⑥ 『戦闘、そして』
「……!……」
思わず声が漏れ出てしまいそうになった。
巨大な猿と最初の目撃者である子供は説明していたらしいが、なるほど的を射た説明だとレイは思う。しゃがみながら何かをクチャクチャと食べているその後ろ姿は、確かに大きな猿のようだ。しかし、その巨躯は、自分の想像を遥かに超えていた。
しゃがんでいるだけでレイの腰よりも高い。そして幅もある。立ち上がればおそらく二メートルは超えるだろう。だが、レイはその巨大な猿が手を伸ばす物体を一瞥し、剣を握る手に力を込めた。
「照らせ!」
そうキールに指示を出すのと、布が取り払われたランプの明かりが、闇を照らす。
突然明かりに晒されて、巨大な猿はビクッと体を硬直させて素早くこちらを振り返ろうとしたが、遅い。レイの剣は巨大猿の背中に一撃を食らわせた。
「ちっ! 浅い!」
レイの渾身の一撃は、背中を斬り裂いて出血させたものの、致命傷には程遠い。人間とは異なり、その皮膚が尋常ではない硬さをしていたため、刃が肉をわずかに傷つけたに過ぎない。
まるで、自分とキールが団服の下に身に着けている鎖帷子を斬りつけたような感じだ。
「なんだ、こいつは……」
ランプで照らされたその巨大猿の顔を視認し、レイは恐怖を覚えた。
こんな化け物がいるとは想像したこともなかった。
確かに目の前にいるのは、体が薄茶色い体毛でおおわれている巨大な猿のようだったが、その顔が猿とは大きく異なり、いくつもの目を持つ醜悪な蜘蛛のような顔をしているのだ。そして、醜いその顔は赤く染まっている。それは、今まで食べていたものの血の色。人間の血の色だ。
「殺して食ったのか! この俺達の街で、俺達が守るべき人間を!」
レイは怒りを利用し、恐怖の感情に蓋をする。今は怯えている場合ではない。この化け物と戦わねばならないのだから。
化け物は、レイを睨みつけると奇声を上げてこちらに向かって突進してくる。
狭い路地の先は行き止まりだ。逃げるにせよ、退路はレイ達を突破しない限りない。
そういう意味では地の利は今のところこちらにある。だが、短所もある。それは、三人いるのに路地の狭さの関係で、一人しか化け物と相対することができないということだ。
「くそっ! この腕の硬さは何だ!」
レイは化け物が振り回す腕を骨ごと砕かんばかりに、全力で剣を振り下ろしたのだが、硬い皮膚と分厚い筋肉に阻まれて、僅かな傷しか負わせられない。
まずい。
レイは剣を巧みに扱い、大猿の攻撃を防いで攻撃を続けるが、化け物のあまりの硬さに腕が痺れ始めてきた。
できることなら距離を取りたいが、それではせっかく追い詰めた意味がなくなってしまう。
だが、そこで呼笛の音が響いた。
指示を待つまでもなく、キールが明かりを確保しながらも、増援を呼んでくれたのだ。
そして、更に事態は好転することになる。
「なにっ!」
化け物の巨躯が、レイから見て右側に傾いた瞬間を狙いすましたかのように、何か大きな影が左側の壁に向かって跳躍し、壁を蹴って化け物の背後に回るのと同時に攻撃を仕掛けたのだ。
こんなずば抜けた体術がなければできないことは、まだキールには無理だ。ならばそれをしたのはジェノしかいない。
その一撃に、怒りによるものか痛みによるものかはわからないが、化け物が奇声を上げる。
よく見るとジェノの剣がほんの僅かにだが光を帯びているのが分かった。きっと、魔法が掛かった武器なのだろう。そのため、深く化け物を斬りつけられるようだ。
「ちっ、やりやがるな」
レイは文句を言うような口調ながらも、ジェノの体術と度胸に感心する。
「ジェノ、ほかの連中が来る前に片づけるぞ!」
レイは化け物を挟んで奥にいるジェノに声をかける。
図らずとも、挟み撃ちの体制が取れたのは大きい。それに無愛想な奴だがジェノの剣の腕は確かだ。
レイはこれ以上犠牲者が出る前にこいつを斃すと心に誓う。
化け物は頭をキョロキョロと動かし、いくつもある目を使って情報を確認しているようだった。そして、レイとジェノに視線を移し続けたが、やがてジェノに狙いを定め、前傾姿勢を取った。当然、レイに無防備な背中を晒すことになる。
「くたばれ、化け物!」
その隙を逃すつもりはなかった。レイは全力で化け物の背に剣の一撃を放とうとする。たとえ石のように固かろうと、両断する気持ちで。
……しかし、
「罠だ! 攻撃をやめろ、レイ!」
今まで聞いたことがないジェノの大声に、レイは不穏なものを感じて斬りかかろうとしていた体にブレーキをかける。
