特別編③ 『日頃の感謝と一緒に』(前編)
それは、ほんの四日前のこと。休日を使って、友人のイルリアと買い物に出かけた帰り道のことだった。
「……バレンタインデー、ですか?」
最近、周りの女性からチョコレートの話題を耳にすることが多くて疑問に思っていたのだが、そのことをイルリアに打ち明けると、簡潔に説明してくれた。
なんでもその日は、女性が好意を寄せる男性にチョコレートを贈る日なのらしい。
田舎暮らしの長かったメルエーナは、そんな習慣を初めて耳にした。
「まぁ、知らなくても死にはしないわよ、そんなもの」
さもつまらなさそうに言うと、イルリアは「まったく、なんでこんな面倒な行事があるのかしら」と言い、嘆息する。
「ですが、イルリアさんも先ほどチョコを買っていたのでは?」
「ああっ、あれね。あれは、うちのお祖父ちゃんによ。『義理チョコ』っていうものもあってね。まぁ、本当に面倒な行事なのよ、まったく……」
イルリアはブツブツと文句を言っていたが、
「ところで、メル。今の話を聞いて、あんたはどうするつもり? あいつにチョコをあげるの?」
不意にメルエーナに尋ねてくる。
「えっ? ……あっ、そっ、そうですね。いい機会ですし、私も……」
イルリアが言っている「あいつ」とは、メルエーナと同じ家に住んでいる同い年の少年のことだ。
その名をジェノと言う。出会って以来、彼女がずっと憎からず思っているのだが、まったくと言っていいほどその思いに気づいてもらえない相手でもある。
「ああっ、聞くだけ野暮だったわね。……まったく、こんな可愛い子にここまで慕われているのに、どうして、あのバカは……」
イルリアの声のトーンが少し落ち、剣呑な声色になる。
いつもこうだ。ジェノの話題になるとイルリアは途端に不機嫌な顔になる。メルエーナにはそれが不思議でならない。
「その、イルリアさんも、もしかしてジェノさんに、チョコを?」
「はっ? なんで私があんな奴にチョコを渡さなくちゃいけないの?」
心外といった顔でまた不機嫌な顔をするイルリア。そこには嘘も偽りもないように思える。
「いっ、いえ、すみません」
そう謝罪の言葉を口にするメルエーナに、イルリアは小さく嘆息し、足を止めて彼女の頭をコツンと小さく叩いた。
「まったく。あんたはもう少し自分に自信を持ちなさい。あんたくらいに可愛い子なんてそうそういないんだから。その上、家庭的で料理上手。男にとってこんなに理想的な女の子なんていないわよ。
いくらあのバカがどうしょうもない朴念仁の大馬鹿でも、男であることには変わりないんだから、少なくとも気に入ってはいるはずよ」
イルリアの励ましの言葉に、メルエーナは「はい、ありがとうございます」と感謝の言葉を口にするが、さらに、
「ですが、私なんかよりもイルリアさんのほうが素敵だと思います」
笑顔で思ったことを口にする。
綺麗な情熱的な赤い髪に、宝石のような青い瞳。そのうえスタイルだって優れていることをメルエーナは知っている。もっとも、あえて体の線がでにくい上着と地味な色のズボン姿というラフな姿のため、それはおそらく外見からでは分かりにくいだろうが。
もしも、イルリアが髪を伸ばし、美しいドレスを身に纏ったのであれば、だれもが見惚れる姿になることは想像に難くない。正直、同い年の女の子としては、メルエーナはイルリアに羨望を抱いている。
「はぁ、馬鹿なこと言ってないでとっとと帰るわよ」
イルリアは興味がなさそうにそれだけ言うと、踵を返して歩き始める。メルエーナは慌ててそれを追いかけた。
イルリアは自分の容姿に関心が薄く、異性に対して興味が少ない。それは間違いないだろう。でも、だからこそメルエーナは不思議に思う。
仕事仲間だからということを差し引いても、イルリアはジェノに対しては心を動かす。それが嫌悪に近い負の感情のようなものであっても、あまりにもその感情は強すぎる気がするのだ。
「……考えすぎ、ですよね」
大切な友人に向ける感情ではないと思い、メルエーナは不安な気持ちを頭から追い払う。
それよりも今はチョコレートだ。
いつも勇気が出せなくて自分の想いを口にできない自分だが、心を込めたチョコレートを渡せばこの気持ちもジェノさんに伝わるかもしれない。
メルエーナはそう考えを新たにし、家に帰ったらさっそくチョコレート作りに取り掛かろうと決意した。
◇
「やっぱり、甘さはこのくらいで……。でも、固まってからのことを考えると……」
湯煎したチョコレートを相手に試行錯誤を繰り返し、もう十回近く試作を続けているが、なかなか自分の思ったような味になってくれない。期限までもう二日しかないというのに。
イルリアからバレンタインというイベントを聞いたメルエーナはこの二日間、仕事の合間を使って、ジェノに隠れて店の厨房の片隅で、チョコレート作りに没頭していた。
