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それぞれの傷  作者: 口羽龍
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第1話 元社長現アルバイト

 ここは大阪府大阪市西成区の新今宮駅付近。新今宮駅は大阪環状線と南海電鉄が立体交差するあたりにある駅だ。もともとは南海電鉄の駅だったが、乗り換えをしやすくするためにJRにも設置された。南海電鉄のすべての電車が停まり、大阪環状線は特急以外の電車が停まる。乗り換えで非常に活気のある駅だ。ただ、その影響で、南海電鉄の天王寺支線の乗客が激減し、天下茶屋と今池町の間が廃止になった。今池町と天王寺の間はその後も残ったものの、地下鉄堺筋線が天下茶屋まで延びたことで廃止になった。


 その駅前にコンビニがあった。24時間眠らないコンビニは深夜も光を照らしていた。その光に誘われ、若者がやってくる。そして夜食を買って去っていく。コンビニの隅にある雑誌コーナーでは若者が立ち読みをして暇つぶしをしていた。


 1人の若者が缶ビールと食べきりサイズの柿の種を持ってやってきた。青いジーパンにフード付きの黒いオーバーを着ていた。20代前半だろうか。足腰がしっかりしている。


 若者は缶ビールと柿の種をレジに置いた。


「いらっしゃいませ」


 店員は会計を始めた。レジの男は柿の種を手に取り、バーコードを読み取った。次に、缶ビールと手に取り、バーコードを読み取った。


「年齢確認が必要な商品です」


 レジから音声が聞こえた。酒やたばこは未成年が購入できないので、年齢確認のためにこの表示が出るようになっていた。


「こちらの確認ボタンをお願いします」


 店員は指をさした。若者は確認ボタンを押した。男は20歳以上だった。


「2点で369円になります」


 若者は400円を差し出した。


「400円をお預かりいたします」


 店員は400円を受け取った。


「31円のおつりと、レシートでございます。ありがとうございました」


 男は31円を出し、レシートを取った。若者はコンビニを出て行った。若者は少し歩いたところにある地下鉄の動物園前駅に入っていった。これからマンションに帰ると思われる。


 コンビニの倉庫から1人の男が出てきた。この店の従業員だ。今日の勤務を終え、帰宅しようとしていた。スポーツ刈りで、かっこよさそうに見えるが、あまり清潔とは思えない容姿だった。


 男は缶ビールとあたりめを購入した。要旨はかっこいいのに、元気がなかった。


「いらっしゃいませ」


 店員は辺り目を手に取り、バーコードを読み取った。次に、缶ビールを手に取り、バーコードを読み取った。


「年齢確認が必要な商品です」

「こちらの確認ボタンをお願いします」


 店員はレジを指さした。男はレジの液晶の確認ボタンを押した。


「2点で314円になります」


 店員は商品をビニール袋に入れ始めた。


「はい」


 男は350円を出した。


「350円お預かりいたします」


 店員はボタンを操作して、36円を取り出した。


「36円のおつりと、レシートでございます」

「あっ、レシートはけっこうです」


 店員はレシートをレシート入れに入れた。


「ありがとうございました」


 店員は頭を下げた。


「お先に失礼します」

「お疲れ様です」


 男は店を出て、アパートに向かった。北風が強く吹き付ける。男は身を震わせた。男は恋人と歩いている若者を見て、うらやましそうに思った。若者は恋人といることが幸せそうだった。男はあの時の事尾をもいだしていた。あの頃に戻りたい。でももう戻れない。男はとても悲しくなった。泣きそうになった。


 男の名は島岡牧夫しまおかまきお。39歳。駅前のコンビニの店員だ。午後3時から午後11時までアルバイトをしている。とてもまじめで物覚えもよい、だが給料は月10万円ちょっと。うっ止めているコンビニの近くのアパートに1人で暮らしていた。アパートは築40年。家賃は2万円足らず。4畳1間。風呂とトイレは別々。トイレは和式。エアコンはない。決していい環境ではない。ぎりぎりの生活を送っている。


