第9話
「階段から二人して落ちるなんて、前代未聞の失態じゃないか」
学院から送られてきたらしい報告書を、ディスプレイに表示させながら柊は笑った。案の定、今日も執務室に呼び出しを食らってしまった。
「まあ、でも、学院の養護教諭が問題ないと言っているのなら――」
そう言いかけて、ふと、柊はディスプレイをスライドさせる手を止めた。淡い光を受けた柊の表情が固まっているのが見える。
「……柚原琴葉? 学院の養護教諭が、柚原……?」
珍しく動揺しているらしい柊が、私たちに問いかける。目に見えて戸惑っている柊を見るのは、この数年間で初めてのことかもしれない。
「知っているのか」
「……まあ、昔の知り合いだ」
言葉を濁す柊を前に、思えば数年間を共にしているのに、柊については知らないことが多いことに気づかされる。私たちより一回り年上というだけで、随分と重要な職務を担っていることを考えると、やはり幼少期から「白」で育てられたりしたのだろうか。
「一応、こちらでも医師に診てもらうことにするから、このフロアの医務室へ向かってくれ」
柊は、昔から少し過保護な傾向がある。大袈裟な手当ても、必要以上の安静を求められることももう慣れっこだ。私と合崎は素直に従うことにして、執務室から医務室へと向かった。
「遅いな」
医務室に移動し、あまり使われていなさそうなソファーに並んで座ること10分、まだ、医師の姿は見えなかった。この後の予定もないので特別急ぐ理由はないが、早く部屋で一息つきたいというのが本音だ。
合崎は、先ほど私が買ってきたドリンクの中からパック入りのミルクティーを取り出し、ストローを挿して一口飲みこんだ。今日はいつもの何倍もの時間を合崎と共に過ごしている。気まずくはないが、心のどこかで緊張しているのか、いつもより気力の消耗が激しい気がした。
「今日」
ふと、合崎がストローから口を離し、視線で私を捉える。突然のことに、目を逸らせなかった。
「誰かに押されてなかったか?」
何の前触れもなく、核心に迫るようなことを聞いてくるからこいつは苦手だ。私をじっと見つめるその瞳には、いつも底知れなく黒く暗い光が揺らめいているように見える。ずっと見ていると、目を逸らしたくなるような瞳だ。虚ろなようで、しっかりと対象を見据えている。
その目には、合崎の持つ精神の不安定さが、時折如実に表れるようでならなかった。かつての「空兄様」も、確かに不思議な魅力のある目をしていたが、もっとはっきりとした優しい眼差しをしていた気がするのだ。
私と「空兄様」が出会ったのは、私が4歳のころだった。それまで過ごしていた施設から移動になり、この「白」直属の孤児院へ預けられたのがきっかけだ。孤児院に来る前の施設のことは、物心のついていない頃だったのか、流石の私でもよく覚えていない。
そんなわけで、私のこの記憶は「空兄様」との出会いから始まる。対面は、白衣を羽織った大人に付き添われ、子どもには馴染みのない応接室で行われた。思えばこの頃から既に、私と「空兄様」は次期軍師候補として目をつけられていたのかもしれない。
「二人にはね、これから仲良しになって貰うからね」
私たちに付き添っていた白衣の女性は、いかにも作ったような笑みを浮かべてそう言った。幼い私たちに、その笑みの意味するところなど汲み取れるはずもなく、言われるがままに私は「空兄様」の手を取った。
その時の、彼の驚いたような顔をよく覚えている。彼は、人に触れられることにあまり免疫がないようだった。
大人たちの思惑通り、私たちはすぐに仲良くなった。「空兄様」は面倒見がよく優しい子で、四六時中私の相手をしてくれていた。私も私で、いつも遊んでくれる「空兄様」をまるで本当の兄のように慕っていたのだ。
もしも、そのままの環境で年を重ねることが出来たのなら、私たちの関係はまるで違うものになっていただろう。「空兄様」は「空兄様」のままで、今も私の隣で優しく微笑んでくれていたに違いない。
私たちは、まだ知らなかったのだ。
この日々は束の間の幸せなのだと。
すべてを奪い去る怪物の足音は、既に聞こえていたのだと。




