㉑ 『忘却された思い出』
エリンシアの言葉をメルエーナは思い出した。
『それは大丈夫。妖精というのはね、人間が住むこの世界とは別の世界で生きているんだ。その世界はこの世界とは何もかも違う世界らしい。そして、召喚魔法というものを除けば、二つの世界の境界が何らかの原因で歪んだときにだけ、妖精はこの世界にやって来ることができるが、そんなことは滅多に起こらないからね』
何もかも違う世界……。
それは、もしかすると時間の流れさえも違うのではないだろうか?
思い返してみれば、初めて出会ったあの時、レイルンは随分焦っていた。
それは、時間の流れが早い世界で、いつ繋がるか分からない状態でやきもきしていたのではないだろうか? そして、繋がっても自分の姿が見える人間がいなければ、レイルンはまた元の世界に戻らないと消えてしまう。
だから、何度も何度もレイルンは奇跡のような低い確率をただひたすらに待ち続け、そして、この世界では長い月日が経ってしまっていたのだろう。
メルエーナにレイルンの悲しみが伝わってくる。
遅かったのだと。もうあの頃のレミィはいないのだという悲しみが伝わってきてしまうのだ。
「メルちゃん……」
バルネアもまさかの事態に困惑する。
だが、メルエーナは小さく深呼吸をし、一歩前に出て、レミィ――もといレミリアさんに頭を下げる。
「初めまして。私はメルエーナと申します。レミリアさんにお会いしたく、ナイムの街からやって来ました」
「はっ、はぁ……。私に会いに、ですか?」
レミリアは困った顔をする。
いきなり見ず知らずの人間が訪ねて来れば、こうなるのは仕方がないだろうとメルエーナも思う。
「その、私はレイルンという妖精に頼まれたのです。幼い頃の貴女のお願いを叶えるために、この村にある洞窟に連れて行って欲しいと」
荒唐無稽な話に思われるだろうか? それとも頭がおかしいと思われてしまうだろうか? そんな不安を抱きながらも、メルエーナは眼の前の女性がレイルンの事を覚えていてくれているよう願う。
「……レイ……ルン? その、すみません。私には心当たりはないのですが……」
けれど、現実は残酷だった。レミリアは困った顔でそう答えたのだ。
(……そんな……)
伝わってくる気持ちが痛い。
レイルンはずっとあの時の約束を果たそうとしていたのに、その相手はすっかりその事を忘れてしまい、他の男性と結婚をして子どもまでいるのだから。
あの夢で見た頃の幼い頃から、メルエーナよりも年上の姿に成長するまでの間、ずっとあの約束を覚え続けて忘れないでいて欲しいというのは無茶な話なのだとは思う。けれど、感情ではそれが納得できない。
メルエーナは思わず文句の言葉を口走りそうになったが、そこで今まで黙っていた人物の一人が声を上げる。
「妖精だって! それも、この洞窟に用事があるというと、まさか鏡を持っているというのかい?」
突然の事に、皆の視線が大声を上げたキレースに集まるのだった。
◇
小屋には最低限の設備しかないとのことなので、キレース一家の自宅に案内されることになった。その際に、バニアーリさんと彼女の息子のクエン君とは別れた。
レミリアによると、何でも娘のフレリアを一緒に遊びに連れていってくれる近所の奥さんなのらしい。
大人数で押しかけるのは申し訳ないので、代表してジェノとメルエーナ、そして本人の希望もあり、マリアが参加することになった。そして、レミリアがお茶を入れてくれた後、ジェノがもう一度突然の訪問を謝罪し、メルエーナがこれまでの事の次第を話し始める。
その話は、マリアも概要だけは聞いていたが、改めて話を聞かされると、これがかなり稀有な事象であることを再認識させられる。
このメルエーナという少女はいったいどういう人物なのだろう? 妖精を従える人間など聞いたことがないし、ジェノとの関係も気になる。
けれど、今は仕事なのだからと自分に言い聞かせ、マリアは話に集中することにした。
「なるほど。そうやって君は妖精と出会ったんだね。そして、守護妖精という形で契約をしていると」