 そんな牧夫には、輝かしい過去があった。今の生活からは、全く想像できなかった。


 実は、牧夫は鉄工所の元社長だった。だが、あることがきっかけで全てを失った。


 牧夫の家庭は裕福そのものだった。鉄工所の社長だった千々谷会長の祖父の背中を追って大卒で入社した。大学では優秀で、博士号を取るぐらいだった。友達も多くでき、楽しい毎日だったという。そんな牧夫は1年目から大活躍で、あっという間に会社の人気者になった。そんな牧夫は祖父の死去によって、父が会長になり、自分が社長になった。まだ27歳だった。


 牧夫は部屋に帰ってきた。だが誰もいなかった。こうなってもう3年だ。ある日を境に家族が次々といなくなって、あっという間に1人になってしまった。このアパートに住み始めて、誰も遊びに来たことがない。


 牧夫はお風呂に入った。接客をするコンビニ店員なので、お風呂は毎日入るようにしていた。お風呂は決して広くなく、暗かった。


 お風呂から出た牧夫は、冷蔵庫で冷やしておいた缶ビールを取り出した。缶ビールはキンキンに冷えていた。牧夫は辺り目と缶ビールをちゃぶ台に置き、缶ビールを飲み始めた。酒を飲んで、悲しい過去を忘れようとしていた。だが、なかなか忘れることができなかった。ある程度飲んだら、あたりめをつまみ、また飲んだ。過去を思い出して、涙が出てきた。酒を飲んでいると、いつもそうなった。


 缶ビールを飲みほした牧夫はベッドで横になって、その時のことを思い出していた。牧夫はほろ酔い状態で、顔が少し赤くなっていた。


 次第に牧夫は瞼が重くなり、そのまま寝入った。




 牧夫は夢の中で社長だった自分が転落するまでの夢を見た。


 4年前、鉄工所に今田敦いまだあつしという社員が入社してきた。高校を卒業後、ハロワークで検索して、たまたまこの鉄工所に面接をして採用になったらしい。面接をしたところ、やる気が見受けられたので採用することにした。


 だが、その社員は出来が悪かった。何とか正社員になることはできたものの、ミスをたびたび起こし、工具をたびたび破損させ、そのたびに社員に怒られた。しかも、なかなか謝ろうとしなかった。ミスが多く、態度の悪い敦に対して社長をはじめ社員は敦に厳しい態度をとった。


「お前は何でこんなことができねぇんだよ、バカ!」


 工場長はものすごい形相だった。


「生きていてもしょうがねぇから死ねよ!」


 その横にいた若い社員を厳しく言い放った。


「どうせお前は障害者なんだろ?」


 父は言ってはいけない暴言を吐いていた。父は悪いと思っていなかった。


 牧夫も毎日のように敦に暴言を浴びせていた。敦は厳しい表情でそれを受け止めていた。


 そんなある日、敦が行方不明になった。警察は敦を探したが、なかなか見つけることができなかった。1週間後、敦が都内の公園のトイレの中で首を吊っているのが発見された。自殺だった。遺書によると、会社での暴言や暴力が原因だった。牧夫は驚いた。信じられなかった。


 牧夫は停職になった。牧夫は自宅で落胆していた。食欲が急激に落ち、体重が10kg近く減った。両親も妻も娘も心配していた。


 そんな牧夫を励ましてくれたのは妻だった。牧夫を毎日励まし、気分を晴らすために旅行に行かせた。牧夫は仕事ばかりでなかなか旅行に行く機会がなかった。様々な観光名所を巡って、定職になったショックから立ち直らせようとした。最初は暗い表情だった牧夫は次第に元気を取り戻していった。


