歴史転換点・詳細(2)
■第一次世界大戦まで
「借金返済」
日露戦争中の露清密約を偶然から知った日本政府は、英国の調停を受けて清国と戦勝国と敗戦国という立場で交渉を行う。
またも敗者の側につかされた清国だが、義和団事変(北清事変)での莫大な賠償金(四億両)もあって既に金銭での賠償能力はなかった。
当時の清国は、他国から借金する力すらなくしていたのだ。
仕方なく、日本に領土割譲を行う。
割譲対象には、皮肉にも日清戦争で争点となった遼東半島全域が充てられた。
加えて、遼寧省の各種日本利権も九十九年契約に変更された。
これでロシアから割譲された領土を含めて日本領土は一気に領土が広がる。
使える地下資源も増え、開発のためにも外地での外資受け入れ機運が出来てくる。
何しろ日本には金がなかった。
このためもあって、日露戦争で同盟関係にあり幾多の支援を行った大英帝国に対して、同盟への感謝の意味をこめて利権の一部を開放した。
いっぽう、ロシアとの講和の仲立ちを行ったアメリカ合衆国に対しては、日露戦争の前後して結ばれたアメリカとの口約束(鉄道に関連する利権)を土壇場で大幅に縮小した形(純粋な鉄道経営に対する資本参加のみ)でしか実現させず、以後の日米関係に小さな光と大きな影を落とす事になる。
一見ハリマンとの口約束を果たしているのだが、南満州鉄道の資本参加には、日本、アメリカ以外にも英国など多数が参加していたからだ。
また、多額の借款(戦費そのものは二〇億円以上にのぼっていた)をしていた日本政府は、満州、韓国の権益を大英帝国との共同保有を行い、膨大な借款の返済と猶予に当てる。
さらに勝利したものの、ひどく陸軍力を消耗した日本は、安全保障の一部肩代りを英国に依頼せざるをえない状態となる。
これも、大英帝国に韓国・満州の市場を開放しなければならない理由ともなっている。
英国がいれば、ロシアが南下する可能性が激減するからだ。
これらの大英帝国に対する市場開放と、朝鮮半島での日本勢力減退を国民に説明するため、日本政府は国民に説明した。
大英帝国は、同盟国であるばかりでなく莫大な戦費の借款があり、これを恩義ある国々に返済するのは当然で、さらに同盟国にあるのだからと。
以後かなりの期間、同じ論法で『日英協調』を日本の国是とし、日本の親英外交姿勢は太平洋戦争まで続くことになる。
そして宣伝の副産物に、日本が戦勝当初思っていたような圧倒的勝利ではないと国民に教え、さらに日本国民に日本と日本を取り巻く国際環境について考えさせるようになった。
つまり、日清戦争が国家というものを日本人に意識させた戦争であるなら、日露戦争は世界というものを日本人に認識させたと意義づける事もできるだろう。
一方で、白人国家に分類されるロシアに対する日本の勝利は、世界中の有色人種、非白人種を勇気づけた。
世界各地の独立運動家や独立運動グループが、同じ有色人種と言うことで日本をあてにするようにもなった。
日本も、脳天気にこれらを受け入れた。
これが後々欧米主導の当時の国際社会からの孤立を深くし、英国との関係を疎遠なものとしていく大きな道標となっていく。
だがこの頃の英国は、自らの国家戦略としてアジアの番犬として日本を位置付けていたので、日本の「増長」はある程度は容認されていた。
また、この後イギリスの満州・朝鮮半島、支那進出による資本流入と、当地で必要とされるイギリス資本の現地発注先としての経済波及効果と、第一次世界大戦の影響で日本の重化学工業が大幅に伸張した。
また、外資の効果によって、満州・韓国の社会資本の急速な整備も進む。
