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歴史転換点・詳細(1)

 ここで紹介するのは、日本が深く関わった国際的事件、戦争行為を過去日本が遭遇した歴史的大事件を主に軍事面から見た場合の象徴的な出来事をまとめたものです。

 そこで、多少文面も変更しています。

 



■日清戦争

 「賢者の提案」


 西暦一八九四年に勃発した日清戦争の末期、日本軍が威海衛、旅順を攻略完了して実質的に戦争に勝利した。

 この段階で、互いの政府は講和すべく歩み寄りを見せる。

 清政府・軍は足腰立たないほど弱体化しており、元々経済基盤が弱体な日本も戦費と兵站に悲鳴をあげ始めていたためだ。

 

 幸い列強各国も調停に乗り出しており、誰もが戦争の潮時と考えていた。

 特に、日本が勝ちすぎたと考えていた列強は、清に賠償金のための借款(純金による法外なもの)を申し入れるなど根回しに余念がなかった。

 何しろ列強にとってはチャイナ蚕食のための準備運動だから、手を抜くことなど出来よう筈なかった。

 列強にとっては、日本が勝つことよりも、清国の国土を保全したまま、借金まみれにして体力を奪うことの方が重要なのだ。

 そう弱小国同士の戦争の幕引きには、領土割譲は最低限として自分たちの為にも弱い方の領土は残すべきだった。

 だからこそ、ソヴリン金貨の山を清国に貸し付けようとしたのだ。

 また、勝者側にも勝者としての節度と資格があるかどうかを見定めるためにも、適度なところで戦争が終わるのが望ましかった。

 

 しかし1895年1月に清国の李鴻章の到着と共に始まった日本・下関での講和会議は、同3月20日に日本の強硬姿勢で一旦は決裂する。

 争点は、日本が戦勝時の基本である領土割譲(遼東半島)にこだわったためだ。

 

 これにより日本は、真剣に首都北京への進軍を考え、極東及び満州に軍を進め始めていたロシアとの対立姿勢を強めるかに見えた。

 しかし、日露の激突も北京陥落による清政府の瓦解も嫌った英国が、日清双方に強く提案を行う。

 

 当初、講和の争点は以下の通りだった。

 


一、清は朝鮮の独立を認める。

 

二、清は遼東半島・台湾・澎湖島を日本に譲渡。

 

三、清は賠償金二億両を金で(一括で)支払う。

 


 これをイギリスは、当初遼東半島割譲を日本が取り下げ、賠償金一億両(純金換算で百トン)上乗せにしようと提案した。

 これまでの通例から、戦費と同額の賠償金を求めるのが筋だから、と。

 しかし日本は、領土割譲を譲らない政府主流派に流され引き下がらなかった。

 しかも主流派は、勝利に乗じて北京進撃も強く主張しており、このままでは戦争が長期化する恐れも出ていた。

 

 そうした中、日本の伊藤博文と陸奥宗光は、清国の李鴻章、英国、日本国内の政府・軍部を駆け回り、将来のロシアへの脅威、朝鮮利権の完全確保、英国との関係強化を理由に国内の強硬意見を封殺する。

 

 イギリスも、日本の講和促進のため清国をさらに押して、遼東半島の代わりの賠償の大幅上乗せで対応させた。

 清国も父祖の地の一部を東方の蛮族に渡すよりはと、イギリスの申し出を受け入れ莫大な借金を行って賠償金を整えた。

 

 かくして再開された下関講和会議で、清国は朝鮮半島の宗主権を失ったばかりか、台湾島の割譲、戦時賠償金として日本に四億両(テール・英ポンド金貨支払い)の支払いを受け入れる講和条件にサインする。

 

 だが、満州族の父祖の地に属する遼東半島割譲を日本が取り下げた事は、清国政府と李鴻章の名誉をごく僅かだが救ってもいる。

 だからこそ、四億両もの賠償金を清が即金で用意したとも言えるだろう。

 

