1 邂逅
「なあ、店主よ。ちょっといいか……?
いや、な、あそこで死んだように倒れている男についてだが、私の記憶違いでなければ、あの男は昨晩も一昨晩も、ああやって倒れていた気がしてならない。
もともと私は他人の顔を覚えるのが苦手でな、しかも他民族とあっては、顔の見分けがなかなかつかない具合さ。だから、私の記憶違いである可能性は大いにある。
しかしだな、店主、あの男を見てくれ。あのような、漆黒の髪をした人間は実に珍しい。私もなかなか長いこと旅をしているが、あのような者を見たのは初めてだ。
つまり、今あそこで白目を剥いて倒れている男は、昨晩と一昨晩にも、私がこの店で見た男本人であると推測してよいのだろう。
さて、店主よ、それで、あの男についてだが、先ほどから盗み見て観察していたところ、気がついた点がある。
それは、この店内にいる全ての者が、あの床に倒れている男を、まるでその場にいないかのように扱っているという点だ。特に年若い給仕娘などは、男を踏みつけて通ったりさえしている。
いったいこれはどうしたことか? と初め私は訝った。もしや給仕娘には、あの男が見えていないのか、と。しかし、おそらくそうではない。給仕娘は、当然あの男の存在を分かっている。分かっていて、あえて踏みつけているのだ。
そう断定するに至った根拠としては、あの男の上を通るときだけ、給仕娘の足踏みがいやに力強いことを挙げよう。あれは、自然に歩いていてそうなったという類いの足捌きではない。男を痛めつけるために勢いよく踏み下ろしている。しかも二回に一回は、踵で容赦なく抉りこみながら。
酷いことをする…… とは、思わない。店主よ、私は何もこの店を非難したいわけではない。
このような姿だが、私も女だ。同じ女として、かの娘の怒りは共感できる。私だって給仕娘と同じ立場だったら、同じことをするかもしれない。
だが、そう思うのは、私が女だからだ。しかも、私はこの国に来てまだ日が浅い。異邦人だ。
だから、恥を承知で尋ねるが、この国では、公の場であのように裸で酔いつぶれていたとしても罪に問われることがないのか?」
と言って、女戦士はピシッと指さした。その先には、全裸の男。
店の備品なのか、おぼんがかろうじて股間のモノを隠しているだけの、黒髪の男。
この男、名を風太郎と云う。
この物語の、主人公である。
エイギスは小さな村だが、葡萄酒の産地としてそこそこ有名だ。
ジュヴォ―山脈のふもとに位置し、山脈を越えれば隣国フローラ。つまり国境に近い村なので、山越えの旅人が訪れる機会は少なくない。なので村人は、異邦人がやって来ても、そうそう驚いたりはしない。
しかし、風太郎の場合は違った。多くの村人が、驚きと好奇の目で彼を迎えた。
風太郎がエイギス村にやって来たのは、昨年の夏。
彼はふらっと、旅人にしては少ない荷物だけ背負って村に現れた。垢まみれ泥まみれの姿で、歩くのがやっとなくらい疲れ果てていた。さらに目はぎらついて、前を睨みつけていた。
村人にとって不思議なことに、武器の類いを一切所持していなかった。当時は、ちょうど魔王が封印されたばかりの時期で、まだ今ほど魔物が鎮静化していなかったので、武器を持たない旅人はそれだけで異常だった。
彼のことを怪しむ村人は多かった。無理もない。
エイギス村長・アルベルトはすぐに風太郎を屋敷に招き、彼に事情を問おうとした。
しかし空腹でまともに喋れる様子ではない彼の顔を見て、アルベルトは少量のパンと葡萄酒を用意させ、風太郎に食べさせるのが先だと考えた。
結果的に、その判断は正しかった。
一杯の葡萄酒を呷った風太郎は、すぐに顔を真っ赤にして、べらべらと喋るわ喋るわ。
曰く、風太郎は『にほん』という国の出身なのだが、故郷にはもう帰れない。エイギスに来る前は仕事の一環として厳しい旅をしていた。その仕事は『ぶらっくきぎょう』なるもので、アルベルトは聞いたことのない仕事だったが、相当に辛い仕事だったらしい。特に『ぱわはら』がきつかった。なので風太郎は仕事を辞めて、自由に生きることにした。まとまったお金はあるらしい。
……などなど、風太郎はあっけらかんと語り、その後に勢いよく泣きだした。
困った、というか少し呆れたアルベルトは、風太郎を警戒する必要なしとみなし、村へ迎え入れた。お金はあるらしいので、村はずれのあばら家を有料で貸し出し、そこに住まわせることにした。
そして、風太郎はエイギス村に居着いた。
というか、居着きすぎた。
村長アルベルトも、村民たちも、風太郎が村に滞在するのは少しの期間だけだと思っていた。
しかし夏が終わって収穫期が来ても、収穫期が過ぎて冬になっても、冬が過ぎて暖かくなった今も、風太郎が旅立つ気配はない。
いや、旅立てよ! とアルベルトは思った。
「もう旅には出ないつもりかね? だったらどうじゃろう、この村で、嫁をめとり職に就くというのは?
