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それぞれの傷  作者: 口羽龍
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第4話 命

 それから半年後、牧夫は夜のあいりん地区をさまよっていた。牧夫の体はやせ細っている。もう何日も食べていないようだ。


 理恵と別れて間もなくして、牧夫はコンビニを解雇された。パワハラの過去が原因だ。この過去はどうやっても消すことができない。


 それ以来、ハローワークに行って面接にありつけているものの、パワハラの過去で見送りになってばかりだ。これはどうしようもない。


 家賃を払うこともできなくなった牧夫は、家も失った。社長で、豪邸に住んでいた男は、あっという間にホームレスになってしまった。


 牧夫は公園のベンチに座って星を眺めていた。今頃、敦は天国でどうしているんだろう。こんなに落ちこぼれた俺をどう見ているんだろう。冷たく見ているのか? それとも、かわいそうに見ているのか? どんな気持ちなんだろう。


 こうなったのはパワハラをした自分への罰だ。これは一生かけても償うことができない。俺はその過去を一生背負って生きていかなければならない。それはもうどうにもできない。辛すぎる。でもそれが俺に与えられた罰なのだから。


 牧夫はゆっくりと目を閉じた。昨日も面接を受けてきた。しかし、島岡鉄工所の社長だったことと話すと、嫌な目をされて、面接が終わると書類を戻された。即不採用決定だ。どうしたらこれを償うことができるんだろう。牧夫は答えが見つからなかった。




 翌日、今日も面接だ。結局今日も野宿だ。もう何日も続いている。いったい今までの栄光は何だったんだろう。あれは夢だったんだろうか? いや、夢じゃなくて現実だ。ここまで転落したのも現実だ。


 牧夫は公園の公衆トイレでスーツに着替えた。便器はきれいだが、それ以外は汚い。尿の匂いがひどい。とても入りたくない。でも着替える場所はここしかない。


 牧夫は社長だった頃の家のトイレのことを思い出した。あの時のトイレはきれいだった。掃除がしっかり行き届いていて、使いやすかった。でも、今ではこんなところで着替えをするなんて。どこまで自分は落ちたんだろう。


 牧夫は面接する会社に向かった。ここからそんなに離れていない。歩いてでも行ける。


 牧夫は面接予定の会社にやってきた。今度の会社は金属加工だ。島岡鉄工所も金属加工だから、その経験を生かして採用してもらえると思っていた。


 牧夫は入口の扉を叩いた。


「失礼します」

「どうぞ」


 中から声が聞こえた。女性の声だ。受付の女だろうか。牧夫は扉を開け、中に入った。そこは受付だ。中はきれいだ。ここは事務所で、CAD、CAMや接客を行うところと思われる。


「本日、面接とお聞きしまして参りました、島岡牧夫です」

「どうぞ」


 牧夫は応接室の中に案内された。応接室は革の椅子だ。そういえば、社長だった時の椅子も革だったな。あの時はよかった。あの頃に戻りたい。でももう戻れない。


「こちらにお座りください」


 女は革の椅子に座るように指示した。


 しばらくすると、中年の男性がやってきた。採用担当者の社長だ。


「本日は、ありがとうございます。それでは、書類をお願いします」

「こちらでございます」


 牧夫は応募書類を社長に渡した。社長だったのに、今は社長に応募書類を渡しているとは。社長だった頃はもらう立場だったのに。ここまで落ちるとは思っていなかった。


 社長は応募書類に目を通した。そして、牧夫に次々と質問をする。どこに住んでいるのか、大学では何を学んでいたのか、趣味は何か。どれも牧夫は素直に冷静に答えていた。


 そして、職歴を見た時、あるところに目が入った。『島岡鉄工所』だ。あの、パワハラによる自殺の報復で放火に遭い、廃業になった所だ。


「島岡鉄工所ですか? あの、パワハラで従業員が自殺して、報復で放火にあって廃業したあそこですか?」

「はい」


 牧夫は素直に答えた。自分はその会社の社長だったことを誇りに思っていた。本当は誇りたくないのに。自殺に追い込んだことを言いたくない。でも、就職するためには、プラスになることを言わないと。


「何をしていたんですか?」

「社長です」


 そう聞いた時、社長の目つき変わった。あの時、社員をパワハラで自殺させた男だからだ。まさかあの男が面接に来るとは。きっとここでも暴力を起こすに違いない。こんな人材、この会社に来てほしくない。社長は心の中ではそう思っていた。しかし、牧夫にはそれを伝えなかった。


