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歴史転換点・詳細(4)

■満州事変

 「満蒙ハ日本ノ生命線」


 一九三一年九月、柳条湖事件——「満州事変」が発生する。

 

 事件の遠因は、一九二八年の「張作林爆殺事件」に遡る、とされる事が多い。

 

 この頃日本陸軍は、第一次世界大戦で欧州に大挙従軍した「従軍派」と、欧州に行かなかった「残留派」に分かれて対立していた。

 そして「残留派」は、大陸進出を唱える近視眼的で視野狭窄な考え方の持ち主が多く、しかも強硬かつ独断専行的な行動を取ることが多かった。

 日本国内での軍事教育以外を受けていない弊害と屈折した精神的考えが、あからさまに浮き出た形だ。

 かくして彼らの一部が、彼らが日本の生命線とした満州獲得を目標として、当時華北の有力者だった張作林をテロを装って爆殺し、混乱に乗じて満州を軍事占領しようとした。

 これが「張作林爆殺事件」、通称「満州某重大事件」だ。

 

 しかし事件は、現地の様々な組織、人物の活躍で単なるテロ事件で幕を閉じる。

 しかも日本国内では「従軍派」が事件の全容を軍の側から証して、「残留派」の徹底したパージを図った。

 

 結果、事件当事者は残らず逮捕。

 少しでも関係のあった「残留派」の多くも退役や予備役編入を余儀なくされ、何とか軍に残れた者も軍中央からは左遷された。

 そして「残留派」の生き残りの左遷先の一つだった関東軍は、起死回生の謀略を数年かけて満州の水面下で画策する。

 それが結実したのが、「満州事変」だった。

 


 事件の発端は、テロリストによる鉄道爆破とされた。

 だが、爆破を理由に日本(関東軍)・韓国(国境警備隊)が、各軍閥が割拠する満州主要部を武力で制圧した。

 

 事件発生当時、弱腰だった日本政府(田中義一内閣)も、早期沈静化のためと事態を追認して増援の軍隊を派遣。

 陸軍参謀本部内の「残留派」生き残りも活発に活動し、数ヶ月で満州全土を中華民国政府及び現地軍閥の実権の及ばない地域にしてしまう。

 

 しかし「残留派」生き残りの行動も、ここが限界だった。

 満州情勢を国際世論から背けさせるため進んでいた上海での謀略は、日本国内で「従軍派」によって潰された。

 満州での航空機による爆撃と熱河省に対する侵攻も事前に阻止された。

 

 しかし、最も重要な行動だけは謀略を主導した者たちの活動により成功をみた。

 清帝国最後の皇帝溥儀を迎え入れ、翌年清帝国の後継である満州国の建国宣言しようとした謀略の結実だ。

 

 満州国独立宣言は、国際連盟から派遣されたリットン調査団が満州入りする3日前に行われ、「残留派」最後の置きみやげとなった。

 

 そして満州国独立宣言を受けて、日本の現政権は総辞職し、国際協調路線外交を主眼とする次期内閣(浜口雄幸内閣)が発足した。

 

 そして満州入りしたリットン調査団は、日本政府に対して同情的な方針を示した報告書を提出する。

 日本政府も、素早く事件首謀者ばかりか関係者の多くを処罰し、国連が介入した状況での事実上の満州運営を受け入れる姿勢を示した。

 

 そして日本政府の強い要請により、国際連盟加盟主要国が入った形で「満州国監視機構」が成立し、日本と満州の現地政府、そして国際連盟により満州が運営されることになる。

 これにより、英仏など国連加盟の列強は利権を保持もしくは市場進出が可能となり、国連に加盟していないアメリカ、ソ連は満州から完全に除外される。

 中華民国も、国連が間に入った事と一定の利益を得ることで当面は黙認。

 

 しかし、アメリカは事態を受け入れなかった。




■日米の対立

 「太平洋ノ波高シ」


 満州では、日本を中心に新たな動きが起きた。

 

 日本は国際非難をかわし、国際連盟も欧州諸国も、満州を日本の既得権として容認した。

 イギリスとしては、日本の大艦隊が動き出す事を常に警戒をしなければいけないし、いまだ同盟国である日本を無視できなかったからだ。

 また、アジアの緩衝国である極東共和国の安定のためにも、満州の安定化は大きなプラスとなる。

 だいいち、欧州の伝統的外交から言えば、満州事変などしなくても、満州は日本の既得権益だった。

 