 だが、敦の死から1ヶ月経ち、ようやく本来の自分を取り戻り始めた頃、鉄工所が放火された。犯人は敦の父、つよしだった。剛は息子を自殺に追いやった鉄工所のことが許せなかった。入口で灯油缶の中の灯油をまき散らし、すぐに火をつけたという。火はあっという間に燃え広がり、入り口が炎に包まれて、従業員は逃げることもできなかった。駆けつけた救急隊員により日は1時間後に消し止められたものの、焼け跡から従業員全員が遺体で発見された。


 牧夫はその時のニュースのことを今でもよく覚えていた。それはリビングでくつろいでいた時のことだった。


 近所の中年の女性が急いで訪ねてきた。女性は息を切らしていた。


「島岡さん、工場が放火された!」

「何だって?」


 牧夫は驚いた。牧夫は信じられなかった。


「自殺したあの社員の父が放火したんだって」


 牧夫は開いた口がふさがらなかった。信じられなかった。


 牧夫は急いでテレビをつけた。すると、そのニュースが流れていた。


「今日午前8時ごろ、大阪市の島岡鉄工所に男が押し入り、すぐに灯油をまき、火をつけました。男はさらに蓋の開いた灯油入りの灯油缶を投げつけ、逃走しました。火は瞬く間に燃え広がり、工場と事務所が全焼しました。駆けつけた消防隊によって、火は1時間後に消し止められましたが、焼け跡から従業員全員の遺体が見つかりました。警察は、近所の目撃情報から犯人を特定、男は正午過ぎ、近くのコンビニで立ち読みをしていたところを逮捕されました。逮捕されたのは、会社員、今田剛容疑者です。調べによりますと、今田容疑者は、『息子が殺されて、会社に恨みを抱き、会社をつぶしてやろうと思い、放火した。停職中の社長も殺そうと思った』と話し、容疑を認めました。島岡鉄工所では、先日、今田剛容疑者の長男、今田敦が会社内でのパワーハラスメントが原因で自殺し、社長が停職になっていたばかりでした。犯行当時、会社では社員全員が集合し、朝礼が行われており、今田容疑者はそれを狙っていたようです」


 牧夫はまた暗くなってしまった。自分の職場が放火され、従業員が全員死んだからだ。昨日までの平穏は日々が一気に奪われてしまった。


 放火によって工場が全焼した鉄工所は2週間後、廃業した。牧夫だけでなく、家族全員が泣き崩れた。自分が築き上げた会社があっという間になくなったからだ。


 その翌年、妻が離婚し、その数日後、両親はショックのあまり自殺した。たった1年で牧夫は一人ぼっちになった。


 牧夫は豪邸を売り払い、ワンルームのマンションでひっそりと暮らすことになった。たった1年余りで、牧夫は地獄に落とされた。それから牧夫は再就職先を探した。だが、パワーハラスメントが起こり、それが原因の方かで廃業した会社に入っていたことが履歴書にあると、悪い印象ばかり言われた。帰ってきた結果は不採用ばかりだった。約1年経って、ようやくコンビニで働くことができたものの、給料が安く、裕福とは言えなかった。


 牧夫が目を覚ますと朝だった。牧夫は悪夢にうなされていた。社長だった自分が転落する夢だった。何度こんな夢を見たんだろう。忘れようとしても忘れられなかった。牧夫の枕は濡れていた。寝ている間に涙を流していたと思われる。牧夫はどうしようもない様子で濡れた枕を見ていた。


 今日は土曜日。今日と明日は休日だった。牧夫はパソコンの電源をつけた。ツイッターをしながらネットサーフィンをしようとしていた。そのパソコンは社長だった頃に購入したものだった。10年以上使っている。食速度は今のパソコンと比べ物にならないほど遅かった。だが、牧夫の収入では新しいパソコンで買う余裕などなかった。


 牧夫はツイッターを見ていた。コンビニでアルバイトを始めた頃からやっていた。現在のフォロー、フォロワー数は500ぐらい。多くも少なくもなかった。アイコンは週に1回通う串カツ屋の串カツだ。