 しかし戦後、遼東半島を日本が得なかった代わりに、今度はロシアが清国の借款の一部肩代わりを表面的理由に遼東半島先端部を租借した。

 当然ながら日本の対ロシア世論は激昂した。

 朝鮮に鉄道・電信の敷設権に加えて軍駐留権を得ていた日本は、漢城への陸軍一個旅団駐留と、仁川の艦隊常駐を開始。

 終戦すぐにも、ロシアとの対立姿勢を鮮明にする。

 事が国土防衛だけに、日本も譲るわけにはいかなかった。

 

 また、下関条約で独立し、日本軍の有力な駐留を受けた朝鮮政府は、イギリスの仲介のもと清国からのコントロールを離れて親日親英姿勢を強化。

 当面はロシアの顔色を伺いつつも、日本やイギリスの援助を受けながら、国軍の編成と国家体制の建設を彼らなりに始める事になる。

 



■日清戦争後「臨時収入」



 戦費より多い四億両、約六億円もの賠償金(※平時国家予算の約7倍半。

 純金四百トン)を得た日本政府は、まずは金塊の多くを国庫に納めて自国通貨「円」による金本位制度を確立した。

 続いて、「円」の国際信用力強化を受けて、列強からの低利による借款(国債発行)を行った。

 この借款には、主にイギリスとアメリカが主に応じ、他にも感情的親日国家やロシアと敵対する国々も多くが応えるなど、日本政府が思っていた以上の資金が短期間に集まった。

 イギリスなどは、これを見越していたからこそ清国に対する賠償金の借款に応じていたのだ。

 

 そして日本は、膨大な量の余剰資金を、主に重工業の建設と軍備の大幅な増強に投資する。

 当時の日本に何より不足していたのは、大規模重工業と欧米列強と対等に付きあうための軍事力だったからだ。

 そして全く自由に使えるお金により、国家予算を遙かに越える余剰資金を元手に得た事は、当時の日本にとって平時二十年分の軍事予算を得たも同然だった。

 それを思えば多少の借金など物の数ではなかった。

 

 そして日本政府は、日清戦争終末期以後の動きからロシアが仮想敵として最有力だったため、国防の主軸である海軍はもちろん陸軍にも相応の予算が傾注される。

 

 これにより陸軍では、師団増設(倍増)に合わせて大阪造兵・砲兵工廠の大幅拡張と同時に重砲兵旅団の増強が行われた。

 合わせて日清戦争後半の砲弾不足を教訓として、有事の際の砲弾備蓄も進められ、陸軍全体の火力装備の可能な限りの充実を推進した。

 これが日露戦争で砲弾の供給をある程度円滑にし、日本勝利の原動力となっていく。

 (※開戦時で、各砲の一会戦分は500発、各種砲弾百万発の備蓄が確保される。)

 そして、清国にとっての致命傷となった義和団事件以後、露骨な極東進出を進めるロシアに一国で対抗できない日本は、ペルシャなどでロシアと対立していたイギリスと利害関係の一致を見て、一九〇二年成立の日英同盟へと至る。

 

 そして、賠償金による臨時収入を足がかりとした日本は、約十年間血のにじむような努力の末に、有力な近代軍と重工業の建設に成功。

 ロシアとの対立姿勢をより強硬なものへとシフトし、自ら剣を抜き放つ形での開戦に至る。

 



■日露戦争「猛将乃木」



 乃木希典元帥は、日露戦争では第三軍を率いて旅順攻略を行い、さらに戦争後半は大山・児玉両名のもと満州の荒野を駆け巡り、日本陸軍随一の猛将としてロシア側から恐れられた。

 乃木の名を聞いただけで、勇猛なコサック兵が震え上がると言われたほどだ。

 

 彼の猛将ぶりは、ハルピンでの最後の大会戦でもいかんなく発揮された。

 旅順で培った彼の軍団の尋常ならざる防戦の末、日本軍の全面崩壊を救っている。

 この点から、乃木は猛将というよりは強い意志の持ち主だったと言えるだろう。

 

 なお、沙河、奉天での戦術的敗北を受け、ハルピンで本来の計画に従い反撃に出たロシア軍は、乃木のあまりにも苛烈な防戦(※旅順戦で学んだ野戦築城と塹壕帯から繰り出す機関銃の弾幕射撃、そして歩兵に対する重砲弾幕射撃)に恐れを抱き後退。

