第5話 新しい人生
それから1週間後、牧夫は病院にいた。けがは順調に治り、あと数日で退院となった。
牧夫は退院を楽しみにしていた。だが、無職なことに変わりはない。再就職しなければならない。早く決めなければ生活が厳しい。過去のことを消すことはできないけど、努力しなければ。
牧夫は窓から大阪の景色を見ていた。新世界の通天閣が見える。今日も多くの人で賑わっている。次に来れるのはいつだろう。再就職を決めて、仕事が安定したらまた行きたいな。
「牧ちゃん、久しぶりやね」
誰かの声に気付き、牧夫は振り向いた。そこには、純一がいた。小学校時代の同級生だ。純一は卒業後、和歌山の実家に引っ越していた。
「純一くん!」
牧夫は驚いた。まさか純一が来てくれるとは。牧夫は立ち上がり、抱き合って再会を喜んだ。
「自殺しようとしたってニュース聞いて、すっ飛んできたんよ」
純一は、朝のニュースで牧夫が自殺を図ったと知って、大阪にやって来た。少し遅れたのは、梅農家をやっていて、忙しかったからだ。
「ごめんね。こんなことしちゃって」
牧夫は謝った。自ら命を絶とうとして、みんなを騒がせてしまったことを悔やんでいた。また頑張って生きよう。再就職しよう。
「自分の命は大切にな」
「わかった」
純一は笑顔を見せた。何とかして牧夫を励ましたい。立ち直ってほしい。また頑張ってほしい。
「牧ちゃん、梅農家の手伝いしてみんか?」
突然、純一は提案した。ここ最近、農家の高齢化や死去によって減って、人手が足りないという。
「えっ!?」
牧夫は驚いた。まさか、こんなところで仕事をしてくれと言われるとは。
「牧ちゃんは工場に勤めとったし、社長だったから力あるでしょ? その力があったらできると思うで」
「そうかな? 社長としてあんなことしたけど」
牧夫はパワハラのことを引きずっていた。どうせパワハラのことでまたクビになるんだ。結局自分はいつもそうなんだ。それを一生背負って生きていかなければならないんだ。
「気にすんな。全てを忘れて僕の所でひっそりと暮らそうや」
純一は肩を叩いた。パワハラのことも知っている。みんな承知している。そんなこと気にしないと言っている。だから、今までの過去を全部忘れて、ここでのんびり生きよう。
「じゃあ、いい方向に考えとくわ」
牧夫は戸惑っていた。これで本当にいいのか。長年住んだ大阪を離れることになるけど、それでいいのか。
「ありがとう」
純一は病院を後にした。純一は牧夫は和歌山に来てくれると信じていた。一緒に梅農家を手伝ってくれると信じていた。
牧夫はその様子をじっと見ていた。大阪を離れて和歌山に行ってもいいのか? それで本当に自分の罪を償うことができるんだろうか? 牧夫の心は揺れていた。
その夜、牧夫は大阪の夜景を見ていた。今まで当たり前のように見てきた大阪の夜景。今日も美しい。通天閣は色で明日の天気を伝えている。和歌山の梅農家に行けばもう見られないかもしれない。
「どうしたんや、牧さん」
太郎だ。牧夫のことが心配でやって来た。
「今日、小学校時代の友達がやって来たんや」
「ふーん」
太郎はそのことを知らなかった。純一のことすら知らなかった。
「和歌山で梅農家しないかって」
「そうか」
太郎は考えた。まさかこんなところから来てほしいと依頼があったとは。社長だった牧夫は人脈が広いな。
「どうしようかなって思って」
牧夫は考えていた。今までの人生を全てリセットして和歌山で人生を1からやり直そう。でも、太郎はそれを認めてくれるだろうか。牧夫は不安だった。
「いいじゃないの。今までの過去を全て忘れて、農業をしながらスローライフを送るのもいいよ。心の傷もいやせるだろうし」
突然言われたが、太郎はその考えに賛成だった。離れ離れになるのがそんなに辛くなかった。新たな旅立ちをする牧夫を歓迎していた。
「そうかな?」
牧夫は疑問に思っていた。こんなことで心の傷をいやせるんだろうか。1からやり直しても自分の罪は一生残る。心の傷もいやすことはできないだろう。
「きっとそうだよ。行ってみなよ」
太郎は肩を叩いた。新しい人生を送ろうとする牧夫を応援していた。
「・・・、うん、伝えておく」
牧夫は決意した。退院したら、和歌山に向かい、梅農家になろう。それまでに、何かやり残したことがあれば、やっておきたい。