市販のチョコレートを溶かして形を変えるだけならば簡単にできるのだが、それではあまりにも手抜きが過ぎる。それに、普段から美味しいバルネアの料理を食べて舌が肥えているジェノは、きっとその程度のチョコレートでは喜んではくれないだろう。
それ故に、メルエーナは買ってきたチョコレートづくりの本と、にらめっこをすることになっているのである。
「……ううっ、お母さんから、もっとお菓子作りのコツを聞いておくべきでした」
いまさらそんなことをぼやいても、何も改善しないことは分かっているが、メルエーナの口から思わず後悔の言葉が漏れた。
「困っているようね、メルちゃん。私で良ければ協力するわよ」
だが、そんなところに、救いの手が差し伸べられた。
この上なく、頼りになる人から。
「バルネアさん……。ううっ、すみません、力を貸して下さい」
将来は料理人になることを夢見る身としては、助けを求めるのは情けないし、そんなことでは駄目だと思う。ただ、もう時間がないのだ。
メルエーナは瞳に涙を溜めて、助けを求める。
ジェノが自分からのチョコレートを期待しているとは思えないが、折角のチャンスである。全然察してもらえない自分の気持ちに気づいて貰いたいし、そんな下心だけではなく、いつもお世話になっているので、そのお礼として美味しいチョコレートを贈って食べてもらいたい。
「任せて、メルちゃん。リアラ先輩にも、力になってほしいと手紙で頼まれているし、全力で美味しいチョコレートの作り方を教えてあげるわ」
「……えっ? 母から手紙が来たんですか?」
バルネアが助けてくれるのは、百万の味方がいるよりも頼りになる話だが、そこに思いもかけない言葉が続いたことに、メルエーナは驚く。
「ええ。先程届いたのよ。この荷物と一緒にね。あっ、メルちゃん宛の手紙も入っていたわよ。まずは、そっちを確認してみて」
バルネアはそう言うと、視線を一番近くの客席のテーブルの上に移す。そこには、少し大きめの木箱が置かれていた。
どうしたものかとメルエーナが悩んでいるうちに、バルネアが運んでくれたようだ。
メルエーナは厨房を出て、バルネアに促されるままに木箱の中身を確認する。
そこには、特徴的な形の薄緑の瓶が三本と、『親愛なる娘へ』と書かれた封筒が入っていた。
それが母の字で書かれたものである以上、もちろん自分宛てなので、メルエーナは封筒を取り出し、その中の手紙に目を通す。
遠方で暮らす母からの手紙だ。嬉しくないはずがない。
元気にしているかどうかの確認から始まり、お父さんも『メルは元気にしているだろうか?』ばかり言っていると書かれていた。
そして、今年で十八歳になる自分のために、故郷のリムロ村の名産である、ワインを三本も贈ってくれたのだ。
メルエーナは両親の温かな愛情に、胸がジーンとしてしまった。
……そう、ここまでは感動していたのである。だが、手紙には続きがあった。
『メル。お酒は成人するまでお預けなんて、私は硬いことは言わないわ。バレンタインデーも近いことだし、チョコレートと一緒に、ジェノ君と楽しみなさい』
その内容に、メルエーナは苦笑する。
母は、自分が十五歳になったときに、「お父さんには、ないしょだからね」と村の名産のワインを一口だけ味見させてくれたのだ。
それから、たまに父がいないときを見計らって、少しずつ味見をさせてくれるようになったのだ。
法律的に言えば、このエルマイラム王国での飲酒は、十八歳以上からとなっている。
だが母は、
「雁字搦めに規制した反発で、興味本位で無謀な飲み方をするより、こうして慣らしていったほうが良いのよ。まして料理の道を志すのであれば、お酒の味も知っていないと駄目」
という教育方針であったため、メルエーナも実はワインが好きなのだ。
『それと、流石にバレンタインデーの話は友達なんかから聞いているだろうけれど、しっかり、ジェノ君にアピールしなくては駄目よ! 応援しているわ!』
母のおせっかいに、メルエーナは頬を赤らめて顔を俯ける。
遠く離れていても、自分の考えを母は全てお見通しだったようだ。
メルエーナは頬を薄っすら朱に染めながらも、笑顔で手紙を読んでいたが、最後の三枚目の手紙に目を通す。
『それと、私も早く孫の顔が見たいから、チョコレートとワインだけじゃなくて、勢いのままに貴女自身も、ジェノ君に美味しく食……』
そこまで読むと、メルエーナは顔を真っ赤にして、手紙をクシャクシャに握りつぶしてしまう。
「ばっ、バルネアさん。すっ、すぐに手を洗ってきますんで、チョコレートの、つっ、作り方を教えて下さい!」
「あらっ? 慌てなくてもいいわよ。それに、メルちゃん、顔が真っ赤よ。大丈夫?」
心配するバルネアに、「大丈夫です」と答え、メルエーナは手洗い場に向かって駆け出す。
手だけではなく、火照る顔も洗わなければと思うメルエーナだった。




