特別編⑦ 『その日は過ぎてしまったけれど』(中編)
「おっ、お待たせしました……」
メルエーナはそう言いながらも、予定の時間よりも早くに部屋を出て、ジェノがいる居間にやってきた。
これから行く店が高級店であることを鑑み、一張羅の白いドレスを身にまとい、バッグや靴やストッキングも選び抜いて精一杯フォーマルな装いに仕上げたつもりだが、所詮は田舎者のお上りさんの発想なので、ジェノの目にどう映るかが心配だった。
「いや、大丈夫だ。待っていない。すまんな。俺が部屋まで声をかけに行くつもりだったが……」
しかし、ジェノはそう言うだけで、服装に触れてはくれない。
メルエーナはそのことにがっかりしながらも、ドレスコードに問題があれば教えてくれるはずなので、おかしな格好ではないと自分を励ます。
「いえ、そんなことは。ただ私が待ちきれなくて……」
それに、ジェノの正装を見る機会などそうあるものではないので、彼のタキシード姿に見惚れることにした。
「うんうん。二人共、とっても素敵よ」
他の人に話すと意外に思われることが多いが、コーデの一番の先生であるバルネアがそう太鼓判を押してくれたことで、メルエーナは安心する。
けれど服装が格式張ったものになればなるほど、その中身の質の差も顕著になる気がして、メルエーナはもう少しジェノに釣り合うような素敵な女性に成長したいと思わずにはいられない。
「あっ、ジェノちゃん。明日はお店は休みだし、私はなんだか今日は疲れた気がするから早く寝ようと思うの。それと、朝食は私が作るから気にしないで、二人はゆっくりしてきていいからね」
バルネアは口元に手をやり、微笑ましげに言う。
「ばっ、バルネアさん!」
バルネアの言わんとしている言葉の意味を理解し、メルエーナは頬を高調させて抗議のために名前を呼ぶが、ジェノは何も分かっていないのだろう。少し怪訝そうな顔で、「分かりました」と応える。
別段――それを望まないといえば嘘になるが――急いで関係を進ませたいわけではない。でも、こう自分を女の子として、異性として見てくれないのは悲しくなってきてしまう。
「ジェノちゃん。いい、今日は料理の勉強は二の次。メルちゃんをしっかりエスコートして楽しんでもらうことが一番。そして、自分も楽しむことが二番よ」
「そのつもりです」
言わんとしていることを理解していなかったと判断したバルネアの念押しに、しかしジェノは凛々しい表情で断言した。
その顔と言葉に、メルエーナの胸は高鳴る。
念のため。飽くまでも念のためだが、その、万が一の時のために見えない部分も着飾っている。そんな事態になっても恥はかかない……と思う。
メルエーナが、「まさかそんな、でも……」という思いを頭で
「そう遠い距離ではないが、慣れていない履物で長く歩くのは心配だ。だから、もう少ししたら馬車が来てくれることになっている」
「えっ? 馬車、ですか?」
乗合馬車以外の馬車に乗ったことのないメルエーナには、家まで迎えに来てくれる馬車というのはこの上なく贅沢に思える。
「じぇっ、ジェノさん。その、そんな贅沢なことを……」
「そんな顔をするな、メルエーナ。店を予約した人間を迎えに来てくれるサービスの一つだそうだ」
「そっ、そうなんですか?」
「ああ」
ジェノが嘘をついているようには思えないが、それが本当だとしても、フォーマルなドレスコードに加えて、そこまでのサービスをされる食事というものが、どれだけ高価なものか想像するだけで恐ろしい。
(まさか、本当に……)
リリィとパメラに言われても、その可能性はないと思っていたが、今回限りのただ一回の食事に掛ける金額にしては高額すぎる。
これがまだ誕生日や記念日、お祝いごとのある時なら分からなくもないが、今日はそのどれでもない。
『やっぱり、婚約指輪を贈ってくれようとしているんじゃあないかな? ジェノさん、そういった手順大事にしそうだし』
『ああ、ありえそう。<微笑みの妖精>で至福のディナー。そしてデザートが運ばれてくるまでの間に、指輪が入った箱を取り出して、それを開けて……』
『ジェノさんに、婚約をして欲しいと囁かれて……』
『メルは上がりながらも『はっ、はい……』と応えて、そのまま部屋を取ってあるというジェノ君に誘われるまま……』
メルエーナは顔が真っ赤になっているのを隠すために、両手でそれを覆う。
「どうかしたのか、メルエーナ? 体調がすぐれないのか?」
「いっ、いえ! だっ、大丈夫です! わっ、私も、もう大人ですから!」
「どういうことかは分からんが、それだけ声を出せるのなら大丈夫だろう」
そんなやり取りをしているうちに、店の前に馬車がやってきた。そして、笑顔のバルネアに見送られ、いつもどおりの無表情なジェノと、ものすごく緊張した顔のメルエーナはそれに乗り込むことにしたのだった。