次の日も、牧夫は病院で目が覚めた。色々あったけど、あと2日で退院だ。色々あったけどもうすぐ新しい生活に入る。今日は雨が降っている。昨日は快晴だったのに。この時期の天気は変わりやすい。
ナースが牧夫の病室にやって来た。ナースは朝食の載ったワゴンを押している。朝食を届けに来たようだ。
「朝食です」
ナースは牧夫に朝食を届けた。ナースは笑顔を見せた。
「あ、ありがとうございます」
「あと少しで退院ですね。よかったですね」
牧夫はお辞儀をした。ナースはワゴンを引いて、病室を出た。
朝食を食べながら、牧夫は考えていた。今朝、純一に話そう。退院後、梅農家を手伝うと話そう。もう迷いはない。和歌山で新しい人生を歩もう。
朝食後、牧夫は1階の公衆電話に向かった。純一はどんな反応をするんだろう。結局、過去のことが尾を引いて見送りになったらどうしよう。またここで探さなければならない。もう自分にはいい仕事が見つからないだろう。
牧夫は電話をかけた。10秒後、誰かが電話に出た。純一だ。
「もしもし、純一くん?」
「はい」
純一だ。純一は朝食を食べてのんびりしていた。
「牧ちゃんだけど、梅農家の手伝いをしようかなと思って」
「そうか、決めたんやね。ありがとう」
純一は嬉しかった。牧夫が来ることを望んでいた。
「退院したら直にそっちに行くから。待っといてね」
「うん」
牧夫は電話を切った。退院したら、大阪を巡って自分の半生を考えよう。そして、生まれ育った大阪の風景を目に焼き付けておこう。
「結局大阪を離れるんだね」
誰かの声に気付き、牧夫は後ろを振り向いた。太郎だ。牧夫の電話を後ろで聞いていた。太郎は寂しそうだ。あいりんで出会い、今まで一緒に頑張ってきた。それももうすぐ終わる。今までありがとう。
「うん」
「ずいぶんお世話になったな」
太郎と牧夫は握手をした。今までありがとう。和歌山に行ってもまた戻ってこい。
「ああ。今までありがとな」
「どういたしまして」
太郎はお辞儀をした。牧夫は誓った。いつかまたこの大阪で会おう。何年後でもいい。その時は定職に就いて、安定した生活を送っていてほしい。
次の日の朝、牧夫は病院の前にいた。今日は退院だ。病院の前には医者やナースが集まっている。太郎も来ている。みんな、牧夫の退院を喜んでいた。
「どうも、お世話になりました!」
牧夫はお辞儀をした。助けてくれてありがとう。生きる勇気を与えてくれてありがとう。心から感謝していた。
「元気でな。自殺なんかすんなよ!」
太郎は牧夫の手を握った。たった一度だけの人生を無駄にしてほしくない。精いっぱい生きてほしい。太郎はそう願っていた。
「はい!」
牧夫は元気に答え、病院を後にした。荷物は太郎が自分の家に運ぶという。今夜は太郎の家に泊めてもらい、明日の出発の準備をする。その前に、大阪を巡って今の風景を記憶しておこう。
牧夫は御堂筋線の動物園前駅に着いた。ホームには何人かの人がいる。目指すは太陽の塔。大阪万博を記念して建てられたモニュメントだ。
牧夫は幼少期に大阪万博で見た太陽の塔のことを思い出した。有休を使って一家で万博に行った。難波から御堂筋線に乗った。車内には多くの人が乗っていた。みんな万博に行く人たちだ。着くと牧夫は太陽の塔を見上げた。その塔を見て、何だこれはと驚いた。
牧夫は千里中央行きの電車に乗った。今日も御堂筋線は多くの人が乗っている。この御堂筋線は大阪メトロの中で最も古い路線であり、最も混雑する路線だ。何度この路線に乗っただろう。次に乗れるのはいつだろう。地下鉄のトンネルを見ながら、牧夫は考えていた。
難波駅からはより一層車内が混雑してきた。ここから梅田駅までは特に混雑する。牧夫は彼らの姿を見ていた。昔は彼らよりぜいたくな生活を送ってきたのに、パワハラで何もかも失い、転落してしまった。でも明日からは新しい人生に入る。和歌山で人生をやり直そう。
中津駅の先で地上に出た。道路の間を走り、淀川を渡る。その向こうには阪急電車の鉄橋も見える。小学校の頃、卒業記念に宝塚ファミリーランドに行った。牧夫は鉄橋を渡る阪急電車を見ていた。でも宝塚ファミリーランドはもうない。また行きたかったな。
東海道山陽新幹線と接続する新大阪駅を出ると、そこそこ車内が空いてきた。牧夫はロングシートに座った。
