㊸ 『散歩中にて」
夏の日差しを浴びながら、十歳前後の子ども達が湖に向かって平らな石を投げて、水面を何回石が跳ねるのかを競って遊んでいる。
昨晩、妖精が出現したことで大慌てな大人たちをよそに、こども達は無邪気なものだとイルリアは苦笑する。
イルリアは普段とは異なる相手と二人でレセリア湖付近を散歩していた。
「ふふっ。そうなのね。相変わらず無意識に女の子をその気にさせているのかと思ったわ」
「誤解もいいところなんだけどね。でも、否定したら否定したで余計に怪しいとか思われるから、好きな様に言わせていたの。でも、最近はすっかり私とあいつが恋仲だなんて考える輩は減ったけれどね」
イルリアの軽口に合わせて笑っているのは、マリアだった。
同い年とはいえ、貴族と平民である二人がこのような会話をすることは本来ありえない。だが、先の馬車での移動の際から、マリアがプライベートでは敬語はなしにして普通に喋ってもらいたいと言っているので、このような会話が成立しているのだ。
そんなマリアに好感を抱いているからこそ、イルリアは少しだけ罪悪感を覚える。
朝食中に、イルリアがマリアを散歩に誘ったのだが、これは単に、一時とはいえ仲間になるのだからと親睦を深める事が主の目的ではない。彼女をジェノとメルエーナから遠ざけることこそが主目的だ。
本当に偶然なのだが、朝早くに目が覚めて、宿の中でも見て回ろうかと思っていたところに、ジェノの部屋で、彼を温泉に誘うメルエーナの声をたまたま聞いてしまった。
ついにそこまで覚悟を決めたのかと嬉しくなり、イルリアは邪魔者が割って入らないようにしようと画策した。その結果が、こうして温泉とは異なる方向にマリアを連れ出すことだったのである。
「それは、あのメルエーナっていう女の子のおかげね」
「ええ。メル本人はあれでも隠しているつもりみたいなんだけれど、一途に想っているのがバレバレでこっちが恥ずかしいくらいなの」
「そうよね。まだ出会って日が浅い私でも分かるんだもの」
長く話が続く共通の話題がジェノのことくらいしかなかったので、こうしてジェノの話をしているが、マリアの喋り方や間のとり方で、彼女が未だにジェノに未練を持っていることを確信できたのは重畳だ。
マリアも貴族の嗜みで腹芸を身に着けているようだが、ジェノの話題になると僅かに反応が遅れるのだ。客商売で目を肥やしているイルリアはそれを見逃さない。
やはり、早くメルエーナには既成事実……は無理だと思うので、せめて何かしらあの朴念仁との仲を進めてほしいとイルリアは思う。
それと、もし仮にジェノがメルエーナのアプローチを断った場合は、徹底的にしばき倒し、謝罪をさせるつもりでもある。あれだけ可愛い娘に一途に思われて、何が不服なんだと言いながら、現在銀の板に封印してある魔法を全て喰らわせて反省させるのだ。
腹の中ではそんな事を考えながらも、イルリアはマリアとの散歩と会話を楽しむ。
しかし、そこで不意に目の前に一人の男が音もなく現れた。
そう。現れたのだ。なんの予兆もなく、何もない空間から。
それは、イルリアと同年代くらいに見える全体的には印象に残らない感じのナヨっとした感じの頼りなさそうな男。だが、左右の瞳の色が違うという唯一にして絶対の事実が、男の存在を際立たせる。
「なっ! ……ゼイル……」
イルリアは素早く腰のポシェットから、攻撃魔法を封じた銀の板を取り出して構える。
マリアも無言で剣を抜く。その表情は笑みが消えていて、なまじ美人であるがゆえに恐ろしいほどだ。
「あっ、待ってください、イルリアさん。僕は争いに来たわけではないんです」
「そんな言葉を信じると思うの?」
「いや、その、でも、本当なんです。僕は謝罪に来ただけで……」
「謝罪?」
イルリアには、ゼイルが何を言わんとしているのか分からない。
「はっ、はい。その、イルリアさんの水着姿が綺麗だったから、つい近くで見たくなってしまって……そしてそのまま出来心で覗き見をしてしまったので、その謝罪を……」
「……はぁっ?」
話を聞いて、より一層イルリアは混乱する。
だが、困惑するイルリア以上に感情を爆発させる者が一人――いや、二人いた。
「セレクト先生!」