 牧夫はプロフィールを開き、フォローとフォロワー数を見た。すると、フォロワーが1人増えていた。フォロワーが増えるのは1週間ぶりだった。


 牧夫は驚き、誰がフォローしたのか確認した。すると、フォローしたのは女性で、HNハンドルネームは「りえ」。同じ大阪市に住んでいるらしい。


 牧夫は同じ大阪市に住んでいる理由だけでリフォローした。そして、りえにツイートを送った。


「フォローありがとうございます。私も大阪市に住んでます。よろしくお願いします」


 するとすぐに、返信が来た。牧夫は驚いた。反応が速かったからだ。


「どうも。こちらこそよろしくお願いします。あのー、突然のことですが、できれば、明日、私と会いませんか?」


 牧夫は突然のことに驚いていた。女性と会食なんて、別れた妻以来だった。牧夫は戸惑っていた。いきなり会わないかと言われても。


「い、いいですけど、どこにお住まいですか?」


 牧夫はあわあわしていた。このまま結婚まで進んだら、この貧しい生活を抜け出せるかもしれない。そして、新しい子供に恵まれて、再び豊かな生活を送れるに違いない。


 牧夫は朝食を済ませると、新今宮から大阪環状線に沿って天王寺に向かって歩き始めた。目の前には300mの超高層ビル、あべのハルカスが見える。近鉄の大阪阿部野橋駅に立つビルで、日本一高いビルだ。


 牧夫はハルカスを見上げて、梅田のビルでの会議に参加したことを思い出した。あの時は本当に幸せだった。大阪の街を下から見下ろしていた。だが今ではビルを見上げている。まるで正反対だった。


 天王寺に向かって歩いていると、若いカップルとすれ違った。カップルは楽しそうな表情だった。牧夫は寂しそうな表情でそのカップルを後ろから見ていた。


 牧夫は別れた妻と恋人だった頃のことを思い出した。2人は大学で知り合った。違う学科だったがある講義で隣の席によく座ったのがきっかけだった。大学を卒業してすぐに結婚して、翌年に娘が生まれた。妻はどうしてるんだろう、娘は大きくなってどんな姿になったんだろう。でも牧夫はそれを知ることができなかった。


 歩いて20分ぐらい、牧夫は天王寺駅に着いた。休日ということもあってか、天王寺は人であふれかえっていた。


 牧夫は橋から天王寺駅に行き交う電車を見ていた。社長だった頃は電車に乗ってどこへでも行けたのに。今はあまり遠くへ行けなくなってしまった。あの頃が恋しい。でももう戻れない。牧夫は悲しくなった。


 牧夫は今朝のツイッターのことを考えていた。今朝のツイッターで知り合った女のことだ。あの女に会ってみるべきかどうか。牧夫は真剣に考えていた。真剣に考えるのは、仕事以外ではあんまりなかった。


 その夜、牧夫は自宅の近所の串かつ屋にいた。牧夫は週に1回この串かつ屋に通っていた。社長だった頃は明日が休みの時は必ず串かつで飲んでいたのに、現在では週に1回になってしまった。ジョッキ4杯はいっていたのに、現在はジョッキ1杯だけだった。


「牧さん、どうしたんや。嬉しそうな顔して」


 隣にいた太郎は牧夫の嬉しそうな顔を物珍しそうに見ていた。牧夫が笑顔を見せることは全くと言っていいほどなかった。太郎はこの近くのマンション澄んでいる住人で、この近くの鉄工所でアルバイトをしていた。鉄鋼の徐の社長だった牧夫を師匠のように慕っていた。