牧夫は目を閉じて、今までの生涯を振り返っていた。鉄工所を経営する家に生まれ、順調に大学を卒業することができた。鉄工所に就職して、いろんなことを学び、多くの友達に恵まれた。だが、パワハラで社員が自殺して、自殺した社員の父によって鉄工所を閉鎖に追い込まれた。そして、両親も、妻子も失った。あんなことさえなければ。だが、それも自分に与えられた使命であり、十字架だ。私はそれを一生かけて償わなければならない。絶望し、自殺しようとした時もあった。でも、ようやく新しい人生を歩むことになった。今度は悔いのない日々を送りたいな。
「お客さん、終点ですよ!」
車掌の声で目が覚めた。電車は終点の千里中央に着いていた。太陽の塔へはここで大阪モノレールに乗り換える。
牧夫は千里中央駅のホームに降り立った。北大阪急行の駅では、この駅のみ地下だ。地下だが、上の階と吹き抜けになっていて、広く感じる。
牧夫は改札を抜けて、大阪モノレールのホームに向かった。大阪モノレールは少し離れたところに駅舎がある。
牧夫は大阪モノレールのホームにやって来た。ホームには何人かが待っていたが、北大阪急行に比べると少ない。
ホームで待っている人の中には、家族連れもいる。牧夫は妻子のことを思い出した。今、妻子はどうしているんだろう。もし会えるのなら、また会いたいな。でもそれは叶いそうにない。
しばらく待っていると、モノレールがやって来た。モノレールにはある程度の乗客が乗っている。子供は一番前から車窓を見ている。子供たちは嬉しそうだ。
牧夫はモノレールに乗った。太陽の塔は2つ先の万博記念公園駅にある。モノレールは高架線を走っていた。大阪の街並みを見渡すことができる。牧夫はそれを食い入るように見ていた。もう帰れなくなるかもしれない。生まれ育った大阪の風景を目に焼き付けておかないと。
牧夫は太陽の塔を見上げた。緑に囲まれて経っている。今はそんなに人が来てないが、万博の時は多くの人が来た。その面影はないけど、太陽の塔はここでかつて万博が行われたこと、多くの人が集まった事を伝えていた。
牧夫は太陽の塔を後にして、難波に向かった。目的地はなんばパークスだ。南海電鉄の難波駅に隣接したこの施設は、大阪球場の跡に建てられた。大阪球場は戦後、南海電鉄が持っていたプロ野球チーム、南海ホークスの本拠地として建設された。南海ホークスは50年代から60年代にかけて全盛期を迎えたものの、それ以後はBクラスが多くなり、昭和の終わりとともに福岡に移転した。大阪球場はその後、住宅展示場になり残っていたものの、解体された。
牧夫は難波駅にやって来た。ここは天王寺駅と並ぶ大阪ミナミの交通の要衝だ。3つの私鉄と3つの地下鉄の路線が乗り入れている。JRも乗り入れているが、影が薄い。
難波周辺には多くの人が行き交っていた。とても賑やかだ。入社すると、週末は父とよくここで飲んだものだ。そんな父はもういない。豊かだったあの頃が懐かしい。戻りたくても、もう戻れない。
牧夫は南海難波駅の近くにあるなんばパークスにやって来た。ここにはかつて大阪球場があった。子供の頃からホークスファンで、よくここで野球を観戦したものだ。だが、その頃は全盛期を過ぎており、毎年Bクラスの球団となっていた。父の頃は強かったそうだが。横にいた父は強かった頃の南海ホークスの話をしたものだ。牧夫にはそれがとても信じられなかった。1988年10月15日、南海ホークスとして最後のホームゲームになった試合も見に来た。いつもはガラガラの球場が満員で、異様の雰囲気だったのを覚えている。この年も南海ホークスはBクラスで、来年から本拠地が福岡になった。再びAクラスになるのは98年、優勝と日本一は99年まで待たなければならなかった。その頃はもうファンはやめていて、近鉄バファローズのファンになっていた。今はどっちもなくなり、現在はオリックスバファローズのファンだ。時の流れは早いものだ。
牧夫は驚いた。大阪球場があった名残が全くない。牧夫は栄華を極めた南海ホークスと自分の歴史を重ねてみた。鉄工所を継いで社長にまでなって栄華を極めたのに、パワハラで全てをなくした。そして、今が大阪から和歌山へ旅立つ時だ。
次に牧夫は歩いて心斎橋に向かった。お好み焼きが食べたかった。大阪を代表する料理で、社長だった頃は週に1回食べていた。でも、会社が廃業して、何もかも失うと、お好み焼きを食べる余裕もなくなった。