「そう・・・、ですか・・・」


 社長はその後も牧夫に質問をしていく。この会社に入ったら何がしたいか、自分の長所は何か、質問はないか。


「面接は以上です。どうも、今日はありがとうございました」


 牧夫は立ち上がり、鞄を手に取った。今回は書類を返されることはなかった。まだ合否はわからないようだ。


「ありがとうございました」


 牧夫は一礼し、扉の前に向かった。


「失礼しました」


 牧夫は扉の前に立つと、もう一度お辞儀をした。扉を開けて、会社を出て行った。


 牧夫は自信があったものの、島岡鉄工所の社長だったと知って目つきが変わったのが気になった。いつもそれが原因で嫌なことを言われた。履歴書を返されたのはたいていそれが原因だ。今回もその過去が原因で不採用になるんだろうな。牧夫は少しの不安があった。しかし、それを受け止めなければ。職歴は正直に話さないと。


 牧夫は歩いて公園に戻ってきた。段ボールでできた家のようなものがある。牧夫はそこに生活していた。


「牧さん、どうやった?」


 太郎だ。今日が牧夫の面接だと知っていた。どうだったか早く知りたかった。自分も再就職を目指して面接をしているが、なかなか決まらずにいた。金銭面でとても厳しい日々が続いていた。


「全体的にはよかったんやけど、パワハラの過去を知ったら嫌な思いされるんや」

「やっぱりか」


 牧夫はやはり過去のことで冷たい目をされて、不採用になるばかりのことを気にしていた。そう考えると、どうやってもだめなんじゃないかと思う。それでも弱気にならず、面接に挑まなければならない。


「うん。いっつもこれで嫌な目をされて、そして不採用になって」


 牧夫は今日の面接の目線のことを気にしていた。結局パワハラのことを聞かれるとこんな目をされてしまう。これはどうしようもない。


「牧さん、その気持ちわかるわ。辛いやろ?」

「うん」


 太郎は牧夫を励ました。だが、牧夫は立ち直れない。どうやっても同じだ。もう再就職なんてできないんじゃないか? でも拾う神が現れると思って頑張らなければならない。


「牧さん、絶対に拾う神が現れると信じて頑張ろうや」

「うん」


 太郎は牧夫の手を握った。牧夫を励ますにはそれしかできなかった。牧夫はいつの間にか涙を流していた。牧夫はいつも励ましてくれる太郎の優しさに感動していた。




 その日、理恵は自宅でじっとしていた。ここ最近、休日は家の中にいることが多かった。再び1人になり、どこにも行くところがなくなってしまった。だが、理恵は寂しいと思っていなかった。牧夫と別れてよかったと思っていた。自分の息子を死に追いやった奴との結婚なんて許せない。天国の剛も怒っているだろう。


 理恵は牧夫と撮った写真を見ていた。まさか彼が社長だったとは。とても信じられないけど、これが真実だ。しっかりと受け止めなければならない。


 突然、理恵は腹の痛みを感じた。がんだろうか? 理恵は誰かに気付いてほしい一心で外に出た。


「誰か、助けて!」


 その声を聴いて、何人かの人が窓から顔を出した。女が倒れていている。彼らは驚き、すぐに1人の女性が駆け付けた。その女は理恵のことを知っていた。


「どうしたんですか?」


 女は理恵をゆすったが、理恵はうつむいたままだ。


「理恵さん!」


 男も駆け付けた。だが理恵はうつむいている。


「しっかりして!」

「救急車! 救急車を呼んで!」


 女は持っていた携帯電話で救急車を呼んだ。理恵はいつの間にか意識を失っていた。




 翌日、牧夫は公園にいた。今夜も公園で一夜を明かした。もう何日もこんな日々が続いているんだろう。いつまでそんな日々が続くんだろう。早く就職して、再び自分の部屋を手に入れたい。


 突然、携帯電話がかかってきた。おそらく、昨日面接をしたところからだろう。牧夫は電話に出た。


「もしもし」

「島岡牧夫さんですか?」


 牧夫は驚いた。やはり面接した会社からの電話だ。今度こそは雇ってもらえるんだろうか? 牧夫はワクワクしていた。


「はい」

「先日は面接ありがとうございました。私どもで考えさせていただきましたが、今回は残念ながら不採用ということでよろしくお願いします。ごめんなさい」

「そうですか・・・。ありがとうございました・・・」


 牧夫は落ち込み、電話を切った。結局今回も落ちてしまった。何度面接をしたら採用にこぎつけられるんだろうか。


「牧さん、どうだった?」


 一郎が声をかけてきた。電話の内容を聞いていた。一郎も職が決まらず、日雇いで何とか食いつないでいるぐらいだった。一郎の体は更に痩せこけていた。声が小さく、力がなさそうだ。