「そやな、牧さんの笑顔ってあんまり見やんね」


 串かつ屋の店主の克己かつきも牧夫の笑顔に反応した。牧夫の笑顔が物珍しかった。


「うん、ツイッターである女性に会って、明日会おうと言われたんだ」


 牧夫は嬉しそうな表情だった。久々に女の友達ができたからだ。


「いいじゃん! 牧さん、会ってみなよ。きっといい人だと思うよ」


 太郎は乗り気だった。いい女と巡り合えることを嬉しく思っていた。


「うん!」


 牧夫は元気を取り戻した。このまま結婚まで話が進んで、子供ができたらいいなと思っていた。


「おっと、ソースの二度漬けは禁止やで!」


 ソースの二度漬けをしようとした客を見て、克己は注意した。大阪の串カツはソースがステンレスの容器に入っていることがほとんどだ。そのソースはみんなが共用するので、衛生上の理由から一度口にした串かつをもう一度ソースに漬けるのが禁止になっている。場合によっては罰金が付く店もあるというが、この店は口頭注意のみだった。


「子ども欲しいっしょ、牧さん」


 克己もその話を喜んでいた。いい人と巡り会えるかもしれない牧夫を祝福していた。


「うん。俺の子供、どうしてんのかな?」


 牧夫は離婚した妻との娘のことを思い出していた。妻はどうしているんだろう。娘はどれだけ成長したんだろう。また会いたいな。


「別れた奥さんとあんたの子か?」


 克己は牧夫の妻や娘のことを知っていた。克己は妻や娘に会ったことがあった。別れた夜も、離婚届を提出した夜も来ていた。その時の悲しそうな表情は今も忘れられない。


「ああ」


 牧夫はいつの間にか泣いていた。豊かだったあの頃が懐かしかった。もう戻れない。全部自分が悪い。何度泣いても償えない。両親も妻も娘ももう戻ってこない。


「牧さん、あんたの涙、わかるわ。苦しいやろ。付き合って結婚して、また子供をもうけたら、また楽しい日々が戻ってくるはずだから」


 太郎は泣いている牧夫の肩を叩いた。


「あの頃はよかったなぁ。何でも食べれて、どんなとこにも行けて。今はこんなんだけど」


 牧夫はビールを飲み干して、また泣いた。


「わかるわかる。あんたの涙、わかるわ。また幸せになりたいもんな」


 結局、牧夫は1時間ぐらい泣いていた。テーブルは牧夫の涙で濡れていた。




 翌日の昼下がり、牧夫は女に会うことにした。今日は曇り。決していい天気ではなかった。だが、あまりいい服がなかった。少しボロボロだったが、仕方がなかった。牧夫にはいい服を変えるお金もなかった。社長だった頃は何でも買えたのに。あの頃に戻りたかった。


 牧夫は天王寺に向かって歩き出した。会う場所は天王寺の喫茶店だった。喫茶店なんて、何年ぶりだろう。社長の頃は、得意先との接待でよく利用したのに。


 牧夫は天王寺に着いた。今日も天王寺駅は賑やかだった。多くの乗客が行き交っていた。中には家族連れもいた。これからくろしおに乗って白浜に向かうと思われる。


 待ち合わせの喫茶店は天王寺ミオの10階にある。天王寺ミオはJRの天王寺駅に直結した複合施設だ。牧夫はその10階に向かった。


 牧夫は天王寺ミオの10階にやってきた。10階は人がまばらだった。みんな外を歩いているんだろうか。


 牧夫は喫茶店の前にいた。牧夫の他に待っている人はいなかった。牧夫は寂しくなった。でも彼女が来るまでの我慢だ。


「あ、こんにちは」


 女の声に、牧夫は反応した。牧夫は顔を上げた。話しかけてきたのは、美しいロングヘアーの女性だった。ただ、少し暗そうな表情だった。


「こんにちは」


 牧夫はお辞儀をした。


「はじめまして」


 女性は笑顔を見せた。だが、また暗い表情になった。何か不安を抱えているようだった。


「名前、何ていうんですか?」

「牧夫です」

「ふーん」


 女性は何かを考えているようなしぐさを見せた。名前に見覚えがあるようだ。


「どうしました?」


 牧夫は女の反応が気になった。牧夫という名前に何かがあるんじゃないかな?