牧夫は道頓堀にやって来た。道頓堀は今日も多くの人であふれていた。とても賑やかだ。昔と変わっていない。牧夫はほっとした。
牧夫は道頓堀のグリコのネオンを見ていた。このネオンは道頓堀の名物で、今日もここで写真を撮る人が多かった。撮っている人の多くはグリコと同じポーズをしている。これは昔と変わらない。ただ、ネオンは変わった。
牧夫はここの近くのお好み焼き屋で昼食をすることにした。カウンターの目の前には鉄板があり、お好み焼きなどを焼いていた。カウンターの人はそれをおいしそうに見ている。
20分後、ようやくお好み焼きが出来上がった。店員は牧夫の目の前にお好み焼きを置いた。牧夫はそれを食べ始めた。社長だった頃は何度も食べた。懐かしい味だ。もうここでお好み焼きを食べることはできないかもしれない。牧夫はゆっくりとかみしめながらお好み焼きを食べた。
次に目指すのは森ノ宮だ。ここには日生球場があった。日本生命の従業員の厚生施設として建設された球場らしいが、近鉄バファローズの本拠地としても使われたという。ここで行われた最後のプロ野球の試合のことは今でも覚えている。南海ホークス改め福岡ダイエーホークスのふがいない戦いにファンの怒りが爆発し、卵を投げつけられたという。今、そんな日生球場はどうなっているんだろう。胸躍らせながら牧夫は地下鉄で森ノ宮を目指した。
長堀鶴見緑地線に乗って、牧夫は森ノ宮にやって来た。だが、そこに日生球場はない。あるのは、大阪球場同様ショッピングモールだ。跡地は2015年に『もりのみやキューズモールBASE』となった。モニュメントや周辺歩道のパネル、わずかに残った球場の跡がここが野球場だったことを表している。最上階には人工芝のトラックがあり、多くの人が歩いている。
古くて人のあまり来ない日生球場とは違って、キューズモールは多くの若者が訪れていた。彼らはここが球場であったことを知らないようだ。
牧夫は肩を落とした。大阪はこんなに変わってしまった。そして、自分もこんなに変わってしまった。一生、鉄工所で働ける、社長としてやっていけると思っていたのに、ある日を境に全てを失ってしまった。そして、街が変わっていくように、自分も変わろうとしている。今までの自分をリセットして、和歌山で一からやり直そう。
次に牧夫は新世界に向かった。少し前まで暮らしていたあいりん地区の近くにある繁華街で、理恵と飲んだ思い出の場所だ。だが、理恵とはすでに別れた。
動物園前駅に降り立った牧夫は新世界に向かった。昼下がり、新世界は人出が多くない。夜の賑わいがまるで嘘のようだ。だが、これから牧夫が目指す通天閣は別だ。そこから見下ろす大阪を見るために多くの人で賑わっていた。小学校の頃、牧夫は父に連れられて通天閣に行ったことがある。展望台から見る大阪の景色に興奮した。島岡鉄工所も見えた。だが、そこからはもう鉄工所は見えない。見えるのは空き地だけだ。
牧夫は通天閣にやって来た。あの時と変わっていない。多くの人で賑わっていた。よかった。あの頃と変わっていない。
通天閣は今日も変わらない。でも、大阪は変わりゆく。大阪球場はなんばパークスになり、日生球場はキューズモールになった。それでも通天閣は昭和31年から変わることなく大阪にそびえ立っている。そして自分は新たな旅立ちを迎えようとしている。
夕方になってきた。牧夫はかつての自宅があった石切に向かうことにした。石切は生駒山の中腹にある石切神社の門前町だ。近鉄奈良線はこの駅から長い新生駒トンネルで一気に生駒山を超え、県境を超えて奈良県生駒市へ至る。この石切から見る夜景は美しく、生駒山の中腹を登る電車から見る車窓は近鉄奈良線で一番の見どころだ。
牧夫は難波から奈良行きの急行に乗ることにした。全てを失う前は近鉄と南海と大阪市営地下鉄とJRが乗り入れていた。だが、阪神が西九条から難波まで延伸し、近鉄と相互乗り入れするようになった。近鉄の難波駅のホームには阪神の電車も見られるようになった。
しばらく待っていると、この駅始発の奈良行きの急行がやって来た。大阪線との分岐駅の布施駅を出たら次は石切駅。あっという間だ。快速急行の場合、大阪環状線と接続する鶴橋駅を出ると次は奈良県の生駒駅。生駒が発展したのは奈良線の影響が大きいんだろうか。
