第2話 剛と理恵
来週土曜日、理恵は大阪拘置所に向かった。夫に会うためだ。
大阪拘置所は谷町線の都島駅の近くにある。都島までは谷町線で乗り換えなしで行けるが、そこそこ時間はかかる。
理恵は都島駅の4番出口から出た。歩き始めてすぐ、都島工業高校が見えた。今日は平日。登校日だった。
高校生が元気に遊んでいた。その声を聴いて、理恵は立ち止まった。高校生の頃の敦の笑顔を思い出した。あの子、可愛かったのに、優しかったのに。どうして。理恵の目から涙がこぼれた。
少し歩くと、新築のマンションが多く建っていた。その周辺では子供たちが元気に遊んでいる。理恵は子供だった頃の敦のことを思い出していた。初めて三輪車に乗れた日、ハイハイができた日。でも今はもういない。理恵はまた涙を流していた。
理恵は大阪拘置所の前にやってきた。建物の回りには脱獄を防ぐための高い壁や鉄格子がある。ここに入る前は、面会受付で許可を得ないと入れない。
理恵は門の前の守衛室の男に声をかけた。その男は看守と同じ服装をしていた。
「すいません。今日、面会の予定で来ました今田理恵と申します。」
男はメモを開いて、今日面会予定の人物の書いてあるページを探した。
「今田理恵さんですか。お待ちしておりました。どうぞ」
男は門を開け、理恵を中に入れた。理恵は守衛に軽くお辞儀をした。拘置所の庭は静かだ。ここにいるのは死刑囚とわずかな看守で、看守はもっぱら建物の中にいる。死刑囚は運動以外は牢屋の中で、外に出たとしても檻に囲まれた所だ。
理恵は応接室にやってきた。面会をする人はここで待つことになっている。
「看守が来るまで、しばらくお待ちください」
「わかりました」
しばらくして、看守がやってきた。その看守は茶髪のショートヘアーで、若々しい。理恵はショートヘアーで敦ことを思い出した。こんな髪形をしていたな。初めて会うのに懐かしさを感じた。
「私、本日、面会の予定で来ました今田理恵と申します」
「お待ちしておりました」
看守は理恵を面会室に案内した。面会室は拘置所の3階にある。
その頃、牢屋では剛が暴れていた。敦のことを思い出して、会いたいがために泣き叫んでいる。敦のいない世界に慣れることがなかなかできなかった。
「敦、敦、どこにいるんだ!」
「どうした?」
剛の声に気づき、看守がやってきた。看守はあきれていた。いつも騒いでばかりだからだ。
「敦に会いたいんだ!」
剛は檻をつかんでいた。剛は大泣きしていた。
「敦さんはあのとき死んだじゃないですか。忘れたんですか?あなたはその報復で放火殺人をして、逮捕されて、死刑を宣告されて、今ここにいるんじゃないですか?」
剛は泣いていた。敦のことが忘れられなかった。
廊下を歩きながら、理恵は剛の状態を聞いた。剛の状況が気がかりだった。敦のことが忘れられず、夢に出たり、目の前に現れることがあるという。
「ご主人の様子、どうですか?」
「相変わらずですよ。敦さんのことを思い出してわめくばかりです」
理恵はため息をついていた。相変わらずのことだからだ。剛の状態は以前から知っていた。なかなか治らないだろうと思っていた。
その後、剛はじっとしていた。敦のことを忘れられずにうずくまっていた。
「面会だ。出ろ!」
剛は顔を上げた。出入り口には3人の看守がいた。看守は厳しそうな表情だった。
しばらく待っていると、剛が面会室にやってきた。
「あなた」
「理恵」
剛は理恵のことをよく覚えていた。面会で来るのは理恵ぐらいだった。
「私、離婚しようと思うの」
「どうして」
突然、離婚の話を持ちかけられ、剛は驚いた。離婚するなんて、聞いたことがなかった。
「新しい人と付き合い始めたから」
理恵は牧夫との結婚を心の中では決めていた。
「そうか。幸せに暮らせよ」
