特別編⑦ 『その日は過ぎてしまったけれど』(後編)
友人達や店を訪れる妙齢の女性客の口によく上がっていた、『微笑みの妖精』という超高級料理店。
メルエーナも行ってみたいとは思っていたが、好意を寄せるジェノに誘われて二人で出かけることになるとは、今でも夢にしか思えない。
馬車に乗ったメルエーナは、ジェノの隣に座りながら少し緊張していた。
一体どうしてジェノが、急に食事に誘ってくれたのかが分からない。ましてや、超高級店に。やはり、これがただの食事のお誘いだけとは思えないのだ。
パメラ達が言っていたように、自分と婚約をしてくれるのだろうか? でも、そんな素振りは今まで全く見られなかったので、その可能性は低いと思う。
「メルエーナ」
「ひっ、ひゃい!」
ジェノに声をかけられ、驚きのあまり思わず声が上ずってしまい、メルエーナは顔を真っ赤にする。
「移動距離は短いが、下ばかり見ていると酔うぞ」
しかしジェノはその事を咎めるでも嗤うでもなく、優しく微笑む。その表情に、メルエーナは少しホッとする。
「なかなか普段と同じ様にするというのは難しいかもしれないが、食事をしにレストランに行くだけだ。緊張するよりも、楽しむことを優先した方がいい」
「はっ、はい。ですが、こんな馬車で出迎えて貰えるなんて、お姫様にでもなったようで……」
「……そうか」
ジェノはそう言うと、口元を緩め、
「本当に可愛いな、お前は……」
そう続けた。
メルエーナの顔が熟したトマトのように真っ赤になる。
「かっ、可愛いなんて、そんな……」
メルエーナは恥ずかしそうに言うが、可愛いと言ってもらえたことが嬉しくて仕方がなかった。
あまりジェノが自分のことを褒めてくれることがないので、余計に嬉しい。
「もう少しで店に就くが、あまり緊張しないでくれ。今日は精一杯エスコートをさせて貰う」
「はっ、はい。宜しくお願いします」
「いや、だから緊張しなくても大丈夫だ」
「そっ、それはそうなんですが、やっぱり不安で……」
メルエーナは素直な気持ちを打ち明ける。すると、静かにジェノはメルエーナの手を握ってきた。
「大丈夫だ。俺が一緒にいる」
「はっ、はい……」
ジェノの力強い笑みに、メルエーナは見とれてしまう。
ただ、普段とはあまりにも違うジェノの態度に、きっと今日はただの食事では終わらないのだろうと、メルエーナは予感めいたものを感じるのだった。
◇
目的地に付き、馬車が止まると、『微笑みの妖精』の従業員と思われる男性二人が駆け寄ってきて、馬車のドアを静かに開けた。
ジェノが入口側だったので、先に彼が降りて、メルエーナに手を差し伸べてくる。メルエーナは喜んでその手を取り、馬車を降りた。
思わず声を上げてしまいたくなるほど、『微笑みの妖精』は立派な建物だった。お話の中に出てくるお城のようだとメルエーナは思ったほどに。
床には敷物が敷かれ、その上を歩くのだと思うと、緊張感で汗が溢れてくる。
だが、そこでジェノが少し前に立ち、左腕を曲げて、メルエーナの前に差し出してくれた。
その行動の意味が少し分からなかったが、「メルエーナ、腕を」とジェノが言ってくれたので、ようやくメルエーナは意味を理解し、彼の腕に自分の手を掛けてエスコートして貰う。
本当に何から何まで初めてづくしで緊張の連続だったが、ジェノが一緒だというのはとても心強い。少し恥ずかしい気持ちもあったが、それ以上に嬉しかった。
店の階段を三階まで登り、席に案内されると、そこが窓際だと気づく。ナイムの街を一望できる席だ。このあたりの席の違いで金額が変わるのかをメルエーナは知らないが、きっとものすごく高価なのではと勘ぐってしまう。
白いテーブルクロスの上に並んでいる食器類も高級そうだし、椅子もかなり立派だ。
ここでジェノさんと二人で食事をする。そのことだけで、メルエーナの鼓動は激しくなる。
やはり、これはあきらかに普通ではない。ここまでのシュチュエーションを整えられて、ただ食事をして帰るだけとは考えられないのだ。
メルエーナは、ジェノにエスコートされて席につくと、同じく席についたジェノの顔を見る。
「メルエーナ。注文は俺に任せてもらってもいいだろうか?」
「はっ、はい! お願いします」
話しかけようとしたところで先に声をかけられて、メルエーナは慌てて応える。
「そんなに畏まらなくても大丈夫だ。大声をあげなければ、普通に談笑して問題ない」
各席が離れているので、会話はよほど耳を澄まさねば聞こえないようだ。メルエーナはジェノの気遣いに感謝する。
そして、ジェノは慣れた様子で料理を頼んでくれた。
「ジェノさん、このお店に来たことがあるんですか?」
「いや、初めてだ」
「そっ、そうなんですか。ずいぶんと迷いなく注文されるものですから、来たことがあるのかと……」
「ただの慣れだ。実家にいた頃に、少しな……」
ジェノはそう言うと、少しだけ憂いを含んだ顔になったが、すぐにそれを笑顔に変える。
メルエーナは知っている。ジェノが自分の過去を話したがらないことを。けれど、それがメルエーナには悲しくて仕方がない。
ようやくお付き合いをするようになったのに、まだまだジェノが話してはくれないことが多すぎる気がするのだ。
もちろん、自分のことを気遣ってくれていることは分かっているつもりだが、それはメルエーナの求める関係ではないのだから。
お互いのことをもっと気軽に話し合える仲になりたい。それが、メルエーナの偽らざる気持ちだった。
やがて食前酒が運ばれてきて、赤ワインで乾杯をしてメルエーナは喉の乾きを潤す。