大阪上本町駅を出ると、急行は地上に出た。もう辺りは暗くなり始めている。次の鶴橋駅に降り立つと、焼肉のいい匂いがする。ここは焼き肉店の多い所だ。今夜はここで太郎と飲みたいな。そして、新しい旅立ちに向けて乾杯したい。
布施駅を出ると、大阪線と別れた。ここから石切まではそこそこある。牧夫はしばらく外から見える夜景を見ていた。もう見ることができないかもしれないから、しっかりと目に焼き付けておこう。
瓢箪山駅を出ると、電車は左にカーブし、上り坂に入った。ここから石切駅まで上り坂が続く。進む度に大阪の夜景が車窓に開けてくる。牧夫はその車窓に感動していた。社長だった頃は幾度となく見た。だが、全てを失ってからは全く見なくなった。これももう見ることができないだろう。しっかりと目に焼き付けた。
急行は石切駅に着いた。牧夫は夜のホームに降り立った。その向こうには長い新生駒トンネルが見える。この駅では何人かの乗客が降りた。
牧夫は駅舎を出ると、大阪の夜景がよく見える場所に向かった。この辺りに自分の家があった。毎日この夜景を見ながら生活していた。なんてぜいたくな生活だろう。だが、今ではもう思い出にしかない。時は流れ、全てを失った。
牧夫は家のあった所にたどり着いた。大阪の夜景は今日も美しい。だが、そこにあるはずの家はない。ただの普通の一軒家に変わってしまった。自分の住んでいた家はすでに解体された。牧夫は寂しそうに見ていた。
お父さん、お母さん、愛する妻よ、娘よ、父さんは新しい旅立ちに出る。もうここに戻ることはない。和歌山で今までの人生をやり直す。今までありがとう。
牧夫は難波に戻ることにした。ここで太郎と再会する。それからは鶴橋で飲もう。
牧夫は太郎に電話をした。約10秒後、太郎が電話に出た。
「もしもし」
「牧さん!」
太郎は驚いた。牧夫が電話に出るとは思っていなかった。
「ああ。突然だけど、今日、鶴橋で飲もうかなって」
「どうしたの? 鶴橋で飲もうって」
突然の予定で、太郎は驚いていた。まさか、鶴橋で飲もうとは。
「明日の旅立ちを祝って1杯ひっかけようかなって」
「いいじゃない! じゃあ、今から鶴橋駅に行くからね!」
「うん、突然のことで驚かせちゃって、ごめんね」
牧夫は帰りの車内でも見ていた。この夜景を絶対に忘れない。和歌山に行っても、絶対に忘れない。
瓢箪山駅を過ぎると、電車は高架線を走り始めた。牧夫は高架線からビルの明かりを見ていた。もうこんな風景、和歌山に行ったら見れそうにない。この景色もよく覚えておこう。
牧夫は鶴橋駅に着いた。鶴橋駅は近鉄と大阪環状線が交わる交通の要衝で、その下にはコリアンタウンが広がる。ここは焼き肉店が多く、歩いていると焼肉のいいにおいがする。
牧夫は鶴橋駅を出た。乗降客の割には駅舎は小さい。降りるよりも乗り換えが多いからだろうか。
「牧さん!」
突然、声がした。太郎だ。太郎は駅舎の前で待っていた。
「太郎さん!」
牧夫はそれに気づき、手を振った。
「突然ごめんね」
「いいよ! 新しい旅立ちを前に1杯ひっかけていくのも」
2人は焼肉屋に向かった。もう2人で飲むのも最後になるかもしれない。でも、離れ離れになっても、ずっと友達でいよう。
2人はすぐ近くにあった焼肉屋に入った。席は多少空いている。
「いらっしゃいませ、何名様ですか?」
「2名です」
牧夫はVサインを出し、2人だと伝えた。
「かしこまりました。カウンター席へどうぞ」
2人は空いていたカウンター席に座った。その隣には仕事帰りの私服の男がいる。その男は顔が少し赤い。何杯か飲んだと思われる。テーブルには小さな七輪がある。焼肉は生で出されて、自分で焼く。
店員の女性がやって来た。その女は別れた妻に似ている。
「いらっしゃいませ。何にしますか?」
「とりあえず、生中2杯とカルビで」
「かしこまりました」
店員は厨房に戻った。厨房では別の店員が肉を切っている。
「いよいよ明日だな」
「ああ」
牧夫は大阪で過ごした今までの日々を思い出した。色々あったけど、明日からは新しい人生を迎える。今までの辛いことを全て忘れて、新しい日々を過ごそう。
「どうだ? 新しい生活、楽しみか?」
「期待と不安で半々や」
だが、牧夫は不安もあった。またしてもパワハラのことで嫌な目をされて住処を追われるんじゃないか?