剛は認めていた。もう理恵には会えないのだから、当然のことだと思っていた。
「気分はどう」
「相変わらずだよ。毎日毎日、敦のことばかり考えてるよ。早く会いたい。早く会いてぇんだよ!」
突然、剛が暴れだした。敦を失った悔しさで発狂しはじめたからだ。
と、その時、看守が抑えにかかった。看守は剛の以上に素早く反応した。発狂することの多い剛の場合、何人かの看守がいないといけなかった。
「あなた、あなた、しっかり!」
「理恵」
剛は少し落ち着きを取り戻した。剛は汗をかいていた。息が荒かった。
「大丈夫?」
「なんとか」
「早く良くなるといいわ」
理恵は早くいつもの剛に戻ってくれることを願っていた。私に愛情を注ぐ剛に戻ってほしかった。
「元気でな」
「今までありがとう、あなた」
「面会終わり」
看守に連れられて、剛は牢屋に戻っていった。剛は頭を落として、がっくりしていた。
理恵は拘置所を後にした。理恵は心の中で思っていた。今度会うのはいつだろう。その時までには牧夫との結婚を済ませたいな。
その頃、牢屋に戻った剛が叫んでいた。周りの死刑囚もそれに反応している。それを聞いて、看守が駆けつけた。
「どうした?」
「早く吊らせてくれ。一日でも早く息子に会いたいんだ。お願いだ」
剛は涙ながらに訴えていた。早く死にたい。天国で剛と暮らしたい。剛は早く処刑されることを願っていた。
「それはできません」
それはできないことだった。それは法務大臣が決めることだ。看守は法務大臣からの執行命令が出た死刑囚を絞首刑にするだけだ。
その夜、理恵は梅田駅の高架下の新梅田食堂街にある、串カツの松葉で飲もうとしていた。いつもは平野の近所の居酒屋で飲んでいたが、今日は松葉だ。
松葉の前には人が並んでいた。満席らしい。満席の場合、順番に店員が案内している。
「あれっ? 理恵さんじゃん!」
行列に並んでいる理恵に、1人の男が声をかけた。今日会った看守だ。今日の仕事を終えて、松葉で飲もうとしていた。
「あっ、今日はありがとうございました」
驚きつつ、理恵はお辞儀をした。ここで会えると思っていなかった。1人で飲もうと思っていた。
「まさかここで会えるとはな」
「そうですね、よかったら今日はここで飲みません?」
「そうしましょ」
看守は1人で飲む予定だった。だが、理恵がいたので、今日は2人で飲もうと思った。
「いつもここで飲んでるんですか?」
「いえ、いつもは自宅のある平野で飲んでます。今日は遠出したのでせっかくだから来たんです」
理恵は笑顔を見せた。誰かと飲むのは約10年ぶりだ。息子が自殺して、夫が逮捕されてから、誰とも飲んだことがなかった。
しばらくして、順番が回ってきた。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「2名様です」
理恵は指を出して答えた。
「どうぞ」
店員はカウンターを案内した。この松葉には立ち食いで、串と注文した飲み物、サイドメニューによって値段が違ってくる。
カウンターの前には串カツが置いてある。この店の串カツは揚げ置きだ。串かつ屋の多くは注文があってから揚げている。
「お飲み物は何になさいましょうか?」
「生中で」
「ワテも生中で」
2人とも生中をオーダーした。理恵は1杯目はいつも生中と決めている。
「どうも、生中でーす」
数十秒後、店員が生中を持ってきた。
「今日はありがとうございました。カンパーイ!」
「カンパーイ!」
2人はグラスを合わせ、乾杯した。2人は生中を飲んだ。口に泡が付く。
揚げ置きの串カツを見た。看守はどれを取ろうか考えている。
「おー、おいしそうやね。それじゃあ、そのえびを食べよっと」
看守はえび串を取った。尻尾付きで、尻尾の先に串が刺さっている。
看守は取ったえび串をソースに漬け、半分ぐらいほおばった。