そして当面の安全と市場を得た日本は、自国の軍縮に合わせる形で政府主導の武器売買を推し進める。
これは日本政府が思った以上の外貨と国内の景気拡大をもたらし、以後可能な限り計画的な武器売買に日本政府を傾かせ、日本の発展に少なからず影響を与えていく。
いっぽう、安易な支那市場参加ができなかったアメリカは、日本が開いた僅かな隙間から強引な進出を行うようになる。
そして、当初こそアメリカ資本の満州参入は好意的に受け入れられたが、次第に露骨で大規模な進出が目立つようになり、日本の対アメリカ感情は四半世紀の時をかけて悪化していくことになる。
特に自らの関税障壁を棚に上げて支那市場の開放をうたい、何かと亜細亜での影響力拡大をしようとするアメリカに対する日本政府及び日本人の不信感は日に日に増大した。
このため日本の満州外交は、イギリス(+ロシア)と何かと連携する向きを強くし、中華の中央政府(清国、後に中華民国)も列強間のパワーバランスを見つつ、外交的に孤立しているアメリカ叩きの方向を強めるようになる。
この国際的流れは、成功に浮かれた日本の増長とアメリカのより強引な市場進出をさらに促される。
そして、日本が東アジア、西太平洋一帯を完全な勢力圏とした第一次世界大戦後、日本の動きに反発するアメリカとの対立が明確になり、双方の大幅な軍備増強につながっていく。
太平洋戦争の原因の一つに、日露戦争後の日本の中途半端な対米市場解放があったとされるのはこのためだ。
■第一次世界大戦
「帝国陸海軍西へ」
誰もがよく分からないまま勃発した第一次世界大戦。
この未曾有の戦争に際して日本は、日露戦争後も多くの借りをイギリスに作った事もあり、即時参戦の用意と近隣地域への利権不拡大を表明。
さらに、状況によっては欧州への派兵用意ありと伝える。
そして根回しの後行われた日本の宣戦布告は、英仏からの絶賛をもって迎えられた。
宣戦布告後の日本は、いち早くアジア・太平洋の同盟軍(ドイツ軍)を撃破し利権地域を占領する。
その後は、ドイツの支那利権を列強各国との協議の上で、日本軍の占領統治ながら利権や領土を国際的に保留状態に置く事を忘れなかった。
中華民国政府とは、わざわざ国際約束を交わしたほどだった。
何しろ日本としては、遠方へ大挙派兵すると決めた以上、自分たちの近所で厄介ごとを抱えたくなかったのだ。
そして一九一五年初頭には、英仏の大幅な援助と支援、兵站負担を取り付けた上での大軍派兵を決める。
英仏の消耗が激しくなった一九一六年に入る頃になると、ほとんど英仏の負担で続々と欧州大陸に動員の完了した陸海軍部隊を送り込んだ。
国内の一部で上がった日本本土の守りをどうするのかという声には、列強は誰も欧州で手一杯で全く問題無しと、時の政治家、軍人達は言った。
相応の規模に育っていた財界も、膨大な外需による特需に加えて国内でも日露戦争以上の戦争特需が舞い込むのだから、派兵を拒絶する理由はどこにもなかった。
兵士を多数出さねばならない農村を除く誰もが、未曾有の戦争に第三者として参加できる喜びに打ち震え、終わる気配すらない戦争特需を建国以来の慶賀と捉えた。
なお日本軍の派兵数は、日本の国力的限界と軍動員能力や輸送力の低さもあって、一九一五年当初は一個軍団3個師団、延べ人数でも7万人ほどに過ぎなかった。
だが、日本国内での準戦時体制構築と英仏の悲鳴のような要請と共に、派兵数は徐々に増えた。
一九一八年春までに欧州の地へと足を運んだ兵士の数は、約70万人にも達した。
特にロシア革命以後送り込まれた数は多く、派兵数全体の四割以上に当たる50万人にも達していた。