「いや、何でもないわ。お茶、飲まない。大丈夫、お金は私が払うから」

「あ、ありがとうございます」


 牧夫はお辞儀をした。十分なお金のない私を気遣ってくれたことが嬉しかった。


 2人は店に入った。店には全く人がいなかった。店内は音楽しか聞こえなかった。


「いらっしゃいませ。ご注文は何にしましょうか?」

「ショートケーキとコーヒーでお願いします」

「チョコレートケーキとコーヒーでお願いします」


 女はショートケーキを、牧夫はチョコレートケーキを頼んだ。


「今さっきは変な表情してごめんね」


 女は謝った。牧夫という名前を聞いて嫌な顔をしたからだ。


「いいよ」


 牧夫は許した。そんなこと関係ないと思っていた。今日会えたことが何より嬉しかった。もっと仲良くなって結婚したかった。


「お待たせしました。ショートケーキとチョコレートケーキです。」

「ケーキなんて何年ぶりだろう」


 牧夫はケーキを見て考えた。豊かだった頃は休みの日はいつも食べていたし、誕生日ともなると妻がケーキを作ってくれた。自分だけでなく家族もそうだ。なのに今は、誕生日であってもケーキが食べられない。


「何年ぶりって?」

「俺んとこ、貧乏だもんで、ケーキ食べれないんですわ」


 牧夫はケーキを口にした。何年ぶりに食べたケーキはほのかに苦かった。ビターチョコレートの苦みだった。


「そう。久々のケーキはおいしいでしょ?」


 女は笑顔を見せた。牧夫にも喜んでもらえたのが嬉しかった。


「うん!」


 牧夫は嬉しかった。人に払ってもらうとはいえ、ケーキが久々に食べることができて嬉しかった。


「よかった!」


 女は笑った。女は牧夫の笑顔が好きだった。おいしいおいしいと言って食べてくれるところが好きだった。


「来週、あなたの家に行きたいな」


 突然、女は自分の家に来ないかと持ち掛けた。女は突然言われても戸惑うだろうと思っていた。


「ええよ。ところで、君、何ていうんだい?」


 牧夫はすんなりと答えた。結婚に至らせるためのことなら、何でもしたいと思っていた。


「理恵。今日はありがとう」


 理恵は嬉しかった。また来週、牧夫に会えるからだ。今度は自分の家で。今度はどこで食べようかな?理恵は来週のことを考えていた。




 その夜、牧夫は自宅の近くの食堂で晩ごはんを食べていた。その食堂はとても安く、この周辺に住む貧しい人々にも手が届くほどだった。ここの女将はとてもやさしく、これもこの店が多くの人々から支持されている理由だった。


「牧さん、あの女、どうやった?」


 食堂には太郎もいた。今日は太郎もこの食堂にいた。


「印象良かったで」


 牧夫は笑顔だった。久々に恋に恵まれたからだ。このまま結婚して、豊かな生活になって、子供ができれば最高だと思っていた。


「おー、いい話に進展するといいじゃん」


 太郎も乗り気だった。貧しい生活から抜け出せそうな牧夫がうらやましかった。自分も結婚して貧しい生活から抜け出したいと思っていた。


「牧さん、彼女、できたんかいな?」


 女将も驚いていた。牧夫に彼女ができると思っていなかった。


「まぁね、昨日、突然できたぐらいで、まだまだやね」


 牧夫は笑顔を見せながら、定食のアジフライを口にした。


「期待しとるで、牧さん」

「ありがと」


 期待を寄せられて、牧夫の箸はますます進んだ。




 来週土曜日、牧夫は平野にやってきた。理恵はここに住んでいるという。牧夫は御堂筋線と谷町線を使ってやってきた。


 牧夫は教えられた場所に向かっていた。そこは旧平野線の平野駅跡の近くにあるという。平野線はかつて南海電鉄が走らせていた路線で、谷町線が延伸する際に廃止になったそうだ。終点の平野付近は遊歩道として整備されていた。