別の店員がジョッキ2本の生中を持ってきた。
「生中です」
別の店員は2人の前のテーブルに生中を置いた。
「ありがとうございます」
「新しい旅立ちに、カンパーイ!」
「カンパーイ!」
2人はジョッキを合わせて乾杯をした。2人は生中を口に含んだ。
「まぁ、とりあえず、新しい人生、頑張れや」
「うん。もう苦しい生活になりたないな」
しばらく経つと、店員がカルビを持ってきた。
「カルビでございます」
牧夫はすぐにカルビを焼き始めた。じゅうじゅうと音を立てて肉が焼かれている。次第に、タレのいい匂いが広がる。
「おー、うまそうだな」
牧夫は再び生中を口に含んだ。久々のお酒。牧夫はとても嬉しかった。
「焼肉なんて、何年ぶりだろな」
カルビがいい具合に焼けてきた。牧夫はカルビを食べた。焼肉なんて何年ぶりだろう。和歌山に行ったら食べられるんだろうか。
「やっぱ焼肉はうまいな」
牧夫はあっという間に生中を飲み干した。牧夫は空になったジョッキを上にあげた。
「すいません、生中おかわりで!」
「かしこまりました」
店員は生中を注ぎ始めた。
「ビールが進むね」
「久々のお酒だもん」
牧夫はいい気分になってきた。こんなに飲めるのは何年ぶりだろう。
「生中でございます」
「ありがとね」
牧夫はお酒を飲みつつ、今までのことを考えていた。社長の息子として生まれ、社長を引き継ぎ、あっという間に会社も家族も失い、ここまで落ちてしまった。でも、こんなに優しい人々に出会えた。ここまで落ちなければ、太郎さんなどの優しい人々に会えなかった。なのに、どうして自殺なんかしようとしたんだろう。会社を失ったものの、あいりん地区でいろんな人々に出会えた。そう思うと、悔いのない日々だと思えてきた。
その頃、理恵は家で考えていた。自分は本当に別れてよかったのか。いつまでも牧夫を責めていていいのか。牧夫はパワハラの後にとんでもない人生を送ってきた。そして、敦を死に追いやったという十字架を背負って生きている。
そこに、隣の人がやって来た。空を見上げたままじっとしている理恵を見て、不思議に思っていた。
「どうしたんですか?」
理恵は振り向いた。隣の人だ。
「本当に別れた方がよかったのかなって思って」
もう一度会って謝りたい。やっぱりあの人と一緒に暮らしたい。そして、新しい人生を共に歩みたい。
「謝ったらどうだ?」
「そ、そうね。でも、許してくれるかな?」
理恵は不安だった。本当に許してくれるんだろうか? もう許してくれないんじゃないか? 息子を死に追いやった男だ。
「いい人だから、大丈夫と思うよ」
「わかった」
理恵は決意した。明日、あいりん地区に行って、牧夫に謝ろう。そして、一緒に新しい人生を切り開こう。
翌日、牧夫は太郎の家で目が覚めた。荷物はすでに和歌山の梅農家に送った。あとは自分が来るだけだ。
牧夫は部屋の窓から大阪の街を見ていた。大阪で暮らすのは今日で最後かもしれない。この大阪で喜びも悲しみも、そして苦しみも味わった。色々あったけど今日が最後だ。今日から新しい人生に入る。もう迷うことはない。
「いよいよ今日だな」
誰かの声に気付き、牧夫は後ろを振り向いた。太郎だ。
「いよいよ新しい生活だな」
「そうだね」
太郎は隣に立ち、一緒に大阪を見ていた。この風景を一緒に見るのは、今日が最後かもしれない。今日という1日をしっかりを記憶しておこう。