これらに、本国警備や交替のため動員されたものなどを含めると、日本が動員した兵員数は日露戦争を大きく上回る、約150万人にも達している計算になる。
また、海軍や軍属など10万人近い日本人が欧州各地に派遣されており、欧州の地を踏んだ日本人の数は百万人を優に超えていた。
1917年になるとアメリカが遂に連合軍側で参戦したが、日本の大軍の存在のため、もはや一から編成しなければならないようなアマチュア集団の米陸軍の大軍の必要はなかったほどだった。
また、英仏特にフランスは既に日本に多数の援助と武器供与をしているため、アメリカに対して多くを提供する事が出来なかった。
このためアメリカの戦時動員及び派兵の動きも鈍く、最終的に日本よりもずっと少ない30万人ほどの兵力を派兵したにとどまり、時期も遅かった事もあってほとんど活躍もなかった。
アメリカの貢献は、物資と資金だけと言われたほどだ。
一方日本政府は、積極参戦の見返りとして日本に対する兵站物資、商品の大量発注取り付けと、欧州派遣軍の兵器・戦費の無償供与を英仏などに認めさせた。
おかげで日本のGDPの伸びは、一九一四年から向こう五年間の平均が14%以上に達し、最大20%を越えた。
そして日本列島にそれまでの二倍の国力と三倍の工業生産力を与え、軍の近代化も達成させていた。
一方で、1916年頃からは欧州の戦時国債をアメリカと競うように購入し、開戦前の債務国から一転して一大債権国へと躍進していた。
日本の貪欲さにいささか辟易とした連合軍各国だったが、遠方から大軍を出していることは認めなければならなかった。
それにかつてロシア軍を破り訓練の行き届いた日本軍精鋭を欲したため、ほとんど全てが無条件で受け入れられた。
日本国内では、百万の兵士を人身御供として、未曾有の戦時特需に沸き返ったのだ。
そして日本軍は、欧州の期待に背くことなく戦場で大きな活躍を示し、兵士達の献身的活躍によって連合国各国の感情も緩和され、欧州諸国に対等に付きあうべき相手として認識させるようになった。
逆に、次に戦争があった時、いかに日本軍を敵にしないかを考えさせるようにもなったと言われ、特に敵手となったドイツにおいて顕著だったとされる。
もっとも英国人にとっては、少し割高だが大勢でやって来たグルガ兵でしかなかった。
この人種差別から来る奢りと欧州人全般の一般的反応が、拭い去れない反英国、反欧州感情を日本人の間に植え付け、後の同盟破棄へとつながっている。
なお、日本の今次大戦での戦術的な点を取り上げるとするなら、その活躍は枚挙にいとまない。
比較的早期の一九一五年秋頃に地中海や北海に派兵された海軍は、史上最大の海戦となった一九一六年のジュットランド沖海戦に英国艦隊の一部として参加した。
最新鋭の超弩級戦艦・超弩級巡洋戦艦合わせて6隻を主力とする聯合艦隊・遣欧艦隊は、当初後詰めとして少し後方に位置していた。
だが戦闘後半の追撃戦の段階で、偶然にも英本国艦隊とドイツ大海艦隊を挟撃する位置に出る。
しかも日本艦隊側にドイツ水雷戦隊がいない事、ドイツ艦隊にとって6隻もの超弩級戦艦群が奇襲攻撃となった事が重なり、有効な打撃を与えることに成功した。
結果として、自らの損傷と引き替えに独巡洋戦艦一隻撃沈、一隻撃破、旧式戦艦三隻撃沈破の多大な戦果をあげる。
そしてドイツ主力艦隊の拘束に貢献し、海戦そのもののスコアを連合軍の勝利に導いたのが目立つ事件だろう。
なお、この北海での聯合艦隊の成功で、日本海軍内において大艦巨砲主義がますます強い考え方となっていた点は無視できない。
14インチ砲五十六門の一斉射撃と統一された艦隊速力と艦隊運動こそが、文字通りドイツ海軍に打ち勝たせたからだ。
