⑫ 『取引』
「あんた、一体何をしたのよ?」
部屋に戻ってきたイルリアは、サクリの変化に気づき、椅子に座るジェノに尋ねる。
つい先程まで、彼女は生きる気力を完全に失っていた。けれど今は、目に生気が宿っているように見える。
「疑問に思ったことを尋ねただけだ」
しかし、ジェノは仏頂面で答えにならない事を言うと、椅子から腰を上げて、サクリの食事が乗せられたトレイを手に持つ。
ほとんど手付かずだった今までと違い、どの料理にも匙を伸ばした形跡があるのを、イルリアは見逃さない。
さらに、デザートが入っていたであろう小皿は、空になっていた。
「イルリア、後を頼む」
ジェノはそう言い残して、部屋を出ていく。
イルリアの問に明確な答えを返さずに。
「ああっ、腹が立つ! 必要なことくらい話しなさいよ!」
イルリアは片手で自分の額を掴み、怒りを口にする。
「サクリさん。あの馬鹿に、何か失礼なことをされませんでしたか?」
「えっ? いえ、そんなことは……」
サクリが今までとは異なり、すぐに返事を返してきたことから、やはりジェノがなにかしたのだと、イルリアは確信する。
「……あの、イルリアさん。その、申し訳ありませんでした。私は、優しくしてくれる貴女に、酷い態度をとっていました。どうか、許して下さい……」
サクリがそう言って頭を下げたことに、イルリアは驚く。
何が彼女を変えたのかは分からないままだが、こうして歩み寄ってくれるのであれば、こちらも対応の仕様がある。
「いいえ。何も気にしないで下さい。別になんとも思っていませんから」
「ですが……」
本当に申し訳無さそうな声でいうサクリに、イルリアはしばらく困っていたが、そこで妙案が浮かんだ。
「あの、サクリさん。よければ、私と個人的な取引をしてくれませんか?」
藪から棒に、イルリアは話しを持ちかける。
「えっ? とっ、取引? それは、一体どういう意味でしょうか?」
言葉の意味がわからずに困るサクリに、イルリアは説明を始める。
「サクリさんは、これが私の仕事だと言っても、いつも私にものを頼む時に、すまなそうな顔をして遠慮しています。ですが、私はもっと気軽にあれこれ言って頂けたほうが、気が楽です」
イルリアは包み隠さず、本当の気持ちを口にする。
「その、すみませんでした……」
サクリが謝罪の言葉とともに顔を俯けた。
「ですから、謝る必要なんてないんですよ。でも、そうは言ってもなかなか割り切れないと思います。だから、私はサクリさんと取引がしたいんです」
サクリが顔を上げてこちらを見たので、イルリアはにっこりと微笑んだ。
「サクリさん。私は貴女に個人的にお願いしたいことが一つだけあります。そして、もしもそれが叶うように力を貸してくださるのなら、私も今まで以上に、貴女のために尽くします」
「……ええと、その……」
サクリはこの提案がまだ理解できないようだ。そこで、イルリアは更に詳しく説明する。
「私は、個人的な理由で、これから行く『聖女の村』に居られる聖女ジューナ様にお会いしたいと思っています。ですが、生憎と私には伝手がありません。そこで、貴女を村まで送り届けた際に、私が聖女様にお会いしたいと願っていると、お付きの方に伝えて頂きたいのです」
イルリアはまず、自分の要求を伝えた。
「えっ、はい。私程度の口添えがどれほどの効果があるかは分かりませんが、それは問題ありません。ですが、それくらいのことでしたら、取引などと言われなくても……」
サクリが気遣いをしてくれようとしたが、彼女の口の前に右手の人差指を置き、イルリアはそこで話を区切る。
「そうですか。では、取引は成立と言うことにさせて頂きます。よろしいですね?」
「えっ? あっ、はい……」
サクリから言質を取ると、イルリアはにっこり微笑んだ。
「よし。これで、サクリさんは私に遠慮する必要はなくなりましたね」
「えっ? あの、やはり、仰っている意味が……」
サクリの言葉に、イルリアは悪戯っぽく微笑む。
「サクリさん。私は、悪い女なんですよ。すでにカーフィア神殿から提示された報酬を貰うつもりなのに、更に貴女にまで報酬を要求しているのですから」
イルリアはそう言って、ニヤニヤとした笑みを作る。
「あっ! それは、つまり……」
サクリもようやく話が見えてきたようだ。
「ですから、私は、善意で貴女に力を貸すのではありません。自分の望みを叶えるために、貴女に打算的に尽くすんです。だから、サクリさんは、私に何の遠慮も必要ありません。むしろ、『お前の望みを叶えてやるんだから、せいぜいしっかり働け』くらいの気持ちでいて下さい」
イルリアはそう言って満面の笑みを浮かべる。
「ですが、それは、あまりにも……」
サクリがなにか言おうとしたが、イルリアはそれを遮る。
「はい、残念。もう取引は成立してしまっています。女神カーフィア様は、人々の交流を司る神様。その交流の中には、契約も含まれていたはずです。その信徒であるサクリさんが、契約を破棄するなんてことを今更言うはずがありませんよね?」
「うっ……。それは……」
イルリアは、言葉に詰まるサクリに畳み掛ける。
「それと、私に敬称も敬語も不要です。『イルリア』と呼んで、普通に話して下さい。その方が、頼むのも楽でしょうし、遠慮も減るはずです」
「……分かりました。いえ、その、分かったわ」
サクリは言葉を言い直し、苦笑する。
「イルリア。その代わり、私のことも呼び捨てにして。普通に呼んで」
サクリのその願いに、イルリアは嬉しそうに頷く。
「そんなの、お安い御用よ。改めて、よろしくね、サクリ」
「ええ。イルリア」
イルリアはそっとサクリの手を握り、握手を交わす。
そして、それからイルリア達は、少し打ち解けて話をする。
女同士の気安さもあって、あっという間に距離は縮まった。
そして、二人は、やがてデリカシーのない黒髪の男への文句を口にし合うのだった。