ただ、この後味の良さといい、香りといい、かなり良いワインであることは想像に固くなかった。
「ジェノさん。どうして今日、私をこの店に誘ってくださったんですか?」
絶品のオードブルを食べ終えたところで、メルエーナは真剣な表情でジェノに尋ねた。
「……それを明かさないうちは食事も心から楽しめないようだな」
ジェノは苦笑し、ウエイターに料理を運んでくるのを遅らせるように頼んだ。
「食事が終わってから渡すつもりだったんだが……」
ジェノは静かにメルエーナに視線を向ける。そして、背広のポケットから小さな箱を取り出し、テーブルに置いた。
「えっ、えっ? もっ、もしかして、それは……」
メルエーナは声が大きくなりそうなのを懸命にこらえて、眼前の箱を凝視する。
この大きさはきっと指輪だとメルエーナは思い、顔を真っ赤にする。
「いや、そう大したものではない。これはただのチョコレートだ」
「……えっ?」
メルエーナはその言葉に、困惑する。
「これは、俺からの詫びの品だ」
「どういうことですか?」
ジェノの表情が真剣そのものだったので、メルエーナは黙って話を聞くことにする。
「今年のバレンタインにお前からチョコレートを貰った。大きめな箱に入っているだけでなく、個別に包装をして食べやすいようにと。そして、長いあいだ味が劣化しないような工夫がされていた。だが、俺がホワイトデーに返したものは、去年と同じチョコケーキだった」
「えっ? 去年よりも更に美味しい、凄く上手で綺麗なケーキでした。私は凄く嬉しかったですよ」
メルエーナはジェノが何を言いたいのか分からない。
「先日、バルネアさんに、俺はお前の料理を研究するように言われた。そして、俺はお前から送られたチョコレートを見て悟った。俺には、相手を思いやる気持ちが、心遣いが欠けているのではないかと」
「心遣い、ですか?」
「ああ。お前の料理には常にそれがある。その事を俺は見えなくなっていた。だから、技術だけのお返ししかしなかった。それで、いいだろうと安直に考えていた」
「ですが、私は十分に嬉しかったです」
「そう思ってくれたのならありがたいが、付き合いを、交際を始めてから初めてのホワイトデーのお返しとしては足りなかったと俺は考えた」
ジェノはそこまで言うと、息をついた。
「ジェノさん。だから、私をこのレストランに誘ってくださったんですか? ……罪滅ぼしの意味で?」
ジェノの話を聞いているうちに、メルエーナは悲しくなってきてしまった。
二人で高級店で食事ができる。もしかするとそれ以上なこともなどと考えていた自分が愚かに思えた。
それら全てがただの謝罪のつもりなら、埋め合わせにすぎないのならば、心から楽しみにしていた自分が滑稽すぎる。
「それは違う!」
しかし、ジェノはメルエーナの言葉を否定する。
「俺は、お前に喜んでもらいたかったんだ。あんなお返し以上に喜んで、笑って欲しかった。その気持ちの中に、謝罪の気持ちがまったくなかったとは言わないが、お前を楽しませることが第一だった」
「ジェノさん……」
「まだこの気持ちが何かは断言できないが、俺はお前を大切に想っている。それだけは本当だ。あんな品で返してしまったが、俺は……」
ジェノの言葉は理路整然としたものではなかった。けれど、それがメルエーナには嬉しかった。
何故なら、それは言葉で言い表せないほど気持ちが先走ってしまっているからだと分かったから。それほどの気持ちを自分に向けてくれていると理解できたから。
「このチョコレートを帰り際に渡して、すべてを話すつもりでいた。だが、このままではお前に心から楽しんでもらえない。それが残念で、その、寂しくて仕方がなかった。だから、今話した」
ジェノは静かにワインを口に運び、続ける。
「もう、今年のホワイトデーは過ぎてしまった。今更やり直しなどきかない。だが……」
「いいえ。喜んで受け取らせて頂きます」
ジェノの言葉を遮り、メルエーナは微笑んだ。大粒の涙をこぼしながら。
「メルエーナ……」
「そこまで……そこまで私のことを考えてくださっていたんですね……」
我慢ができなくなり、メルエーナはハンカチで目元を押さえた。
自分を心から大切に考えてくれるジェノの純粋な優しさに、想いに触れて、メルエーナは自分が浅ましい想像をしていたことを恥じる。
そして、メルエーナはなんとか気持ちを落ち着けて、微笑むことにした。それが、ジェノの真っ直ぐな気持ちに応える唯一の方法だと分かったから。
「ありがとうございます、ジェノさん。私、ここまでジェノさんに思って頂けて幸せです」
「……そうか」
相変わらずそっけない言葉だが、ジェノは微笑み、箱をメルエーナに差し出す。
それを受け取り、開けて良いのかを確認して、メルエーナは包装を解いた。
「あっ! ふふっ……。凄く可愛いです」
メルエーナは思わず笑ってしまった。
その箱の中から現れたチョコレートは、メルエーナの最近のお気に入りの、愛らしい猫のキャラクターの形をしていたのだ。
これをジェノが精一杯作ってくれていたことを考えると嬉しいけれど、少し微笑ましく思える。
「そうか」
ジェノはそう言うと、静かにウエイターをよび、食事を再開して貰ってくれる。
そして、それからの食事は、メルエーナもジェノも心から楽しむことができたのだった。
それはホワイトデーはとっくに終わってしまった、何気ない平日の出来事。
けれど、メルエーナにとって、この日は特別な日になったのだった。