 その間日本軍主力が戦線の立て直しに成功し、これが結果的に勝利へとつながったのだ。

 

 そして戦後、苛酷な日露戦争の経験から、乃木将軍は明治天皇への拝閲の際に上奏した。

 

 四方を海に囲まれた日本の陸軍は、大陸国家との直接対決は極力避け、防衛陸軍を旨とすべしと。

 

 乃木の言葉は、もとは親友だった児玉源太郎の遺言とも言えるものらしく、乃木の語った言葉はもっと柔らかく、間接的なものだったと言われている。

 だが、日露戦争で最も活躍した「猛将乃木」、「軍神乃木」の言葉だったため、その後の日本陸軍の方向性を決定づけることとなった。

 これは、後に乃木の子息を中心に派閥が形成される事にも至っている。

 

(※もちろん、あまりにも凄惨だった陸戦の記憶と、現実の損害が最大の理由です。

 彼の発言は、この方向に若干の軌道修正を強いたに過ぎませんが、象徴的出来事とされています。

 また、乃木の息子は史実とは違う戦況変化で、一人生き残っているとします。)


 乃木と彼の発言による日本陸軍の行く末はともかく、日露戦争全般は二〇世紀初めての大規模国家間戦争に相応しく、鉄と血が全てを決する限定的な総力戦となった。

 

 典型は旅順要塞攻防戦と、日本軍の砲弾の有無、機関銃の差が勝敗を決した沙河、奉天、そしてハルピン前面での戦いだ。

 

 人事の偶然から工兵出身の参謀長を得た第三軍の乃木は、旅順に対して早くから塹壕戦術と工兵による坑道爆破、重砲兵による要塞破壊戦、つまり対要塞消耗戦を開始した。

 消耗させる以外、近代要塞を屈服させる方法が存在しないからだ。

 これに対して、最初から孤立し補給と補充を絶たれた現地ロシア軍は、無為に積み重なる日々の損害を前に、早期に焦りを強めて自ら要塞を出て出戦。

 日本軍陣地から降り注ぐ弾幕の前に、自ら消耗を重ねることになる。

 (※史実で第三軍参謀長だった伊地知は、日本軍全体の重砲兵拡大に伴い、そちらの責任者の一翼に就任している。)

 結果旅順要塞では、乃木第三軍主導の消耗戦が展開され、海軍の沿岸重砲すら投入して旅順艦隊壊滅も比較的早期に達成された。

 そして日本軍による二度目の総攻撃でそれ以上耐えられなくなった同要塞は、攻防戦開始三ヶ月後の十一月に降伏開城を余儀なくされる。

 旅順にはまだ食料、弾薬は豊富だったが、ロシア軍が人的損害を補充できなかったのが勝敗の決め手だった。

 負傷と壊血病などで健常な兵員が減少し過ぎて、要塞防衛に最低限必要な人員がいなくなっていたのだ。

 

 いっぽう満州平原の戦いは、初期の激突から流動的なものとなった。

 

 八月の遼陽での戦いでは、日露の兵力差とロシア軍が後退したという戦闘だったため追撃も思うに任せなかった。

 辛うじて、第一軍の増援で戦線側面に到着した日本軍重砲部隊の攪乱射撃が、自らの誤断で整然と後退を始めていたロシア軍隊列を突き崩し、限定的な日本軍の追撃戦にできた。

 

 だがロシア軍全体が崩れる事はなく、また日本軍に追撃の余力がないためそのまま沙河での対陣となる。

 

 そして日本軍の非力と自軍の戦力強化を受けたロシア軍が大規模な攻勢を開始。

 十月に沙河会戦を迎える。

 

 ここで日本軍は、塹壕、鉄条網、砲兵、そして機関銃陣地群による徹底した防戦を展開。

 陣地を出て突撃してきたロシア軍に大損害を与えることに成功した。

 