マリアは不意にセレクトの名前を口にすると同時に、ゼイルに向かって駆け寄り、剣を横に薙ぎ払う。
「わっ、わっ!」
ゼイルはひどく驚いた様子で後ろに飛び退こうとする。だが、その瞬間、石がイルリアたちの後方から飛んできて、淡い緑色のガラス板のようなものがゼイルの後方に出現し、彼の動きを封じる。
まったく気がついていなかったが、自分達をずっとセレクトが尾行していたのだろう。
それにより、ゼイルはもうマリアの剣を避けられないはずだった。
あとは、マリアの力加減一つ。生かすも殺すも自由自在だったのだ。
「うっ……」
けれどそこで、マリアの動きがピタリと止まった。
あとは剣を横に薙ぐだけで、ゼイルに致命の一撃を与えられるはずなのに、何故か停止したのだ。
「はい、そこまで」
不意に、軽い男の声が響いた。
そして、その声の主が、リットが姿を表す。ゼイルの後方から。
「はっ、はぁ……。助かった……」
ゼイルは心底安堵したかと思うと、また瞬間移動をして、今度はイルリアの目の前に移動する。
リットの利敵行為とも思える行動に加え、ゼイルが不意に距離を詰めたことに、イルリアは動転して銀の板を動かすことができない。
「その、すみません、イルリアさん。いろいろと明かせなくて……。でも、これだけは信じて欲しいんです。僕は敵ではありません。だから、その、貴女のことは僕が必ず守ります」
ゼイルは何故か顔を真っ赤にしてそう言うと、また瞬間移動をして姿を消した。
イルリアには何がなんだか一向にわからない。
だが、いなくなってしまったものは仕方がないので、イルリアはもう一つの疑問を別の相手にぶつけることにした。
「それで、リット。あんたは何をしているのよ?」
銀の板を構えたまま、イルリアはリットに尋ねる。
「何をと言われてもなぁ。見てのとおり、助けただけだぜ」
リットはさも楽しそうに喉で笑い、パチンと指を鳴らす。すると、それまで停止していたマリアの体が動き、何もない空間を剣で横薙ぎにした。
「どういうつもりなのですか?」
動きが自由になったマリアが、剣を手にしたまま鋭い視線をリットに向ける。
「それは、私も説明してもらいたいものですね」
後方の茂みから現れたセレクトも、険しい表情でリットを睨む。
「おいおい、そんな怖い顔をしないでくれよ」
「場合によっては容赦しませんよ! あと少しで、あのオッドアイの者達の情報をつかめるところだったのに、どうして邪魔をしたのか、きちんと説明しなさい!」
マリアは本気で怒っている。以前話に聞いた、彼女とその従者や治めていた街の住民のことを考えるに、それは当然のことだとイルリアも思う。
「……容赦しないか……。それじゃあ、嫌だと言ったらどうするのか教えてくれないかな?」
リットの声が低くなった途端、イルリアは、いや、イルリア達は体が全く動かなくなってしまった。
「なぁ、教えてくれよ。この程度のことで何もできなくなるお前らが、俺を相手に何をするって言うんだ?」
リットの力の影響なのだろう、次第に体を拘束する力が増していく。骨がきしみを上げる。このままでは骨が全て砕かれる。だが、口も動かないので悲鳴をあげることもできない。
「彼我の戦力差も分からない奴が、一端のことを言うなよ、まったく」
リットはそこまで言うと、つまらなそうな顔をし、指をまた鳴らす。
瞬間、イルリア達の体は、嘘のように軽く自由になった。
「どうだい、頭は冷めたか? せっかく助けてやったのに、俺に喧嘩を売るのは筋違いだぜ」
「助けてやった? それは、どういうことよ?」
イルリアの問いに、リットは嘆息する。
「あのまま、あのゼイルって奴に攻撃を仕掛けていたら、お前達は死んでいたってことだよ。あいつの力はそれくらい危険なのさ。この天才のリットさんでも危なかったくらいだからな」
「……あんたが追跡できなかったって言うのも……」
イルリアが、先日、リットが言っていたことを思い出して尋ねると、
「ああ。俺は、冗談は言っても基本的に嘘はつかないのは知っているだろう?」
リットは口の端を上げて当たり前のように言う。
そう言われてしまっては、それが事実だと知っているイルリアは信じざるを得なかった。




