第三節・軍備に関する補足(一九三〇年代前半まで)
■日本の国内産業全般について
ここからは、一九三三年頃の日本の経済力と工業力と軍備全般にわたる事柄を紹介していきます。
まず国家予算ですが、史実と大きく食い違っているのは何度も先述している通りです。
1933年時点で、おおよそ四十億円程度の国家予算を、巨大な国債などに頼らずに編成できるようになっています。
同時に日本のGDPも、大きくなっています。
当然ながら、日本人一人当たりの国民所得も、平均して二倍以上になっています。
ただし、史実戦前の状況を考えると、都市部と農村部(特に小作農)の格差が史実よりさらに広がっている可能性も高くなります。
政府が金科玉条の富国強兵政策のため、重工業偏重の産業政策ばかりを行っていれば格差拡大はかなり確実です。
日支事変の時に近い格差と状況が、第一次世界大戦の時点で発生している筈です。
ですが、政府の経済政策のおかげで銑鉄・鉄鋼生産、造船能力を中心に、生産力は著しく増大しています。
加えて、国内のインフラ建設に伴い、土建業が発達している可能性もあるでしょう。
そして大規模重工業は、多数の労働者を必要とします。
特に、鉄鋼と造船は労働集約型の産業の最たるものです。
そして鉄鋼、造船は重工業化の基本であり、高度な資本主義社会を生みだす原動力です。
景気と需要さえ回転していれば、日本を史実の高度経済成長へと誘っていく可能性が高くなります。
当然ながら、安価な労働力を農村に求め、必然的に小作農は減少します。
さらになし崩し的に地主制度が崩壊、もしくは縮小している可能性もあるでしょう。
土建業が発達していれば、なお確実です。
昭和三十年代の日本の状況と似通っています。
また第一次世界大戦では、限定的ながら総力戦状態で参戦するので、兵隊供給場である農村救済のため、史実第二次大戦中に行われた農業行政が行われて農業の近代化も行われている可能性は高いでしょう。
要するに、第一次世界大戦の時点で農協や食管法と似たものができているのです。
そして当時の日本は、国力・所得を二倍にしても途上国です。
経済さえ好調なら、発展するのが自然です。
なお、国家予算などから簡単にこの当時の国力を表せば、GDPと国家予算が史実の二倍、工業生産力はそれ以上です。
加えて、史実の金融恐慌の頃とほぼ同時期から高橋是清による政策を推進してもらうので経済の大きな躓きもなく、一九三三年は高度経済成長に入っていると想定します。
その上この世界では、朝鮮半島に大きな資本投下はされていないので、その分国内開発(主にインフラ整備)が行われています。
満州も、古くから南満州の開発に日本資産以外に英国の外資が加わって開発されており、史実より開発速度は上回っています。
また、日本の主力輸出商品の一つに兵器産業が大きなウェイトを占めるようになっているので、鉄鋼、造船、機械を主軸とする重工業偏重状態をさらに助長します。
再度言いますが、鉄鋼、造船業は重工業化の基本中の基本で、労働集約型産業ですので多数の労働者が仕事に従事する事ができます。
重工業が未熟な時点で、これら分野での産業発展のメリットは図り知れません。
大艦隊を浮かべても、日本はまだまだ途上国なのです。
さらに、国内的には樺太全島を日露戦争で領土としているので、比較的近在の北海道などでは製油業も盛んになっています。
重化学工業の発展上、これも無視できません。
そして石油に関する独自ノウハウがあるからこそ、北満州の油田(大慶)の発見・開発も行わせました。
加えて英国資本の大規模な満州進出により、日本・円ブロック以外に英スターリング・ブロックにも若干食い込んでいるので、史実より英国の関税障壁は低く、繊維産業などで日本が食い込む余地はさらに広くなります。
これは、日本が第一次世界大戦に参戦して政治得点を大きく稼いでいるので確実です。