「じゃあ、私は牛串で」
理恵は牛串を取り、ソースに漬けた。牛串は一番安い串の1つで、串の長さが一番短い。松葉は串の長さや形で会計をする。一番短いこの串は一番安い。
「いやー、びっくりしたな、まさか結婚とはな」
看守は再び生中を口に含み、残りのえび串を食べた。理恵が結婚すると聞いて、看守は驚いていた。
「いえいえ、つい最近ツイッターで知り合ったんですけどね。貧しい生活だけど、明るい表情でちょっと不思議な所がいいの」
理恵は笑顔を見せた。全くの偶然だが、結婚に至れるのなら素直に嬉しい。理恵も再び生中を飲んだ。
「そうか。幸せにな」
「うん!」
看守は今度はチューリップに手を出した。チューリップはカレー粉がかかっていて、ほんのりカレーの味がする。
看守はチューリップを半分ぐらいほおばると、また生中を飲んだ。あっという間に生中を飲み干していた。
「すいませーん、生中もう1杯!」
「あいよ!」
看守は空になった生中を見せた。店員はそれに反応し、ビールサーバーで生中をつぎ始めた。
その2日後、剛は朝からうずくまっていた。剛は今日も敦のことを考えている。夢でも敦のことが忘れられない。そればかり考えているためか、殺された人々の身内への謝罪の念が全くない。まるで全く反省していないようだ。
「今田剛、出ろ!」
突然、看守が入ってきた。後ろには、2人の看守がいる。脱走しないように見張っていた。
「死刑ですか?」
「ああ」
看守は厳しい表情だ。死んだ人の身内への謝罪の気持ちがないことを気にしていた。死刑は楽しいことではないと言っているようだ。
「やっと敦の所に行ける! ほんま、ありがとう」
剛は喜んでいた。これから死ぬにもかかわらず。剛は敦の所にもうすぐ行けることが楽しみでたまらなかった。
剛の3人の看守は教誨室に入った。そこには、教誨師がいる。
「あーあー、早く敦に会わせてくれー!」
その時、剛が暴れた。またもや敦のことを考えてしまった。
「抑えろ! 抑えろ!」
剛が暴れるのを見て、看守は剛を抑え込んだ。それを見ていた看守はあきれている。また剛が暴れているからだ。
看守は剛を前室に連れて行った。前室にはカーテンで仕切られた空間があり、そこに絞首刑で使われるロープが垂れ下がっている。そのロープのある所は死刑囚が目隠しされるまでカーテンで隠されている。
「最後に言い残すことはないか?」
「敦、待ってろ! 今行くぞ!」
剛が叫んだその瞬間、それを見ていた看守は右手を下げた。すると、5人の看守は一斉にスイッチを押した。すると、剛の足元の踏み板が落下した。ロープが垂れ下がり、頸椎が折れた。今田剛死刑囚の死刑が執行された。
その日の昼下がり、理恵はくつろいでいた。今度の週末は牧夫と何をしようか、考えている。結婚しようと決めていた理恵は、嬉しそうな表情だった。
突然、電話がかかってきた。理恵は驚いた。こんな時間に何だろう。理恵は受話器を取った。
「もしもし、今田です」
「今田理恵さんですね」
「そうですけど」
「本日、今田剛死刑囚の死刑が執行されました」
理恵は驚いた。突然の出来事だ。死刑が執行されるなんて、聞いていなかった。先週土曜日にあったばかりで、もうこんなことになったとは。理恵は固まっていた。今夜、牧夫に話そう。
牧夫は月曜日の仕事を終えて、自宅でくつろいでいた。今日も何事もなく1日を過ごせた。また明日も頑張ろう。
突然、牧夫の元に電話がかかってきた。牧夫は驚き、受話器を取った。
「はい」
「牧夫さん?」
「うん、理恵ちゃん、どうしたん?」
「今日、夫の死刑が執行されたの。敦に会いたい、敦に会いたいと心から願ってたから、きっと天国で敦と再会していると思うよ」
「そうか」
牧夫は何事もないような表情で聞いていた。だが、本当は驚いていた。島岡鉄工所を放火して、従業員全員を殺した男だ。