「頑張れよ」
太郎は肩を叩いた。牧夫を励ましているようだ。
「ああ」
牧夫は嬉しかった。そして、いつの間にか涙を流していた。何もかも失い、あいりん地区にやって来た自分をここまで支えてくれた。ここまで生きてこれたのは、太郎のおかげだったかもしれない。もし、そうでなかったら、飢え死にしていたかもしれない。もしくは、電車に引かれていたかもしれない。
「それじゃあ、行こうか?」
「うん」
牧夫と太郎は1階の玄関へ向かった。太郎とはここで別れる。ここから梅農家までは1人で行く。
「それじゃあな」
「今までありがとうな」
「行ってきます」
牧夫は太郎の家を出た。牧夫は後ろを振り向かなかった。目の前だけを見て、前向きに生きよう。最寄り駅の桃谷駅に向かった。ここから歩いて約10分。
牧夫は桃谷駅に着いた。朝のラッシュアワーを過ぎ、空席が目立ち始めてきた。だが、大阪環状線には多くの人が乗っていた。
牧夫は桃谷駅を見上げた。もう大阪環状線を見るのも今日が最後かもしれない。この光景もとどめておこう。
牧夫は桃谷駅のホームにやって来た。桃谷駅は今日も色んな電車が行き交っていた。だが、子供の頃に大阪環状線で走っていたオレンジ一色の電車は姿を消し、真新しいステンレスの電車が大阪環状線を回っていた。時代の流れは早いものだ。
牧夫は大阪環状線の電車で天王寺駅に向かった。天王寺から阪和線に乗り換えて和歌山に行き、そこから普通電車を乗り継いで南部駅に行く。
牧夫は車内を見渡した。子供の頃に乗っていた電車に比べて明るく、ドアの上には液晶もある。さらに、アナウンスは自動だ。子供の頃に乗った大阪環状線の電車と全く違う。
程なくして、電車は天王寺駅に着いた。大阪の南の中心駅で、とても広い。いくつもあるホームには様々な電車が行き交っている。京都と関西国際空港を結ぶ特急はるか、京都・新大阪と白浜・新宮を結ぶ特急くろしお、大阪環状線と関西国際空港、和歌山を結ぶ関空・紀州路快速、大阪環状線と大和路線を結ぶ大和路快速。ここはまさに大阪と並ぶ交通の要衝だ。ここから阪和線と紀勢本線で南部駅へ向かう。純一とはここで待ち合わせている。
ここで関空紀州路快速に乗り換えて和歌山まで向かう。関空紀州路快速は日根野駅までつないで走り、関空快速は関西空港へ、紀州路快速は和歌山に向かう。
牧夫は後ろの4両に乗った。これが紀州路快速だ。車両は関空快速と同じで、座席が3列だ。車内は比較的すいている。だが、前4両の関空快速はそこそこ人が乗っている。キャリーケースを持っている人が多い。関西国際空港へ向かう観光客だろうか。
牧夫はその姿をうらやましそうに見ていた。社長の息子だった頃は海外旅行なんて夢じゃなかった。海外旅行は、卒業旅行でハワイに行った。それ以来、海外旅行に入っていない。もういけないだろうと思うと、泣けてくる。
牧夫が乗ってすぐ、関空紀州路快速は天王寺駅を発車した。牧夫は一番後ろから大阪の街並みを見ていた。通天閣やあべのハルカスが見える。もう見れないかもしれない。記憶にしっかり残しておこう。
その頃、理恵が太郎の家の前にやって来た。牧夫がここにいるとあいりん地区の人々に聞いて、ここにやって来た。
理恵は辺りを見渡した。確か、牧夫は昨夜ここで1夜を明かしているとのこと。今でもこの家にいるんだろうか?