幸いにも、魔王封印をきっかけにして、領内の経済は潤いつつあり、村での働き口に困ることはないぞ。
働き盛りの男手を欲しがっている者はたくさんおる。悪い話ではないと思うがの?」
とアルベルトが風太郎に告げたのは数日前。緊張の汗を流しながら、村長の話を聞いた風太郎は、
「嫁…… というのはさておき、仕事を紹介してくれるのはありがたいっすね。それで、あー、その仕事内容はどんなものっすか?」
「やはり若い男が求められているのは、狩りの仕事じゃの。」
「あー、狩りっすか……」
と言って目を伏せる風太郎。
「あー、狩りは、ちょっと、苦手で……」
「難しい狩りをやってくれという訳ではない。お主も旅人ならば少しの心得はあろう? その少しの技術でも、活かしてもらえれば村にとってはありがたいのじゃ。」
「うーん、困ったなあ」
いや、村長のワシが頼むのじゃから従えよ! とアルベルトは思った。思ったが苛立ちは表に出さず、
「狩人の職に就けば、やりがいも収入も大きいし、若い嫁もすぐに見つかるぞ」
「あー、やっぱり、その、狩りは苦手で……
それに、嫁とかも、苦手だし」
そう言って首の裏を掻いている風太郎の情けない顔。
アルベルトは呆れ果てて、それ以上言葉が出なかった。
まったく、甲斐性のない男じゃのう、いっそ追い出してしまった方が良いじゃろうか? とアルベルトは考えたが、こんな男でも村にお金をばらまいてくれるのだ。もし村長の独断で追い出してしまったら、村内の商家から不満が出て来るかもしれない。
就職の件は保留ということで、アルベルトは風太郎を帰らせた。それが数日前。
もう村から出て行ってくれないかな、この人。
全裸で倒れている風太郎を足蹴にして、イーナは強く願った。
エイギス村にある酒場『安息日の夜』の看板娘。
明るい性格の美人。巨乳。村一番の人気者だが未婚。
そんなイーナには、嫌いなものがある。それは酔っ払いだ。
酒場の娘であるイーナ。彼女は幼い頃から、嫌というほど酔っ払いを見続けてきた。そして、酔っ払いの介抱や後始末をし続けてきた。
仕事だと割り切っているものの、内にこびりつく嫌悪感は消えない。彼女が未婚なのもそこに原因がある。葡萄酒の産地エイギスで生まれた男は総じて大酒飲みだ。イーナは酒飲みの男を前にすると、どうしても身構えてしまう。
だが、エイギス生まれの男どもなど、酒癖の悪さに関して言えば、全然大したことなかった。
今、私の足下でのびているこの男に比べれば……
胸の内で煮えたぎる怒りがそのまま暴力となって風太郎にぶつけられる。
そんな光景を、店内の常連客は皆当たり前のように無視している。
なぜなら、それはもはや見慣れた光景だからだ。
風太郎は毎夜のように『安息日の夜』へやって来る。そして一杯目の葡萄酒で驚くほど深く酔っ払い、醜態を見せはじめるのだ。
この男の酒の弱さと、酒癖の悪さは尋常じゃない。いったいどんな人生を送ったら、こんな怪物になるのよ! と思うイーナ。風太郎はまさにイーナの天敵である。
酔った風太郎は夜遅くまでひとり大騒ぎ。騒ぎ疲れた彼が気絶するように眠るまで、イーナは振り回される。
もう村から出て行ってくれないかな…… と強く強く願うイーナ。
せめて店への出入り禁止としたかったが、店主である父がそれを許さなかった。
実は店主や常連客は、風太郎のことをそこまで悪く思っていない。
なぜなら、風太郎が面白可笑しいからだ。つまり道化だ。村の娯楽だ。