 だが、今までの反動から爪弾きにされ利権を日本に独り占めにされたアメリカ合衆国は、痛烈な日本非難を発表する。

 

 しかも時のフーバー政権は、先に失敗した景気回復を軍需に委ねる決断を行い、対日批判を強化した。

 軍事産業に対する発注が行われると同時に、ハワイ、フィリピンに軍事力の進出も始めた。

 

 このアメリカの行動は、日本の横暴に対抗するためとしたが、明らかにジュネーブ海軍軍縮条約違反であり、アメリカを除く条約加盟国四カ国連名による抗議が行われる。

 これに対してアメリカは、日本の満州での軍事行動こそが各種平和条約の違反であり、満州からの日本軍全面撤退によって満州問題が解決されなければならないと声明を発表。

 対立は平行線をたどった。

 

 業を煮やした日本は、軍部(海軍)の突き上げもありアメリカと同様の軍縮条約の一部逸脱を関係各国と協議の上で決定。

 一九三四年以降に予定していた主力艦艇の大規模改装を大幅な前倒しで、しかも早急に開始するとともに、オフレコでの海軍増強を進める姿勢を示した。

 これを見たアメリカは、日本に対するさらなる非難を行い、責任を日本になすりつけた形で軍縮条約から事実上の離脱。

 日本のような既存艦艇の改装よりも、新造戦艦の建造計画を始動させた。

 

 強気のフーバー政権と、日本軍部に乗せられていた日本政府の悪循環の始まりだった。

 

 もっとも日本政府は、綱渡りでシビリアン・コントロールを回復し、後にはアメリカとはむしろ反対の方向に向かいつつあった。

 

 主に陸軍に対する再度のパージ断行で、エリートながら視野狭窄の「残留派」を駆逐したのが大きな要因だった。

 軍は、文民統制を当然と受け入れるリベラルさを持った「従軍派」によって占められ、彼らは文民統制を受け入れる姿勢を示した。

 軍の一部から提案されていた、大臣の現役武官制度など歯牙にもかけられず、統帥権の問題についても過去の事例を持ち出すという英国的手法で軍部の介入が阻止された。

 

 なお「従軍派」は、かつて欧州の戦場で世界というものを知り、第一次世界大戦後の軍縮も当然のこととして受け入れた者達であり、合理的な考えを持つため、国内外からも好印象で受け入れられた。

 


 そして政治的にも安定した大規模市場を改めて得た日本の景気拡大路線はさらに膨脹し、政府の経済政策(高橋是清の財政政策など)の成功もあって不景気脱出を達成していた。

 

 1929年から4年間に世界経済が3割も落ち込んだ中、日本経済は五割り増しも増加していたのだ。

 単純な数字の上だけなら、日本の国力は世界経済上では二倍になったに等しい変化だ。

 

 しかも、日本の大規模な地理・地質調査隊が、一九三二年八月北満州で大規模な油田発見を発表。

 日本政府は、同油田の大規模な調査、開発を開始する。

 

 新たな油田は、採掘深度が比較的深く油質の悪い点は伏せられていた。

 だが、稼働時の年産数千万トンという数字は、世界の資源地図を塗り替えるものだった。

 日本政府の発表が確かなら、イギリスの生命線であるベネズエラ油田に匹敵する油田を日本が持ったことになるからだ。

 

 当然ながらアメリカ合衆国の愁眉を深くさせる。

 黄色い獣に足かせがなくなった、と。

 

 しかも日本は、既に産油量百万トンクラスの油田を国内に有している。

 艦船以外で石油需要の少ない現時点では、これだけでもかなりの量だった。

 しかも、既に油田を持つという事は、日本が自力で石油採掘ができる事を意味していた。

 

 加えて満州には、無限の産出量を誇ると言われる炭田があり、日本にこれ以上足かせがなくなれば手が付けられなくなってしまうと、太平洋の対岸の国アメリカは考えた。

 ましてや今の日本は、世界最強クラスの海軍を有するばかりか、世界の中で唯一経済成長を続けているではないか、と。

 