「ダメだった」


 牧夫は下を向いた。結局、また落ちてしまった。これで何度目だろう。いつになったら再就職できるんだろう。


「そっか、落ちたんか?」

「うん」

「下を向かず頑張ろうや」


 一郎は肩を叩いた。だが、元気がない。体が衰弱して、もう仕事をする気力が残されていなかった。


「ありがとう」

「牧さん、頑張れよ。また仕事をしたいと思ってる牧さん、好きや。あきらめへんもん」


 一郎は牧夫の前向きな姿勢が大好きだった。自分もそんな前向きな気持ちがあれば。だが、もうそんな力もない。


「ありがとう。頑張るよ」


 牧夫は立ち直った。だが不安もあった。本当にこんな経歴で就職できるのか? このまま就職できずに飢えて死んでしまうんじゃないのか? 一郎の姿を見ると不安がした。




 それから数日後、一郎は栄養失調で死んだ。なかなか就職が決まらずに、お金が底をついて何も食べられないまま痩せこけて死んだ。


 牧夫は落ち込んでいた。一番の相談相手だった一郎が死んだ。もう自分には支えてくれる人がいない。


 牧夫は悩んでいた。お金が底をついてしまった。一郎に続いて、今度は自分が飢え死にするのか? 何百万円も持っていたのに、もうなくなった。こんなに落ちるなんて。


 牧夫は決意した。本当はしたくなかったけど、自ら命を断とう。それしか償えない。こんなに落ちぶれたのも、全部自分のせいだ。敦を死に追いやったのなら、自分も死ぬしかない。目には目を、歯には歯を。これはパワハラという取り返しのつかないことをした自分への罰だ。


 牧夫は萩ノ茶屋駅にやってきた。ここは高野線の普通のみが停まる駅で、南海本線にはホームがない。多くの電車が通過していく。


 牧夫はホームにやってきた。ホームには何人かの乗客がいた。客は少ない。ほとんどが天下茶屋方面の電車を待っている人だ。


 特急こうやが天下茶屋を出発した。次は新今宮だ。この萩ノ茶屋駅は通過する。特急こうやには高野山帰りの観光客もいる。彼らはこれから男が飛び降りることを知らない。


 それを見て、牧夫は飛び降りた。もう迷いはない。死んで償おう。それしか道はない。今まで生きてきて悪かった。ありがとう。妻や子供に伝えてくれ、泣かないでと。


「おい!」


 飛び降りるのを見た人が声を上げた。まさか、自殺か? それとも事故か?


「おーい! 人が飛び降りたぞ!」


 その隣にいた人は驚いた。まさかこんなことに遭遇するとは。


 突然、ホームにいた高校生が助けようとホームから線路に降りた。その隣にいた高校生は驚いた。まさか、助けようとするとは。


「信也!」


 高校生は止めようとした。だが、信也は戻ろうとしなかった。助けたい気持ちでいっぱいだった。


「危ない!」


 特急こうやは飛び降りた2人に気付き、急ブレーキをかけた。だが、間に合わなかった。2人を引いてしまった。


 特急こうやは急停止した。何が起こっているのか、乗客はわからなかった。事故だろうか? 特急こうやは急停止したものの、事故は防ぐことができなかった。牧夫は助けに行った信也がホームの下の隙間にどかして大丈夫だった。だが、信也は引かれてしまった。信也は救急車に担ぎ込まれた。牧夫もどかされた時にホームのコンクリートで頭を強打し、救急車に担ぎ込まれた。