哀れなイーナは今夜もひとりで戦った。せめて、眠る風太郎を足蹴にするくらい、許されても良いではないか。
イーナは溜息を吐いて、店主である父を恨みがましく見つめた。
そのとき、イーナは父が端の席にいる女戦士に話しかけられていることに気がついた。
「この国では、公の場であのように裸で酔いつぶれていたとしても罪に問われることがないのか?」
ピシッとこちらを指さす女戦士。こちら、というか、私の足下を。
女戦士の顔はとても怖かった。目は吊り上がり瞳孔が縦に裂けている。口からは白い牙が飛び出ている。首元に鱗が見える。
純粋な人間族ではないのだろう。おそらく、竜の血が混ざっている。
「そこな給仕娘。こちらへ来るがいい。」
イーナは怖い顔の女戦士に呼びつけられた。
「な、なんですか~?」
とことこと恐る恐る女戦士に近づくイーナ。イーナが目の前に立つと、女戦士は椅子から立ち上がり、その長身でもって彼女を見下ろした。
女戦士を見上げつつ、女戦士ごしに父である店主の顔をチラッと見るイーナ。
父の顔は引き攣っている。見るんじゃなかった。
「給仕娘よ、名は?」
「は? えーと、イーナと申しますわ、お客様」
「そうか。
……イーナ。私が来たからには、もう大丈夫だ。」
次の瞬間、イーナは女戦士の力強い腕に抱かれた。イーナの豊満な胸が女戦士の革鎧で押しつぶされる。
「さぞかし辛かったろう。苦しかったろう。
あのような破廉恥な男を目の前にしながら、泣かず逃げ出さず、今までよく立ち向かってくれた。
イーナ、私はそなたを誇りに思う。
私には見える、そなたの高潔な魂が、あのような堕落した男の近くであっても、輝きを失わず燃え盛る様が。
そなたは強い。強い女だ。
……だが孤独だ。いや、孤独だった、少なくとも今までは。
今は違う。今、私がそなたの前に現れた。真実そなたの力になれるであろう、この私が。
さあ、イーナ、顔を上げて。
あとはこの私に任せなさい。なに、悪いようにはしない。
そなたがやろうとしていたことを、これからは私が代わってやるのだ。私はもう覚悟ができているし、それを成すだけの力は十分にある。」
しゃらん、と美しい音色がして、女戦士は腰の鞘から長剣を抜いた。抜剣はあまりにも自然で、店内の誰一人、白刃が顕わになった瞬間を捉えられなかった。
予想もしなかった展開に、呆然となるイーナ。
慌てふためく父の声。
「お、お客さん! 剣を、剣を収めてくだせえ!」
店内の客が次々と立ち上がり、女戦士から輪を描いて離れる。
人波が引いた後の輪の中心で、女戦士は毅然と立ち、その目前には、イーナがいた。
イーナは女戦士の顔を見た。怖い顔。だがそれだけではない。この表情は……
女戦士の頬は赤く染まり、金色の瞳は据わっている。
こいつも酔っ払いかよ! とイーナは心の中で絶叫した。
「私はね、イーナ。善行のためにこの剣を振るうのだ。
これは、そなたを守るというの善行のためなのだ。
力とは、ただ闇雲に振るわれて良いものではない。それは、善き目的のために研がれた刃でなくてはならない。
力有る者は、常にその目的を自らに問い続けなければならない。」
などと、ぶつぶつ言っている女戦士。
ふらふらとイーナの傍を通り過ぎて、風太郎に近寄っていく、怖い顔の女戦士。
この女、名をヴィクトリアと云う。
この物語の、ヒロインである。
初めまして。
頑張って連載小説を書こうと思います。
よろしければ、読んでやってくだいまし。