理恵に気付いて、牧夫が外に出てきた。理恵が来ると思っていなかった。
「理恵さん、どうしたの?」
「牧夫さんは?」
理恵は息を切らしていた。桃谷駅から走ってきて、へとへとになっていた。
「和歌山に向かったよ。梅農家を手伝うんだって」
「そんな・・・」
理恵はがっくりした。謝ろうと思ったのに。もう和歌山に向かったなんて。
「謝ろうと思ってたの?」
「うん。もう一度やり直そうって」
理恵は急いで桃谷駅に戻った。目的地は和歌山県のみなべ町。牧夫と同じ路線で追いかけることになった。
理恵は泣いていた。謝りたい。もう一度やり直そう。新しい人生を共に歩もう。今なら間に合うかもしれない。早く会いに行かなければ。
山中渓駅を過ぎ、いくつかトンネルを抜けると、和歌山市の街並みが見えてきた。電車はここから高度を下げて、和歌山市内に向かう。
牧夫は和歌山市の街並みをしばらく見ていた。よく見ると、大きな川が見える。紀ノ川だ。
牧夫は紀州路快速の終点、和歌山駅に着いた。和歌山駅は広い構内だ。南海電鉄の和歌山市駅とを結ぶ電車や貴志までを結ぶ和歌山電鐵の貴志川線が延びている。和歌山駅は広い構内だが、そんなに人はいない。全盛期はどれぐらいの人が行き交ったんだろう。
この駅で御坊行きに乗り換える。すでに乗り換えの電車は和歌山駅に着いていた。牧夫はそのホームに向かった。
牧夫は御坊行きの電車に乗った。車内は比較的すいていた。データイムだからか。牧夫はクロスシートに座ってリラックスしていた。
電車は和歌山駅を出発した。牧夫は車窓を見ていた。これから住む和歌山はこんな所なんだ。ここで新しい人生が始まる。牧夫はこれからの生活に期待を膨らませていた。
それから数分後、次の紀州路快速がやって来た。その紀州路快速から降りた乗客の中に、理恵がいた。理恵はあと少しの所で追いつけなかった。
理恵は辺りを見渡した。だが、牧夫はそこにいない。もう南部に向かったんだろうか。何としても追いつかなければ。謝らなければ。
牧夫は御坊駅に着いた。御坊駅は御坊市の中心街と少し離れている。中心街と結ぶ紀州鉄道がここから西御坊まで延びている。全長わずか2.7キロの短い鉄道だ。
一部の電車はここが終点だ。ここから新宮方面は本数が減る。牧夫は次の電車を待っていた。次の電車は数十分後だ。牧夫はベンチで電車を待っていた。
牧夫は肩を落として、今までの人生を振り返っていた。社長の息子として生まれ、自分が社長になった。順風満帆に見えた人生だった。だが、パワハラが自分の人生を変えた。会社も家も家族も全部失い、あいりん地区でひっそりと暮らし始めた。やがて職も住処も失い、自殺しようとした。まるで春夏秋冬を見ているようだ。春に生まれ、夏が学生時代で、秋が社長となった頃で、冬が何もかも失った日々だ。だが、私は和歌山で再び春を迎えようとしている。
「牧夫さん!」
誰かの声に気付き、牧夫は顔を上げた。理恵だ。1本後の電車に乗って、ようやくたどり着いた。
「理恵、どうした?」
牧夫は驚いた。理恵はもう戻ってこないと思っていた。ここまで追いかけてくると思っていなかった。
「あなたとの間に子供が生まれてたの。でも、未熟児なの」
理恵は息を切らしていた。ここまで追いかけてきた。牧夫に謝りたい。もう一度やり直そう。そして、結婚しよう。あなたとなら、それぞれの傷を理解し合えるはずだ。
牧夫は驚いていた。自分と理恵の間に子供が生まれていたとは。信じられない。
「そうなんだ、で、どうしたんだ?」
「私、間違っていた。あなたが今でも敦を恨んでいると思っていた。私、あなたがこんなに苦しんでいたとは思わなかった。そして、自殺に追いやったことを反省してると思ってなかった。それを知らなかった私がばかだった」
牧夫はもう許してくれないと思っていた。恋はもう終わったと思っていた。結婚なんてもうないと思っていた。
「理恵・・・」
「新しい人生、あなたと歩みましょ?」
理恵は両手で牧夫の右手を握った。もう一度この恋をやり直したい。結婚して、新しい人生を歩みたい。
「いいよ!」
牧夫は嬉しかった。また理恵が戻ってきてくれた。一緒に新しい人生を歩んでくれることが嬉しかった。
「ありがとう!」
2人は抱き合った。もう一度2人でやり直そう。そして、お互いの傷を受け止め合い、生きていこう。そして、ともに新しい人生を歩もう。
間もなくして、次の新宮方面の電車がやって来た。2人は手をつなぎ、一緒に電車に乗った。この電車から新しい人生が始まる。2人は笑みを浮かべた。