 牧夫は平野駅跡にやってきた。理恵の自宅はこの近くだ。平野駅の特徴だった八角形の屋根を見て、牧夫は自宅に向かった。


 牧夫は理恵の自宅にやってきた。その家は塀に囲まれた2階建てで、茶色い外壁で、赤い屋根だった。周りには木が植えられているが、何年も手入れされていないのか、雑草が多かった。


 牧夫は玄関のインターホンを鳴らした。


「はーい」

「牧夫ですけど」


 理恵は玄関のドアを開けて顔を見せた。理恵は暗そうな表情だった。まるで先週日曜日に会った時とは別人のようだった。


「あ、こんにちは」

「どうも」


 牧夫はお辞儀をした。社長ではなくなったとはいえ、礼儀は忘れていなかった。


「あれっ、1人暮らしなんですか?」

「ええ。1人息子がいたんですけど、職場でパワハラにあって自殺。そのことで会社に恨みを持った夫が職場を放火殺人して逮捕されたの。夫はもう死刑が決まってるわ」


 理恵は悲しそうに答えた。自殺した息子のことが忘れられずにいた。死刑囚の夫もそうだった。息子のことを思い出して興奮して手が付けられなくなることが度々ある。


「そ、そうですか」


 牧夫は下を向いた。牧夫は、理恵が自殺した敦の母ではないかと思い始めていた。もしそうであって、自分の過去がばれたら大変なことになるかもしれないと思った。


 理恵は和室にやってきた。和室には仏壇があって、そこには若い男の遺影があった。


「これがお子さん」


 遺影を見た時、牧夫は驚いた。その男は、敦だった。理恵は、敦の母だった。牧夫はしばらく見入っていた。牧夫はとんでもない女と付き合ってしまったと思った。先週日曜日に名前を言った時に嫌な表情をしたのは、鉄工所の社長と下の名前が一緒だったからだ。


「へぇ、いい顔してますね」


 牧夫はしばらく見とれていた。まさか、理恵が敦の母だったなんて。


「明日、あなたの家に行きたいな」


 牧夫は驚いた。家を訪問すると、自分が敦を死に追いやった男だということがばれてしまう。


「い、いいですけど」


 牧夫はいいと答えてしまった。本当は嫌だ。自分のことがばれてしまう。でも結婚のためなら、自分の幸せのためならいいと言わなければ。牧夫は断れなかった。


「ありがとう。突然言ってごめんね」


 理恵は嬉しかった。久々にいい人に巡り会えた。絶対に結婚まで話を進めたいと思っていた。


「いいですよ。会えることが嬉しいんですから」


 牧夫は笑顔を見せた。だが心の中では会うことに対して抵抗感を覚えていた。自分の秘密を知られたくないからだ。でも結婚するためには会わなければ。


 牧夫は帰りの地下鉄の中で考え事をしていた。俺は本当に理恵と付き合っていいのか。あの女は俺が死に追いやった男の母だぞ。自分の正体がばれたらどんなことをされるかわからない。理恵の夫はそれが原因で鉄工所を放火し、全焼させ、廃業に追いやった奴だ。ばれたら、俺も殺されそうだ。