「牧さん! 牧さん!」


 牧夫は目を開けた。病院だ。牧夫は電車に引かれて死んでいなかった。ただ、頭を強く打っただけだ。牧夫は死ぬことができなかった。


「生きてたのか?」


 牧夫はがっかりした。ここは現実だ。死ぬことができなかった。敦に謝りたかった。


「うん」

「何やってんねん! 自殺とか」


 太郎は怒った。こんなことで人生を諦めるなんて、情けない。人生を全うしてほしかった。


「パワハラで自殺に追いやったことは、自殺でしか償えないんじゃないかと思って・・・」

「アホ! そんなことないやんか! 敦さんの分も生きろよ!」


 太郎は牧夫にビンタをした。こんなことで自殺を図る牧夫が許せなかった。


「ごめん」


 牧夫は病床から太郎と抱き合った。自殺をしようとして本当に悪かった。たった一度の人生を大切にするから、これからもよろしく。


「牧さん、生きててよかった」


 太郎はほっとした。大事な友人の牧夫が生きていた。


「牧さん、あなたを助けた人、特急に引かれて死んだんだよ」

「そんな・・・」


 隣にいた看護婦さんの話を聞いて、牧夫は驚いた。あの時、自分を助けた高校生が死んだなんて。また自分は人間を死に追いやってしまった。俺はなんてひどい人間だろう。本当に申し訳ないことをしてしまった。


「僕はまた人を殺してしまった。僕はどうして人を傷つけてしまうんだろう」

「牧さん・・・、その気持ちわかる。」


 太郎は牧夫の気持ちがわかった。悪いことをしてない人を傷つけてしまった。またしても自分のせいで人が死んでしまった。その苦しみを牧夫は理解していて、その十字架を背負って貧しく生きてきた。


 太郎は牧夫がどんなに大変なことをしたのか、改めて知った。牧夫は人を死に追いやってしまった。そして、今回また人を死に追いやってしまった。敦を失ったことで命の大切さがわかったとはいえ、自分の過ちによってまた人の命を奪ってしまった。




「理恵さん!」


 理恵は目を覚ました。ここは病院だ。道路で気を失ってそこからは覚えていない。何があったんだろう。病気だろうか。がんで余命宣告が出ているんじゃないか。理恵は不安になった。


「やっと起きたか」


 隣には近所の人がいた。心配でここまで来ていた。ようやく気がついて、ほっとした。


「何が起こったの?」

「子どもが産まれたんやで。でも・・・」


 近所の人は深刻そうな表情をしていた。理恵は何事なのかわからなかった。


「全然知らなかった。兆候全くなかったし。どうしたの? 深刻な表情して」


 理恵は驚いた。まさか、妊娠していたとは。全く兆候が見られなかった。どうして? 誰の子供だろう。突然のことに戸惑っていた。


「体重が1000gにも満たないんですよ。超未熟児です」


 理恵が産んだ子供は予定日よりも何か月も早く、超未熟児だった。そのため、しばらくは病院から出ることができない。


「そんな・・・」

「理恵さん、誰かと結婚したの?」


 近所の人は全く知らなかった。理恵さん、誰かと再婚したっけ? 近所の人は首をかしげた。


「いえ」


 理恵は首を振った。再婚なんてしていない。牧夫と再婚する直前まで至ったけど、別れてしまった。もうあいつのことは忘れたかった。


「誰か男の人といたことは?」

「牧夫さんぐらいやな」


 理恵は牧夫と付き合っていたことを話した。本当は話したくなかった。自分の息子を死に追いやったにもかかわらず、交際しようとした牧夫が許せなかった。


「えっ!?」


 それを聞いて近所の人は驚いた。牧夫のことを知っているようだ。


「牧夫さん?」

「知ってるんですか?」


 理恵は驚いた。まさか近所の人が牧夫のことを知っているとは。


「うん。ここに入院してるんだ」


 実は、自殺を図ろうとしてけがをした牧夫が同じ病院に入院していた。


「会いたいんですか?」

「いえ、もう別れたんで」


 理恵は牧夫のことがまだ許せなかった。たとえそれが原因で命を絶とうとしたとはいえ、牧夫のことがそれでも許せなかった。


「そうか」

「赤ちゃん、見てみるか?」

「うん」


 理恵は近所の人と一緒にその子を見ることにした。理恵は少し戸惑っていた。牧夫との子供だからだ。もう別れた牧夫との子供を見るのは複雑な心境だ。


「この子や」


 近所の人は指をさした。そこには、とても小さい赤ちゃんがいた。理恵は絶句した。生まれた直後の敦よりずっと小さい。


「小さい」

「小さくて弱いから、しばらくここから出れないんや」


 近所の人は寂しそうな表情だ。どうしてこんな子供が生まれてきたんだろう。理想の体重で産まれてきてほしかった。




 夜更け、部屋の明かりが全て消えている。理恵は窓から夜空を見ていた。窓の向こうには大阪の夜景が広がる。通天閣は明日の天気を色で表している。いつもと変わらない夜景だ。理恵は感動していた。いつもこんな風景を見ることがない。