 しかも砲弾の大量供給がこの会戦に間に合い、日本軍は比較的豊富な鉄量を持って反撃に転じる。

 これによりロシア軍の右翼が瓦解。

 多くの死傷者と捕虜、遺棄物資を出して大幅に後退した。

 日本軍は、逃げ遅れた一部を捕虜とすると同時に、奉天前面まで大きく前進することができた。

 

 続く十一月の奉天での大規模な会戦でも、本国からの大幅増援が間に合わなかったロシア軍を、攻撃的な日本軍がロシア軍の後退戦術に乗る形で撃破した。

 

 奉天では、運動戦を旨とする日本軍が、欧露からの増援到着前のロシア軍に決戦を挑んだ。

 そしてロシア軍(司令官)の定見がなく腰の定まらない戦闘と戦場の偶然から、戦闘の終盤にロシア軍主力部隊の分断・包囲攻撃に日本軍は成功。

 約十万のロシア兵を戦死・捕虜にし、一時的に壊滅的打撃を与える事に成功した。

 しかも敗走する半数以下にまで激減したロシア軍主力を追いかけるだけの形の日本軍進軍は続き、難なく放棄された長春を抜けて、遂にロシア軍最大の拠点ハルピン前面までに至る。

 

 日本政府は決戦勝利と旅順陥落もあって、この時点で英米に講和の仲介を強く働きかけ始めるが、ロシアが講和に乗ることはなく戦いは続いた。

 

 この間日本軍は大幅に伸びた補給線の確保に大いに苦しむが、ロシア軍が攻勢に出る余力がない事もあり数ヶ月の間になんとか補給線を確保し、冬ごもりする事ができた。

 

 そして冬営を挟んだ翌年三月、ロシア最大の拠点ハルピン前面での三度目の決戦、ロシア軍との最後の決戦に日本軍はかろうじて勝利した。

 戦闘の経緯と結果はせいぜい痛み分けなのだが、東清鉄道(シベリア鉄道)を日本軍が抑えた事が戦闘の決め手となった。

 

 加えて、日本海海戦による日本海軍の歴史的勝利と、純粋なロシア領とされる樺太島の占領、ウスリー州に対する形だけの侵攻、さらには当時親日的だったアメリカ合衆国の調停によりなんとか講和に持ち込むことに成功した。

 

 つまり戦争の結果は、当初当事者たる日本人ですら予測しなかった日本軍の勝利だった。

 

 もっとも、無理を重ねて連続した攻勢作戦のため、終戦時の日本陸軍は実質的に壊滅的打撃を受けていた。

 このため、ロシア側が真実を知っていなかった事が陸上での最大の幸運と呼ばれている。

 (※なお海での幸運は、数え上げればきりがないので特に限定されていない。)

 なお以下が、アメリカ、ポーツマスで開催された講和会議での条約内容である。

 


ポーツマス講和条約

・樺太全島の日本への割譲

・北緯六十度以南のカムチャッカ半島及び周辺部島嶼の日本への割譲

・南満州のロシア利権の日本への譲渡

・韓国の独立の保証(再保証)

・遼東半島の租借権の日本への委譲


※日本軍がハルピンまで攻め上ったので、史実よりもたくさん利権を獲得します。

 

 当時の満州情勢だとハルピンを占領せずとも押さえられるだけで、ロシアは純軍事的に満州どころか極東全域を封じられたも同然です。

 何しろこの当時は、アムール川周りのシベリア鉄道は工事すらされていません(※一九一六年完成)。

 日本としても、国防のため満州からロシアを排除し自ら保持し続けたいので、ここが一番の争点となるでしょう。

 

 普通に考えれば、日本が満州全土の利権を日本が獲得するのが(欧州的な戦争の決着の付け方としては)一般的な落としどころです。

 ですが、ロシアにもウラジオを是が非でも手放せないなど感情的な国家戦略、日露の国力差などがあるので、英仏独を交えて互いの落としどころを探ります。

 

 そしてロシアは、他の辺境(カムチャッカ半島)を切り売りすることで対応し、日本側も戦う力が残っていないため、国内の不満を押しのけて受け入れます。

 



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