キレースは他の人間ならばバカバカしいと断じるであろう話を、目を輝かせて聞いている。
「信じてくださるのですか?」
メルエーナが不安そうに尋ねたが、キレースは「もちろんだよ」と微笑む。
「私は何年も、あの小屋の近くの洞窟を調査していたんだ。そして、あそこに描かれている壁画から、妖精の伝承を知ったんだよ」
「キレースさんが、仰っていた『鏡』というものは?」
「ああ。あの洞窟は千年以上昔に造られたもののようなんだよ。妖精達が作ったらしい。そして、洞窟は彼らの何らかの儀式のために作られたようで、その儀式に必要なものが特別な『鏡』らしいんだ』
キレースは子供のような顔で得意げにジェノに説明する。
「すみません、お待たせしました」
それから、フレリアが疲れて眠ったと言い、レミリアが話に加わった。
そこで、メルエーナは少し目をつぶり集中する。すると、緑の服と帽子を身につけた人形のような妖精が突然メルエーナの膝の上に現れる。
けれど、彼は元気がなく、顔を俯けている。
「この子がレイルン君です。レミリアさん、微かにでも記憶はありませんか?」
メルエーナは縋るような視線を向けて尋ねるが、レミリアは申し訳無さそうに首を横に振った。
「すみません。この可愛らしい妖精さんと私が会っていたと言われても、まるで記憶がないのです」
「……そうですか……」
メルエーナはギュッとレイルンを抱きしめ、絞り出すように応える。マリアは、そんな彼女になんと声をかければいいか分からない。
「その、レミィ!」
不意に、レイルンが顔を上げ、レミリアに声を掛けた。
「君が僕のことを忘れてしまっても、僕はしっかり覚えている。だから、あの時の約束を果たすよ」
「……約束? 私が、貴方と約束をしたの?」
レイルンの決意も、レミリアはただ困惑するだけだ。それがなんとも物悲しい。
「ええと、レイルン君。君は『鏡』を持っていて、それを使って何かをしようとしているのかな?」
キレースは優しく尋ねたが、レイルンはプイッと横を向く。
困った顔をするキレースに、メルエーナが、「はい。そのつもりのようです」と代弁する。
「そうか。それなら話は簡単だ。私も同行させてくれるのならば、君達があの洞窟に入る許可を出すよ」
「よろしいのですか?」
ジェノが尋ねると、キレースはにっこり微笑んだ。
「もちろんだよ。正直、あの洞窟の調査も暗礁に乗り上げていたところだったんだ。それを解決するかもしれない可能性があるのならば、こちらからお願いしたいくらいだよ」
「ありがとうございます!」
メルエーナを皮切りに、マリア達もお礼を言う。
「それじゃあ、君達の滞在時間も限られていることだし、善は急げだ。早速明日の早朝にでも……」
キレースの言葉は、そこで遮られる。
それは、彼の妻であるレミリアが、彼のシャツの端を引っ張ったためだ。
「あなた、明日は……」
レミリアが口にしたのはその一言だけだったが、夫であるキレースさんはそれだけで全てを理解したようで、「ああ、ごめん。前々からの約束だったよね」と口にし、マリア達に頭を下げる。
「すまないけれど、明日は子供と一緒にピクニックに行く予定なんだ。その、娘が凄く楽しみにしていてね。だから、洞窟に入るのは明後日にしてもらえないかな? ああっ、大丈夫。一日あれば、最深部まで行っても帰ってこられるくらいの広さしかないから」
キレースは申し訳無さそうに頭を下げる。けれど、その瞳がすごく暖かな光を宿していた。
この人が、心から家族を大事にしていることが、それだけでもマリア達には理解できた。
「はい。もともと我々の勝手な都合でお願いしているのですから、そちらの予定を優先させてください」
ジェノの言葉に、「すみません」とレミリアは謝罪したが、その顔は嬉しそうだった。
この夫婦の笑顔を見ていると、すごく暖かな気持ちになる。それはきっとマリアだけではないだろう。
けれど、レイルンだけは複雑そうな顔をしているのを、マリアは見てしまったのだった。