「どうしたんや」


 近所の男がやってきた。近所の男は理恵を心配してここにやってきた。


「まさか、子供が生まれたなんて」


 理恵はまだ信じられなかった。まさか子供が産まれていたなんて。


「しょうがないやんか」


 近所の人は肩を叩いた。理恵を慰めたかった。本当は産みたくなかった。牧夫との息子なんていらないと思っていた。


「あんな人の子なんて、産みたくなかった」


 理恵は涙を流していた。まさか産んでしまったとは。


「あんた、育てるつもりはないんか?」

「うん」


 理恵はうつむきながら答えた。子供は大事だけど、牧夫との子供なんて育てたくない。


「でもな、その命は大切な命なんだぞ」


 近所の人は何とかして理恵を育てさせようとした。


「わかってるよ。でも、あの人の子なんて・・・」


 突然、近所の人は理恵にビンタをした。育児を放棄しようとする理恵が許せなかった。


「アホ! 人の命を大切にせんのか? 牧夫さん、あの事件以降、人の命を大切にするってこと、学んだんだよ。でも、事件ですべてを失って、自殺しようとしたんだよ!」


 近所の人は厳しい口調だ。理恵のことが許せなかった。人の命を大事にしない理恵が許せなかった。


「自殺?」

「うん。何もかも失って、死ぬことでしか償えないことだと思って自殺しようとしたんだよ」


 近所の人は牧夫が自殺しようとして入院したと明かした。理恵はそのことを聞いて驚いた。まさか牧夫がそんなことをするなんて。


「そんな・・・」

「何とか助かったんだけど、骨折したんだ。だからこないだ入院してたんだよ」

「そうだったんだ」


 理恵は牧夫のことが少し気がかりになった。こんなことで自殺しようとするなんて。まるで敦のようだ。敦と同じことをしなければ償えないんだろうな。




 数日後、退院した理恵は鉄工所の跡に来ていた。敦はここで働いていた。理恵はいまだに敦のことが忘れられなかった。


「ここに来てたんですか」


 やって来たのは太郎だ。牧夫に付き添っていたが、理恵が入院して、昨日退院したことを知ってここに来た。


「うん」


 理恵はうつむいていた。剛や牧夫のことを思い出していた。


「牧夫さん、パワハラのこととても後悔してましたよ」

「そうなんだ」


 理恵はそんなことどうでもいいと思っていた。牧夫さんの事なんてもう忘れたい。


「全くその事を言わなかったんですか?」

「うん」


 理恵は正体を隠していた牧夫が許せなかった。そんなこと言ったら別れるだろうから言わなかったんだろう。


「きっと話したくなかったんだろうな。僕にもその気持ちがわかるな」


 太郎は牧夫の気持ちがわかった。自分の過去を必死に忘れようとすること、帳消しにするぐらい頑張りたい。でもそれが原因でこれほど転落してしまった。避けたくても避けられない。忘れたくても忘れられない。


「知ってたら、別れてたから」

「ですよね。でも、私、わかるんです。牧夫さんがパワハラのことを必死で償おうとする姿が」

「えっ!?」


 理恵はパワハラの過去で牧夫が苦しんでいることを知らなかった。ボロボロの服を着ていたのも、自殺しようとしてたのも、すべてパワハラの過去から脱却することができずにいたからだ。牧夫も大きな心の傷を持っているんだ。理恵は牧夫は少し心配になった。


「なかなか就職先が見つからず、見つかってもお金をあまりもらえず、貧しい生活を送り続けているってこと」


 太郎は再就職がなかなか決まらずに苦しんでいる牧夫の姿を見ていた。その度に、牧夫はパワハラを犯して、その罰を受けているんだ。必死で償おう、乗り越えようとしているんだ。それでもなかなか決まらないって、辛いだろうな。


「そうなんですか?」


 理恵はどれぐらい苦しんでいるか、詳しく知った。牧夫もこんなに苦しんでいるんだ。苦しんでいるのは、自分だけじゃないんだ。


「うん。貧しい生活を送っているのは、パワハラを起こした自分への罰なんだと」

「へぇ」


 理恵は牧夫のことが気がかりになった。このまま剛や敦に続いて死んでしまうんだろうか。でももういい。自分はもう別れたんだ。自分の息子を死に追いやった牧夫と付き合いたくない。

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