また、太平洋・アジア地域=インド洋=地中海と続くシーレーン(海上交通)にて、ドイツのUボート・通商破壊艦と激しい攻防を繰り広げた。
特に初戦において苦い経験をしたが、そのおかげもあり、戦争中盤より海上護衛が(初めて)重く見られるようになる。
いっぽう数における大多数の派兵となった陸では、有名なベルタン要塞戦やソンムの戦いの頃に一個軍(方面軍)規模の陸軍が二級の戦線ながら本格参戦し、有色人部隊として初めて連合軍の第一線を担って連合軍の兵力不足を補った。
そして一九一八年春までに大幅な増員を受けた日本軍は、一個軍集団、三個軍、約三十個師団近くにまで膨れあがった。
もはや西部戦線では、英仏に次ぐ兵力だった。
そして優秀な将兵と英仏の優れた兵器を加える事によって、一九一八年春のドイツのカイザー・シュラハトの挫折に大きな影響を与え、結果論的ではあるが戦争の決定打となったと言われた。
戦場でも、一九一五年末頃の初戦の損害を受けた中盤以降は大いに活躍した。
ただし、ある意味でドイツ陸軍は自らの一番の生徒と戦う羽目になったのだから、日本軍の活躍は順当な結果と言うべきかもしれない。
ちなみに、日本海軍による思わぬ反撃を受けジュットランド海戦で結果的に敗北を喫したドイツ海軍は、その後積極的に巻き返しと復讐を図ろうとした。
しかし何度か艦隊丸ごと出撃したが、北海特有の霧の多い悪天候と互いの誤認により二度と大規模な戦闘が発生する事はなく、しだいに積極的な攻勢に出る力をなくしていった。
しかも、水上艦隊が積極的に何度も出撃した事から、後のしわ寄せが通商破壊部隊にいった。
主力艦隊への努力で、特に初期における活動が停滞せざるを得なかった通商破壊戦は、連合国側に海上護衛体制を作らせるスキを与える結果を生んだのだ。
また日本海軍が戦争中盤より多くの護衛艦艇を各地に派遣した事も、通商破壊阻止に役立った。
結果として、連合国は英本土のシーレーンの防衛に何とか成功し、ドイツは相対的な戦争経済の崩壊により内部から崩壊、降伏する事につながる。
つまりは、ドイツにとって完全に想定外の戦力だった日本軍の存在と活躍が、ドイツの敗北を呼び込んだ大きな一因だったと言えるかもしれない。
なお、戦後開かれたベルサイユ講和会議で、日本は大軍を派兵した事で影響力を増し、当然ながら戦勝の「分け前」としてドイツから多くの賠償を得ることにになる。
賠償金は全連合軍に対する1320億マルクのうち、3%分の約40億マルク。
これを日本は、兵器など現物(兵器及び工場施設など)で半分受け取る事で決着した。
加えて、ドイツが太平洋地域に持っていた植民地のうち、マリアナ、マーシャル、パラオ、カロリン、ビスマークを得た(※東部ニューギニアと西サモアはオーストラリアが得る)。
ただし、ドイツが中華民国山東省に持っていた利権に関しては、同地域を攻略した日本側が権利を放棄し一応連合軍側に参加した形の中華民国に返還されている。
ただし、賠償金及び賠償物は、ドイツ経済の崩壊とその後の賠償額減額などにより、他国と同様に一割ほどしか受け取れていない。
また英仏から援助してもらった戦費の合計金額は、自国が負担した金額(約30億円)より大きかった。
さらに英仏から供与の形で得た兵器の金額総計は20億円分にも及び、全てを合計した場合の日本の収支決算はプラスとなっている、とされる。
無論、交易や戦時国債購入などによる利益を除外しての話である。
かくして日本帝国は、国力、工業生産力、財力、国際影響力、そして軍事力の面で本当の意味での一等国として世界で頭角を現すことになる。