ではここからは、以上の前提を踏まええて陸海それぞれの軍備を見ていきましょう。
■軍備概要
■海軍
日露戦争後、政府の軍縮政策を受けて国力相応の軍備に戻すべく軍縮が断行された。
理由の多くは(損害の大きかった)陸軍が(やむを得ず)軍縮するのだから海軍もという実に日本的理由だったが、結果として国庫にゆとりをもたらす。
そしてこの時、軍縮による余剰兵器の輸出第一号として、ロシアから賠償で受けとった戦艦の一部を、修理後に韓国、中華民国などに売却している。
その後、自国での建造技術習得に専念し、第一次世界大戦の大量発注で造船力そのものが計数的に拡大した。
海軍も護衛艦艇を多数就役させ、それまでの沿岸迎撃海軍からバランスの取れた海上戦闘集団となった。
さらに第一次世界大戦前後に始まった太平洋を挟んでのアメリカとの建艦競争の激化で、雨後の竹の子のごとく拡大する。
そして一九三〇年頃には、念願の「八八艦隊」を初めとする巨大な海軍が建設される。
大艦隊整備は、海軍だけで国費の二割以上を毎年消費するという、国庫に大きな負担を強いることにもなった。
だが、半ば国家政策でもあったこと、無邪気な国民からの支持も強かったことなどから、八八艦隊完成後の海軍予算もそれ程削減されていない。
このため、兵器の改装や更新の速度も、諸外国に比べて早い。
だが、膨大な予算を投入した装備は世界第一級であり、大海軍によって日本のプレゼンスが維持されているのは疑いない。
■陸軍
日露戦役後の政府の軍縮政策を受けて、肥大化した師団数が十九個師団(二十七万人)体制から戦後十五個(二十一万人)に整理縮小される。
日露戦役後の陸軍は、戦争での損害から兵員数的に現状維持ができないのが軍縮の大きな理由だ。
そして海外での兵力の不足は、衛星国の韓国と、のちに満州国により肩代りされている。
(注:史実のように朝鮮併合後の守備のための二個師団増設はされていない。)
その後第一次世界大戦で準動員体制が敷かれ、同時に戦略単位増加のため三単位制度を導入して、一時的に正規師団三十個団(予備師団が同数)に肥大する。
陸軍全体も、約一五〇万人に増員された(うち七〇万人が派兵)。
そして第一次世界大戦直後の動員解除で十五個師団(二〇万人)に、大正軍縮ではさらに十三個師団(十八万人)体制に縮小した。
また、第一次世界大戦の大量派兵の過程で英仏より大量の新兵器供与を受け、重砲、迫撃砲、機関銃に始まり、航空機、戦車に至るまでを早期に揃えている。
加えて大戦後はドイツから賠償兵器を大量に得ており、日本陸軍の近代化と技術革新は一気に達成されている。
大正軍縮時の正規十三個師団も、極度に火力装備が充実している。
一方その後の兵器開発は、大正軍縮(大戦軍縮)で一時的に停滞するが、武器輸出産業維持のかたわら続けられる。
また、日露戦争、第一次世界大戦での損害による兵力不足を補うため、増大した国力を背景に陸軍全体の火力増強と重武装化が進められた。
そして一九二〇年代からは、新たな戦力である自動車や戦車などによる師団の機械化と航空装備の研究、開発が進んでいる。
見るべき成果としては、大戦参加の折りに得た英仏製の戦車を元に、戦車の開発、生産も熱心に行われ、専用の部隊の設立、運用実験が繰り返されている事が挙げられる。
ただし、部隊編成についてはまだまだ発展段階にあり、諸外国と比べて目立った成果は見られていない。
そしてソ連に対する北方警備のため、大正軍縮で一九二〇年代は十三個だった師団は、昭和六年の改変により最終的に十五個師団(平時:現役二〇万人・即時予備役十五万人)に増強。
さらに一九三三年には、満州国成立による駐留軍の増大により第一次世界大戦後に廃止されていた師団が一部現役復帰された。
そして太平洋戦争開戦直前には、支那地域への対処という名目で二十個師団(三五万人、一部動員状態)体制となっている。
■技術的・産業的視点
■全体
