⑤ 『悲鳴』
体がすっかり冷えるほど時間を掛けて丁寧に巡回をしたが、結局、件の化け物の手がかりは一切得られなかった。
「まぁ、とりあえず詰所に戻って交代しましょう。今日は僕たちが当番なんですから、<パニヨン>に向かわないと」
「そうだな」
今回の巡回も空振りだった腹立たしい気持ちを抑え、レイは詰所に足を踏み入れようとしたが、ジェノは「ここで待っている」と言い、中に入ろうとしない。
馴れ馴れしくされるのも好ましくはないが、まったく心を開かないのもそれはそれで腹立たしい。
少なくともこの詰所にも、副団長や顔見知りの人間がいるのだから、挨拶くらいはしろと思う。
「副団長、戻りました」
「戻りましたぁ」
レイは入り口のドアを開けるなり不機嫌に帰宅の挨拶を口にするが、その後に続く後輩の気の抜けた声が、ささくれだっていた彼の心を軽くした。
「ああ、寒い中ご苦労さまだったね。……あれっ、ジェノは一緒じゃあないのかい?」
人の良い副団長が、建物に入ってこない男の事を尋ねて来たので、レイは端的に、「外で待っています」とだけ報告する。
「ああ、もう夜も更けてきたからね。若い君達は、暖を取るよりバルネアさんの作ってくれる夜食の方が気になるのかな? よし。その様子では見回りで良い成果はなかったようだし、報告は後でいいから、皆の夜食を取りに行ってくれないかな?」
ただでさえ細い目を更に細めて、副団長は微笑みながらレイ達に頼んでくる。
本当に優しい人だ。だが、この中央通り区域の自警団のメンバーは知っている。この人は優しいが、決して怒らせてはいけない人でもあるということを。
「おお、そりゃあいいな。レイ、キール。頼むぜ」
「いいか、絶対に無事に届けろよ。みんな楽しみにしているんだから」
更に、レイ達より先に戻ってきていた先輩団員達も、早く夜食を取りに行って来いとそれに賛同する。
この状況で、レイとキールには断るという選択肢はとれない。
(畜生、ジェノの奴のせいだ)
レイは心のうちで悪態をつきながらも、「それでは<パニヨン>に行ってきます」と言い残し、同じく諦めの表情を浮かべるキールと一緒に、暖かい部屋から再び肌寒い外に戻る。
こちらに気づいたジェノが何も言わずにこちらを見た。だが、それだけだ。見ただけで、声をかけてこない。その無愛想さが余計にレイを苛立たせる。
「行くぞ!」
何処にとも言わずに、レイは不機嫌にジェノにそれだけを言い、歩き始める。すると、ジェノは無言で付いてくる。
普段から無愛想な奴だが、今日は一段と言葉が少ない。喋るのが億劫だとでも思っているかのようだ。
「…………」
レイはランプを片手に、キールとジェノを引き連れて、会話もなく目的の場所まで足を進め続ける。
向かっているのは今日も夕食を食べた料理店<パニヨン>。そこの料理人のバルネアが、厚意でレイ達の自警団のために毎晩夕食と夜食を作ってくれている。
けれど、一般女性であるバルネアに夜道を歩かせるわけにはいかない。そうなると当然、誰かが店まで夜食を取りにいかなければならなくなり、それを当番制にしているのだ。
バルネアの厚意を、他の団員同様にレイも嬉しく思っている。だが、それ以上に不安になってくる。
夕食、そして夜食までバルネアの美味い料理を食べられるのはありがたいが、それが彼女の負担になっているのを知っている。だから、絶品な料理を食べても心から満足できない。どうしても彼女のことが心配になるのだ。
「……レイさん。バルネアさんのためにも、早く事件を解決しましょうね」
心を読んだように、キールが背後から隣に歩み寄って声をかけてきた。
俺も大概分かりやすいんだなと思いレイが頷いた。まさにその時だった。
耳をつんざくような、女の悲鳴が聞こえたのは。
「キール、付いてこい! 呼笛はまだ吹くな!」
レイは指示と同時に走りだす。この街は、特にこの区域は自分達の庭のようなものだ。声が聞こえてきた方向と大きさで、おおよその予想はつく。
近い。かなり近い。だから、他の皆に知らせるための呼笛は使えない。使うのは、最低でも姿を確認して退路を絶ってからにしなければ、逃走される恐れがあるからだ。
先程まで歩いていた大道には要所に街灯の明かりがともされていたが、そこから一本でも道を離れると、明かりは月と星々、そしてこの手にあるランプだけになってしまう。
だが、レイは走り続ける。これ以上、犠牲者を出さないために。
大通りを外れた路地の中でも、特に薄暗い細い通りの前で、レイは足を止めた。
後ろから付いてきている足音は二つ。キールとジェノだ。
レイは静かに左手を後ろにやり、彼らに停止するように無言で告げる。
幸いキールだけでなく、ジェノもこちらの意図を読み取ってくれたようで、静かに足を止めて呼吸を整える。
「レイさん……僕が……」
小声でキールが言い、レイの手からランプを受け取り、携帯していた薄布をランプの周りに巻き、明かりを弱める。
そのため、いよいよ前方の暗闇は少し先しか見えなくなってしまった。
だが、すえた臭いがする。気配がする。呼吸音がする。この奥に何かいる。それが分かった。
レイは両手が自由になると、静かに腰の剣を抜く。横目で確認すると、ジェノも剣を抜いたようだ。
「キール。俺の二歩後ろを付いてこい。ジェノ、お前は後方の確認だ」
「はい。いつものやつですね」
「分かった」
二人の肯定の言葉を聞き、レイは暗闇を進む。
音をたてないように、相手に気づかれないよう慎重に、けれどどんな事態にも対処できるように身構えながらそいつに近づく。そしてもう少しで相手に斬りかかれるところまで足を進めたところで、レイはキールが持つ薄布越しのランプのわずかな明かりを頼りに、そいつの姿を確認したのだった。