次の瞬間、何かがレイの顔を薙ぎ払わんと空間を横に通過し、彼の体は路地を区画する石の壁に激突した。それでも、既のところで前に出るのを思いとどまったおかげで、顔ではなく、剣がそれに当たったのは僥倖だった。
そんな軽々とレイの体を横薙ぎに宙を舞わせたのは、『腕』だった。
それは間違いなく化け物の腕だった。だが、その腕は、化け物の左右のそれではない。背中から突然生えてきた、三本目の腕だ。
直撃ではなかったためレイは壁に体を軽く打ち付けた程度で済んだのは不幸中の幸いだが、レイは体制を崩してしまっている。
そして、ジェノは挟み撃ちを仕掛けるために近くにはいない。
そのため、レイの側に残されたのは、キール一人だった。
キールは抜剣こそしているものの、ランプで明かりを照らす役目が主であり、攻撃を仕掛ける体制はおろか、回避する姿勢も取れていない。
化け物はその隙きを見逃さなかった。
ジェノに背を向け、化け物は渾身の力で地面を蹴り、キールに襲いかかろうとする。
「キール!」
レイにできたのは、後輩の名を叫ぶだけだった。
スローモーションで化け物の太い腕が、右腕が、キールの顔に叩き込まれる――かに思えた。
だが、それよりも一瞬早く、化け物と同じ様に跳躍し、その背中から生えた腕をジェノが斬り落とした。そのため、化け物は苦痛に攻撃の手を止める。
「気を抜くな! 死ぬぞ!」
「はっ、はい!」
ジェノの怒声に、キールは剣を構え直す。
背中から生えた腕を切り落とされて絶叫する化け物は、顔だけ振り返ってレイ達を一瞥すると、地面を両足で思いっきり踏み込み、跳びはねた。
信じられない跳躍力だった。
化け物は、そのままレイの身長の倍以上ある建物の屋根に跳び乗った。そして、忌々しげにこちらを見下ろし、大きく吠えてから、屋根を跳び移って逃げ出していく。
「追うぞ、キール、ジェノ!」
「ええ!」
「……分かった」
三人は屋根を走る化け物を追った。だが、屋根を跳んで進む化け物とは異なり、暗い道なりに進むことしかできないレイ達はすぐにその姿を失ってしまった。
そして今回も、逃げていく方向は貴族街の方だ。
「はぁ、はぁ……。レイさん、もう追跡は不可能です! そっ、それに、一旦報告に戻らないと……。呼笛で……集まって…みんなに……」
息を切らしながらも、いつまでも追いかけ続けようとするレイにキールが必死に声をかけてくる。
頭に血が上っていたレイだったが、後輩の懸命な訴えに、足を止めた。
それと同じタイミングで、レイ達の後ろを走っていたジェノも追いついてきた。
レイは、息を多少乱しているものの、相変わらず無表情なジェノに怒りを覚えたが、それが八つ当たりだと言うことに気が付き、気持ちを落ち着かせる。
ジェノは自分たちに付かず離れず、後衛の仕事を全うしていた。それに、先程はキールを助けた。その功績は褒めることはあっても、貶して良いものではない。
「……ジェノ。見てのとおり見失った。だが、お前のお陰でキールが助かった。今更だが、礼を言う」
「ええ。正直、死ぬかと思いました。ありがとうございました」
レイとキールの感謝の言葉に、ジェノは「いや、これも仕事だ」とだけ言い、話を変える。
「レイ。これから今後の計画を話し合うのだろう? 俺もそれに参加させてくれ。あの化け物は、以前戦った事がある生物と酷似している。少しは、俺の知識も役立てられるかもしれない」
今まで自分たちに積極的に協力していたとは思えなかったジェノから、思わぬ提案がされたことにレイは驚く。
「……それが、あの化け物の背中から腕が生えてくる事を、お前が読んでいた理由か?」
「ああ、そうだ」
ジェノはあの化け物の行動を明らかに予測していた。それ故に、その言葉には信憑性がある。
「分かった。副団長に話してみる」
レイはそう決断すると、キールの呼吸が落ち着くのを待って来た道を駆け足で戻る。仲間たちに今回の出来事を伝えなければいけないからだ。
犯人を取り逃がしてしまった失態は大きいが、得るものもあったと、レイは懸命に自身を納得させた。
(……すまない。守れなかった……)
そして、レイは、名も知らぬ犠牲者に心のなかで詫びを入れる。
全てを救えるなどとレイは思っていない。だが、それを成すくらいの気持ちで仕事に取り組まねばならないとは想っている。
「詰所に戻るぞ」
レイはこれ以上の犠牲者を出さぬように、キールとジェノとともに、仲間の元に帰るのだった。