日露戦争後の軍縮により受注の減った企業を救済する目的で、支那、韓国(後に極東共和国が増える)などアジア地域を中心に武器輸出を行うようになる。
第一次世界大戦でも大量の武器を連合国相手に売りさばき、逆に新兵器を多数手に入れて旧式装備は売却。
日露戦争以後は、武器売買が国家的な政策・産業の重要な一角となる。
さらに、国内社会資本の整備と大戦景気に伴い基礎工業力が伸張し、多数の大型工場が出現した。
八幡製鉄所は第一次世界大戦中に年産200万トン規模に大幅拡張された。
さらに大戦中には姫路の広畑、大阪の堺にも大規模製鉄所が建設され、日本の鉄鋼需要は数倍に膨れあがる(※米独英に次ぐ生産力となる。
ソ連の発展はまだ)。
そして、鉄鋼、造船、土建業を中心とした国家全体の重工業化と社会資本の整備が押し進められている。
また、軍需輸出の好調と海軍中心の軍備拡張を強く推進したことと、陸軍が防衛的な陸軍となったことにより軍事工業技術自体も変化している。
いっぽうで、第一次世界大戦での膨大な発注を効率よくさばくため、国内で統一規格が設定された。
この流れは欧州諸国から品質の均質化を求められた事で加速され、戦後も輸出産業を中心に発達を続けている。
ただし、列強間ではまだまだ途上国であると言う点に違いはない。
■海軍兵備
重工業の進展、貿易の拡大と海軍の拡張により、民間、海軍の大量の受注をさばくため、造船力そのものが質量共に大きく拡張している。
特に第一次世界大戦の影響で大規模民間造船所が各地に建設され、民間造船所の規模と能力が大幅に拡大している。
海軍工廠も、八八艦隊建設のため各鎮守府にて全面的な改修が行われ、一九一〇年代からは大型船渠が多数誕生している。
さらに、一九一八年から新たに大神海軍工廠が八八艦隊建設の別枠予算で組まれ、大規模公共事業の一環のような形で計画が推進された。
同工廠は大戦中は軍民あげて突貫工事され、戦後も工事はペースを落として継続され一九二六年に実働開始した。
太平洋戦争頃の一九二〇年代後半には、世界有数の艦艇造修施設を持つに至っている。
海軍の装備そのものは、基本的に時代の趨勢である大艦巨砲主義に従った砲撃戦を行う大型戦艦と、雷撃戦を前提とした艦艇の建造が中心となる。
いっぽうで新たな装備である航空機と航空母艦は、主に予算面の都合もあり開発と空母建造には戦艦の建造ほど熱心ではない。
しかし、世界的に見れば最も進んでいる方である。
すべては、国家が海軍に努力の多くを傾注している結果だ。
なお、大艦巨砲主義以外にも、第一次世界大戦の戦訓から対潜戦術と潜水艦戦には、以前とは比較にならないくらい熱心になり、特に海上護衛の重要性に気付いた事から対潜水艦戦備は海軍兵備の二本柱とされている。
ただし、しかしアメリカ海軍に対する数的劣勢を前に予算は限られ装備は二線級は否めず、日露戦争以後の艦隊決戦偏重を窺わせている。
■陸軍兵備
明治の建軍以来、歩兵が主兵科とされた陸軍だったが、火力戦を十分に理解するも主に予算の都合からなかなか理想の軍備を揃えられなかった。
しかし、日露戦争後の政府の方針により、武器が外国に輸出されるようになると、主な顧客への武器輸出の主力商品は陸軍の軽装備中心だったので、輸出による大量生産で生産単価の下ったその部門での近代化が進んでいる。
つまり、歩兵部隊の重武装化が推進されることになる。
また、同じく輸出により、単価の下がった種類の弾薬の増産・事前備蓄も進み、軍内部でも機関銃や自動小銃に対する関心と需要、装備化が急速に進んでいる。
日本の火力依存傾向は、日露戦争、第一次世界大戦と戦争ごとに強固なものとなり、第一次世界大戦中の英仏からの武器供与で一気に近代化と重武装化を実現し、ストレス無く装備の更新と拡充を続けている。
戦後も、海軍に比べて少ない予算の中から欧米並の装備を施すべく努力が続けられている。