 様々な思惑と不安により、焦りを発端としたアメリカの支那進出はより強硬なものとなり、橋頭堡であるフィリピンにも相応の軍事力が駐留するようになる。

 当然、日本、中華民国、それに英仏などの反発が強まり、アメリカの頑なな動きも加速する。

 

 そして悪いことに、一九三二年十一月に新たに大統領となった民主党のフランクリン・ルーズベルトは、選挙公約に従いアジアでの強硬姿勢を打ち出すと共に、景気回復の手段の一つとして軍需傾倒の方向が強かった。

 ルーズベルトは、第一次世界大戦で果たせなかったアメリカ経済と国際政治力の拡大を、自国による対日強硬外交(※オプションとして限定戦争を含む)で果たそうと画策したのだ。

 この点強硬外交を続けたフーバー政権も似ていたが、フーバーの経済政策の失敗とより強硬な政策方針がルーズベルトに政権を担わせた。

 そう、困窮したアメリカ市民は、泥沼の不況から抜け出せるなら有色人種相手の一寸した戦争なら構わないと、ルーズベルトを受け入れたのだ。

 この点、ヒトラーを受け入れたドイツに近似値を求めることができるだろう。

 

 そして、ルーズベルト政権の成立は、結果として支那地域の国共内戦を激化させる。

 

 当時中華民国に武器を売る日英(主はドイツだが)に対して、新参で実績もないアメリカの武器売買は、製品の優秀さがあってもあまり成功しなかった。

 アメリカとしては、武器売買により国内軍需産業に経験値と利益による規模拡大、さらには景気回復を図ろうとしたのだが、思ったほどうまくはいかなかった。

 中華地域の武器市場は、英国、ドイツ、日本の市場だったからだ。

 

 しかし形振り構うつもりのないアメリカは、無定見な地方軍閥ばかりか、あろう事か共産党にも武器を売却して販路を拡大した。

 そしてアメリカの動きに業を煮やした中華民国が、上海で行動を起こす。

 中華民国のスポンサーである宋財閥からの言葉を、有色人種の言葉として受け入れないアメリカ人に対する、指導者蒋介石の怒りの発露だった。

 

 もっとも蒋介石の目的は、世界の目を支那地域に向けることで、共産主義を支援するアメリカの非道を世界に訴え、自らの国内優位をより確かなものにするのが目的だった。

 行われた行動も臨検や荷揚げ阻止などで、当初は国際政治に合致し行動も穏便なものだった。

 熱心だったのは宣伝活動ぐらいだ。

 しかも中華民国側としては、国内の不正規組織への武器や物資の供給を止めるという極めて真っ当なものであった。

 

 だがアメリカ側は、すぐにも行動を激しくする。

 船団に自国海軍艦艇による護衛をつけ、ついには威嚇射撃すら行ったのだ。

 

 そしてアメリカ側が武器を振り上げるのを待って中華民国軍も戦闘以外での軍事行動で反撃に転じ、さらには上海のアメリカ租界に対する包囲行動を開始する。

 中華民国とすれば、これでチェック・メイトのつもりだっただろう。

 

 だが、中華民国の行動はアメリカをさらに激昂させ、ついに両軍は相手が先に発砲したと叫びながら衝突するに至る。

 上海市街での市街戦となった、日本側呼称「上海事変」へと発展したのだ。

 

 そして同事変が、次なる撃鉄となった。

 

 戦闘が拡大したため、各列強も邦人及び利権保護のため上海の軍備を増強した。

 特に近隣の日本は、国内の声と英国などからのお声掛かりもあって、陸戦隊や艦隊を含む有力な軍事力を派遣。

 抑止力で紛争が自らに及ぶのを防ごうとした。

 

 しかし米中両軍の戦火は、互いの政府のコントロールすら離れて無軌道に拡大した。

 加えて、紛争の拡大に伴い中華民国は主に日英から大量の武器を購入し、軍事顧問団を迎えて戦闘を加熱させ、日英もアメリカの国際地位が下落する上に外貨獲得もできるため、これ以上拡大しないなら紛争を無理に止めようとまでは考えなかった。

 

 だが拡大していった紛争は、遂に上海租界にまで及ぶ。

 そして警戒配置に付いていた日本海軍に対して、アメリカが強引な臨検を要求する。

 これが次なるステップとなる。

 

