進捗した。

 

 一方、大戦中は戦艦よりも護衛艦艇や輸送船建造に大きな努力を傾けなければいけない日本の焦燥は、極めて大きなものとなりつつあった。

 

 当然と言うべきか戦後の日本は、アメリカの艦隊建造に対抗するため、一大建艦計画である「八八艦隊計画」を強力に推進した。

 しかも戦後の日本は、経済力も生産力も開戦前の倍以上の規模に拡大しているため、巨大な計画の早期推進が可能となっていた。

 そして日本の動きがアメリカの艦隊建造速度を上昇させると言う悪循環を繰り返した。

 

 これを世界戦略的に憂慮したのが大英帝国だった。

 

 英国は、大戦後の国際平和の風潮をうまく利用し、一九二一年一度は両者を海軍軍縮会議のテーブルに着かせることに成功する。

 ただし、自らの外交失点から対英対日不信が大きくなっていたアメリカは、英国に対する同比率を要求し、日本には対米英六割を強く求めた。

 アメリカの対応には、会議の時点ですでに多数の艦艇が建造中という現実的理由もあったが、そのような条件を到底日英両国が認める訳にはいかず交渉は決裂してしまう。

 

 その後、日米は既存艦艇の建造速度を上昇させると共に、さらなる建造計画の立案すら行い、対決姿勢を強くしていた。

 

 だが、この日米両国の建艦競争に、ドイツと既に同様の事を行った英国は、交渉決裂後もねばり強い交渉を続けて軍縮会議の仕切り直しを画策した。

 

 英国が競争についていく体力がないという危機感が交渉の実を結ばせ、最初の会議失敗から三年後の一九二四年に「ジュネーブ海軍軍縮条約」の締結に成功する。

 日米も、軍部や軍需に関わる一部の者以外は、不要なまでの海軍拡張競争に嫌気がさしていたのだ。

 

 同条約自体は、後世厳しい批判にさらされ実行力のあまりない条約とされた。

 だが、それでも世界初の軍縮会議であり、軍拡に最低限の歯止めをかけることには成功した。

 結果として、米英日全ての国の政府首脳と財務官僚がこの条約締結に胸をなで下ろしている。

 

 だが、副産物として日本、アメリカではそれぞれ16隻、イギリスでは8隻(正確には12隻)の巨大戦艦が誕生した。

 それは、条約締結以後四ヶ月に1隻のペースで世界のどこかで4万トンクラスの巨大戦艦が誕生する時代、「ネイヴィー・カーニバル(海軍祭)」と呼ばれる巨大戦艦時代の幕開けだった。

 

 そしてそれぞれの海軍大国が抱えた空前絶後の巨大戦艦群は、インパクト故にその後の世界政治を動かす一つの大きな力となっていく事になる。

 



■世界大恐慌

 「ブラック・サーズディ」


 一九二九年十月二十四日、アメリカ合衆国ニューヨーク市のウォール街で株の大暴落が始まり、それを機会として世界中が不景気へと突撃していった。

 

 まだ未成熟だった資本主義社会は、不意に発生した敵の大攻勢を止める手だてはなく、ただただ場当たり的な対応をするしかなかった。

 しかし場当たり的な対応は、恐慌を押しとどめるどころか彼らに豊富な補給物資と進撃路を提供することになり、世界経済はどん底へとばく進する。

 

 この大恐慌に対して、多くの植民地を抱える英仏などはブロック経済と呼ばれる閉鎖貿易体制を確立。

 強固な要塞を頼ることで不況の大攻勢を防ごうとした。

 

 またアメリカは、巨大な国内経済に対して、これを受け入れる市場を持たない事から、大規模公共事業などによる内需拡大で乗り切ろうとした。

 しかし、状況把握が甘かったため、中途半端な政策は傷を大きくするだけだった。

 おかげでアメリカの生産力は、たった二年で最盛時の7割にまで落ち込んでしまう。

 また、不用意に拡大していた軍備も、国家予算を引っ張って景気回復失敗の一因となっていた。

 

 いっぽう日本は、支那・満州利権を通じて英スターリング・ブロックに一部つながっていた円ブロック(満州、韓国など)を利用し、小さいながらも砦を作り上げて嵐が過ぎ去るのを待とうとした。

 

 加えて日本は、世界に先駆けて金融不況(1927年発生)に入っていた事がむしろ幸いして、不況の波をいち早く押し止めることに成功していた。

 さらに世界屈指の財政家である高橋是清の長期にわたる適切な対応により、国債を元手とした傾斜生産という当時の経済常識から外れた政策を断行して不景気からいち早く回復した。

 アメリカのケインズの考えを継承する「ケインジアン」に対して、より実践的な「コレキヨイズム」という言葉すら生まれたほどだ。

 

 そして近隣の国際不安につけ込んだ武器輸出による外需と、公共投資による内需拡大で大恐慌の翌年にはV字回復と言われた好景気にすら入り、その後も順調な景気拡大を継続していた。

 この予想外の好景気を受けて、日本海軍などはさらなる軍事力の整備すら開始したほどだ。

 

 いっぽう、戦後二度目の不況により頼みの綱のアメリカからの投資がアテに出来なくなったドイツは、恐慌の大攻勢をまともに受ける事になる。

 結果、民衆の不安は限界を超えるレベルにまで増大した。

 人々は心のゆとりを完全に無くしてしまい、人種差別、民族差別が平然と横行する異常な社会不安の中、全体主義という魔物の出現を促す温床が醸成されていく。

 

 そして混沌の縁の中から現れたのが、後の世界史を左右するアドルフ・ヒトラーという存在だった。

 

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