さらに二つの戦争での人的資源の消耗で、兵員数を大幅に削減された事も重武装化に拍車をかけている。
ただし、兵力数そのものは大陸進出が政府の方針により低調のため、正面兵力は可能な限り少なく抑えられている。
また、重武装化の切り札として、公共事業に乗っかる形で自動車、装甲車両の装備へと傾きつつある。
機材の開発は、一番の脅威であるソ連に対抗するため、対ソ決戦戦車として主に満州で運用するための重戦車・中戦車が主力とされ開発が急がれている。
そして、大戦中の三単位制導入と平行して戦車部隊、航空隊の増設などが行われ、戦後軍縮の中にあっても戦略単位の増大などと共に努力が払われている。
部隊面で特筆すべきは、戦車と機動力を持ったその他の諸兵種統合の実験旅団が一九三三年に作られ、機甲戦術の戦技実験が繰り返されている点だろう。
また、航空部隊も少ない予算の中から、可能な限りの増強が行われており、徐々に成果が現れつつある。
■各地の軍用大型造船船渠(船台)数
ここでは、一九三三年当時の日本にある軍艦を建造するための施設の概略を紹介します。
施設を紹介するのは、八八艦隊を中核とする大海軍がいかに建造、円滑に運用されているかを示すためです。
なお、新設の大神海軍工廠は、第一次世界大戦積極参戦の余波として八八艦隊計画の別枠予算として一九一七年に建設が始まり、一九二六年に一部実働を開始します。
八八艦隊建造については、最終の十三号艦の建造から関わっていますが、大型艦については船殻建造が主で、高度技術を要する部門は近在の呉に頼る現状が続いています。
いっぽう民間造船施設は、川崎の神戸造船所と三菱の長崎造船所が日露戦争で初めて実働し、その後多数の軍艦を建造してきました。
それ以外の民間船渠は、第一次世界大戦の好景気のさなか、民間独自や海軍からの援助金などにより建設されます。
八八艦隊建造にあたっては、いくつかの新規造船所が計画後期の艦の建造を行っています。
しかし施設の規模は、一般的な商船の規模そのものが基準排水量で1万トン程度が主流です。
例外的な客船建造施設以外は、大きな建造施設建設にはなりません。
そして例外として、巨大客船も建造する三菱長崎造船所などの存在があります。
また海軍も、八八艦隊建造後は大戦後の不況もあって大型艦を建造する事は少なくなりました。
しかし船渠のほとんどが、近代改装で使用されるようになります。
加えて、これらの造船所が使う鉄鋼資材を生産できる製鉄所が各所に存在する事は言うまでもありません。
それらを統合して、一種の大規模公共事業の形を成しています。
●日本の軍用大型艦建造施設(1933年現在)
軍施設(海軍工廠・鎮守府・軍港)
呉 :6万トンクラス船渠(戦艦用・改装兼用)
横須賀 :10万トン船渠(戦艦用・改装兼用)
:3万トン船台(戦艦・空母用)
大神 :10万トン船渠(戦艦用)
:1万トン船渠(重巡用)
:3万トン船台(空母用)
佐世保 :1万トン船台(重巡用)
大湊 :1万トン船渠(重巡用)
民間造船
三菱長崎:5万トン船台
:10万トン船渠(新設・軍艦・超大型客船用)
川崎神戸:3万トン船台
川崎坂出:6万トン船渠(新設・軍艦・超大型客船用)
川崎重工泉州工場:6万トン船渠(新設・軍用)
他 大型船建造可能民間造船所:1万トンクラスの船が建造可能なのは、大阪鉄工所、玉造船所、浦賀船渠、播磨造船、鶴見製鉄造船の五ヶ所。
ただし、軍艦を建造することは平時ではほとんどありません。
以上による同時建造数は、戦艦もしくは大型空母が10隻。
重巡クラスの艦が通常3隻、最大8隻となります。
また、大型艦(戦艦)整備用の船渠は、横須賀、舞鶴、佐世保にあります。
佐世保のものは新設の超大型船渠で、一〇万トンクラスにまで対応可能です。
横須賀では、限定的な改装工事も可能です。
また、他にも艤装岸壁及び桟橋にて、中規模以下の改装工事が行われます。