 その夜、牧夫は太郎と行きつけの串かつ屋で飲んでいた。


「えっ!? 明日理恵さんが来るんかいな?」


 太郎は驚いていた。来るとは思っていなかった。


「うん」

「どんな子やろう。見てみたいな」


 太郎は楽しみだった。どんな女だろう。可愛い女の子なのか。太郎は気になっていた。


「ロングヘアーのごく普通の人ですけど」

「ふーん、ますます結婚に近づいたやん」


 牧夫は笑顔を見せた。また結婚に近づいたことが嬉しかった。牧夫は牛串カツをほおばった。


「牧さん、頑張れよ」

「ああ。でも・・・」


 牧夫は下を向いた。自分のことがばれるのが怖いからだ。ばれたらどうなるかわからない。最悪の場合、殺されるかもしれない。


「どないしたんや」


 突然表情の変わった牧夫を見て、太郎はどうしたんだろうと思った。


「あの人、俺が社長だった頃、自殺に追いやった奴の母やねん」

「えっ!? マジか?」


 牧夫は理恵の秘密を話した。太郎は驚いた。まさか、牧夫が死に追いやった男の母親だったとは。何という偶然だろう。


「ああ。俺の正体ばれたらどうなるかわからんねん」

「ばれんように頑張るしかないな」

「ああ」


 牧夫は生中を飲み干した。牧夫はばれるのが怖かった。生中を飲んでその恐怖を忘れたかった。




 翌日、牧夫は朝からあわただしかった。理恵が来るからだ。部屋を整理しておかないと、理恵に嫌われる。自分の過去がわかったら、嫌われる。


 11時ごろ、理恵がやってきた。理恵はいつもよりおしゃれな服を着ていた。今日は牧夫の家に行くのでいつもよりいい服を着ようと思っていた。


 突然、インターホンが鳴った。牧夫はわくわくしていた。理恵が来たと思ったからだ。牧夫は扉を開けた。


「あ、どうも」


 理恵だった。理恵はいつもよりおしゃれな服を着ていた。理恵は嬉しそうな表情だった。牧夫の家に行くのを楽しみにしていた。


「こんなとこに住んでるんですね」

「貧しいもんで」


 牧夫は少し笑みを浮かべた。


「そうでうすか。家族はいるんですか?」

「いないんですよ」


 牧夫は少し悲しくなった。無理心中した両親と、別れた妻と娘のことを思い出した。牧夫は泣きそうになったが、ここはこらえた。


「そう。一人ぼっちなんですね。私もそうですけど」


 理恵も悲しそうに答えた。牧夫はそんな理恵に申し訳ないと言いたかった。自分のせいで一人ぼっちになったからだ。


「ど、どうしたんですか?」


 理恵は牧夫の表情が気になった。


「いえ、何でもないんです」


 牧夫は笑顔で答えた。だが、本当は気にしていた。自分のせいでこうなってしまったことを気にしていた。


「そう、変な人ね」


 理恵は笑顔を見せた。人を変に思ってはいけないと思っていた。息子は変だったから社長に怒られて自殺に追いやられた。人間は人間、性格なんて関係ないと思っていた。


「こんな奴でごめんね」


 牧夫は理恵に謝った。


「いいわよ」


 理恵は許した。理恵は牧夫の笑顔が好きだった。いつかこの人と一緒に暮らしたいと思っていた。


「今日はありがとね」

「どういたしまして。また来てね」


 1人になった部屋で、牧夫は隠していた写真を見ていた。その写真は、鉄工所の従業員の集合写真だった。その中には、敦の姿もあった。


 牧夫は涙を流していた。敦に申し訳ないことをしたからだ。自殺に追いやってしまった。謝りたくても、敦はもう帰ってこない。


 部屋のインターホンが鳴った。牧夫は驚いた。理恵がまた来たと思った。忘れ物をしたんだろうか?


 牧夫はドアを開けた。そこには太郎がいた。


「牧さん、理恵さんにばれんかったか?」

「うん」


 牧夫は嬉しそうに答えた。ばれずに終わったからだ。


「よかったな」

「でも、結婚することとなると、書類書かないかんやろ。どないすんねん」

「そうだな・・・」


 牧夫は深く考え込んでしまった。婚姻届を見せたら自分が誰かばれるからだ。


「今さっきすれ違ったんやけど、なかなかかわいい子やね」

「うん」


 牧夫は理恵のことをほめられて嬉しくなった。だが、婚姻届のことを考えると気持ちが沈んでしまった。どうすればばれずに結婚できるだろう。牧夫は思いつくことができなかった。

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