牧夫は放火された時のことを思い出した。あの時に放火した奴の死刑が執行されたのか。あいつは許せないけど、そいつの息子を死に追いやった私も許すことのできないことをやっている。牧夫は喜んでいいのかわからなかった。
金曜日の朝、牧夫は電話の音で目が覚めた。牧夫はびくっとなった。遅刻じゃないか。震えつつ、牧夫は受話器を取った。
「もしもし」
「理恵です。今夜、一緒に飲みたいなと思って」
理恵だった。牧夫はほっとした。だが、どうして急に一緒に飲もうとしたのか。ひょっとして、夫を失った悲しさを紛らわすために一緒に飲もうとしているのか。牧夫には全くわからなかった。
「何、急に?」
「その理由は後で話すわ」
「わかった」
牧夫はあっさりと認めた。その理由など知らずに。
「急に誘ってごめんね」
「うん。いいよ」
理恵は電話を切った。
実は理恵は旅に出ようと思っていた。夫を突然失ったショックから立ち直るために、そして、新たな生活に入るための心の整理のために、中国地方をぐるっと回ってこようと思っていた。
その夜、牧夫は待ち合わせた串かつ屋にいた。その串かつ屋は新世界にある『横綱』だ。新世界で飲むなんて、何年ぶりだろう。
新世界の夜はにぎやかだ。いつも食べている串かつ屋とは比べ物にならなかった。様々な店の明かりが見え、つぼらやの巨大なふぐ提灯が浮かんでいる。そびえたつ通天閣は明日の天気をネオンで示していた。
しばらく待っていると、理恵がやってきた。理恵はいつもよりおしゃれな服を着ていた。
「あ、今日はごめんね、急に誘っちゃって」
「いいよ」
2人は店に入った。店内は人がそこそこ入っていた。明日は土曜日ということもあって、昨日より人が多い。
「いらっしゃいませ。何名様ですか?」
「2名様です」
理恵は指を2本立てて、2人であることを示した。
「それでは、こちらのカウンター席へどうぞ」
店員は手を出して案内した。
「ありがとうございます」
2人はカウンターに座った。松葉と違って、ここは注文があってから揚げる。
「お飲み物はどうなさいますか?」
「生中で」
「私も生中で」
牧夫も理恵も最初は生中を注文した。
「かしこまりました」
店員は厨房に向かい、ビールを注ぎ始めた。
「どれにしようか?」
「私、串かつとなすとサーモンとえびとチーズで」
「じゃあ、俺は串かつとししとうとたことえびとピリ辛ウィンナーで」
店員が生中を持ってやってきた。
「生中でございます」
「すいませーん、串かつとなすとサーモンとえびとチーズで」
「串かつとししとうとたことえびとピリ辛ウィンナーで」
「かしこまりました」
店員は厨房に向かった。
「それじゃあ、カンパーイ!」
「カンパーイ!」
2人はグラスを合わせて乾杯した。2人は生中を飲んだ。
「どうしたの、理恵ちゃん、急に」
牧夫はどうして急に飲もうと言い出したのか聞きたかった。
「私、少し旅に出ようと思うの」
「どこへ?」
「中国地方」
理恵は夫に別れを告げ、新しい生活に入るため、自分をリセットしようと思って旅に出ることにした。
「そうか。しばらく会えないな」
牧夫は残念がった。しばらく理恵に会えないからだ。
牧夫は旅行に行ける理恵がうらやましかった。もう何年も旅行なんてしていない。社長だった頃は大きな連休となれば必ず行っていたのに。金銭に余裕がなくて、行くことができない。
牧夫は悔しくて悔しくてやりきれなかった。廃業に追いやった剛がいたら、今すぐぶん殴ってやりたい。でも、もう剛は死んだ。看守の手によって死んだ。
「ごめんね。自分をリセットして、新しい生活に入ろうと思ったからなの」
「いいよ。楽しんできて」
牧夫は笑顔で許した。しばらくいなくなるのは寂しいけど、帰ってきたらきっと幸せな結婚生活が待っている。牧夫はわくわくしていた。