 アメリカ側は中華民国軍を日本軍がかくまっていると主張しての臨検要求だったが、日本側はあり得ないとして断固として拒否。

 すぐにも互いに武器を向け合っての対立となった。

 流石にこの時点で発砲や戦闘には至らなかったが、今度は外交で日米の対立が深くなり、双方上海地域への軍備増強となった。

 

 そして遂に、中華民国に派遣されていた日本軍に対してアメリカ軍が発砲し、反撃した日本軍の攻撃でアメリカ軍艦艇(小型艦)が沈没。

 アメリカ軍に多数の死傷者が出た。

 

 この事件に対してアメリカ政府は、当面の交戦相手だった中華民国を無視するかのように、日本艦隊が先に攻撃したのだと発表し日本を激しく非難した。

 まるで日本側が事件を起こすのを待っていたかのような行動だった。

 

 しかも、折からの反日・反アジア政策から激昂したアメリカ市民は政府を突き上げる。

 アメリカ政府は、日本に対して直ちに謝罪と賠償、中華民国からの軍事顧問団の撤退、駐留兵力の大幅削減を要求した。

 これに日本も交渉の席で、アメリカの事実わい曲と軍事行動を強く非難。

 今までの対立もあって、両者の関係は短期間で悪化していく。

 

 そしてアメリカ側は、交渉を重ねるごとに過酷な、当時の外交常識を無視した要求を強くした。

 そして要求に屈することは近代国家としての日本の死を意味するとして、日本側も激しく反発。

 両者の対立はより激しくなる。

 


 事変から数ヶ月で日米外相による直接交渉も開始されたが効果はなく、両者の対立の溝は深まるばかりだった。

 しかもその交渉の最中、アメリカはアジア(フィリピンと各地のアメリカ租界)の治安維持を目的に大艦隊と陸軍師団を東アジアに派遣する事を発表。

 合わせてハワイ・オワフ島真珠湾の拠点化と艦隊集結を急ぐと共に、順次ハワイへの陸軍部隊進出と沿岸要塞化工事も始める。

 完全な戦争準備行動だった。

 

 これを見た日本政府も、対日開戦準備だとアメリカを強く非難して俄然態度を硬化。

 協調路線の内閣(浜口内閣)は総辞職を余儀なくされ、殆ど挙国一致と言える新内閣(犬養内閣)が発足する。

 

 そして日米は、互いに交渉を重ねつつも水面下で急速な戦争準備を始める。

 特に日本海軍の艦艇建造及び改造のペースは、第一次世界大戦の英国並みとなっていた。

 数年前から準備していた行動を早めたのが原因の一つだったが、アメリカは明確な戦争準備だとこれを強く非難した。

 もっともアメリカ側は、実質的に軍縮条約から脱退し、一昨年から新造戦艦の建造に入っているのだからお互い様だった。

 

 同年冬に入ると、戦艦数隻によるアメリカ艦隊がフィリピンに派遣されるに及び、もやは話し合いでの解決は難しいと日本政府も判断した。

 そしてアメリカの使えないカードである、国際連盟を介して国際社会に自らの正当性を強く訴えると共に、海上交通保護を理由に有力な艦隊を南シナ海にまで派遣。

 武力外交によりアメリカを威嚇もしくは抑止する行動に出る。

 日本としては、フィリピンにアメリカの戦艦があっては、首を締め付けられるようなものだからだ。

 

 これを待っていたアメリカ政府は、日本の侵略的傾向を激しく非難。

 アジア・太平洋への艦隊増強と派遣の前倒しを発表。

 大西洋艦隊から太平洋への大規模な兵力移動すら発表して日本を威嚇。

 

 日本政府も、戦争に向けての本格的な動員を命令。

 互いの大艦隊が太平洋でうごめき出す。

 


 後はどちらが先に手を出すかだけと、いまだ第一次世界大戦の悪夢が忘れられない世界は震えた。

 

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― 新着の感想 ―
[良い点] 日本が第一次大戦参戦に参戦したおかげで、暴走する一部軍人『残留派』を帝国軍からパージできて本当に良かった。 あんな愛国者気取りで獅子身中の虫になるようなのが居れば、戦争に勝ってもいつか致命…
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