彼岸花
この村には、特別な配達人がいる。真っ白で綺麗な神様みたいな人。結津さんと云って、男の人なのに、手足なんかはすらりとして、浅黒い所なんてちっとも無くって、顔もほっそりとした美しい人。いつも白いシャツに、黒のズボンをはいて、こんな田舎には、全然似合わない知的な目をしてる。
そんな綺麗な結津さんのお仕事は、配達屋さん。それも、決まって、赤い色の紙。
私は、あの赤い紙が、結津さんの美しい、白い、絹のように滑らかな手から、渡されるときの、あの何とも言えない絵画のような様が、たまらなく、好き。今はちょうど初夏。青々とした緑に、澄み渡る青、白く輝くような結津さんの手から渡されるその赤い紙は、余計に赤さを増して、こちらの目に沁みついてくる。
山を越えた先で、小さいころに見た、夢のような風景を思い出す。
ひんやりとした森の中、そよぐ緑の木々と、澄んだ空気。それから、一面の、彼岸花。
そこに顕れる、白い狐、が結津さん。白い、神様の遣い。
それに、あの赤い紙が渡されるあの瞬間には、本当に神様とか、何か此の世のものでない気配がする。渡されるのは、ほとんどは若い男の人だけれど、たまに、そのうちの奥さんなんかが代わりに受け取っているところも見たことがある。
みんな、なんとも言えない、奇妙で神妙な面持ちで、その紙を受け取る。
その紙を渡すときの、結津さんの、伏し目がちな微笑み。奥さんが受け取りに、出てこられた時には、その輝かしい瞳に、水の膜が張り、より一層際立って美しく見える。長い睫毛の、先の先まで完璧な彫刻のようなその姿。それで、いろいろの人に、赤い紙をお渡しになる。
けれど、そんな素敵な結津さんを、角のお家のチヨちゃんは、いつもすんごい表情でねめつけている。
あんな清らかな結津さんを、まるで、悪鬼でも見るかのような、あんまりにも、鋭い視線で、睨みつけている。いつも、いつも、いつなんどきでも。結津さんが通りを通っているのを、見かける度に。
いったい、チヨちゃんは、結津さんの何が気に入らないのかしらん。
そういえば、チヨちゃんには、年の離れた、お兄さんがいた。
浅黒くて、ごっつい感じの、でも笑顔だけがなんだか、その体に似合わない、太陽みたいなお兄さん。チヨちゃんが大好きな、そのお兄さんに、結津さんが、赤い紙を渡して、しばらくしたころからだったかしら。チヨちゃんが、結津さんを、呪わんとするほど、睨みつけるようになったのは。
チヨちゃんには、ちっともわからないのね。結津さんの美しさ。神々しさ。
結津さんは、私の神様よ。間違いないわ。これはお慕いするとか、そんなもんではなくって、もっと高貴な思いなんですの。
「すみません。配達です。」
あぁ、ついに私のお家にも来て下さった。
結津さんの、鈴の音か、風鈴のような、軽やかで、滑らかな、透き通ったお声が、私の内を駆け巡る。
「はぁい。」
あ、何て恥ずかしいお返事。「はぁい」だなんて。もう少し、きっちりはっきりとお返事できないものかしら。
「や、すみません。こちらに汲島譲五さんはお出ででしょうか。」
「いえ、えぇ、ここは確かに汲島の家ですけれども……兄は今、あいにく、うちにおりませんの。」
「そうですか。それでは、そう……」
汲島譲五は私の兄でしたけれど、生憎といない旨をお伝えしたところ、結津さんは、途端に何とも言えず気まずそうに、俯いてしまわれました。
あの「赤い紙」を、本人でもない、大人でもない、私に渡すのがためらわれるのでしょうか。しかし、私も、もう、お手紙をきちんと母か兄に手渡すくらい、訳なくできますのよ。
「あの、お手紙なんでしょう?あの、いつもの、赤い紙なんでしょう?」
そう私が聞くと、また余計に気まずそう。
「ねぇ、結津さん。私、その紙を、母か兄に渡すことくらい、出来ますわよ。」
結津さんの気まずそうな態度に耐えられなくなって、つい声が出てしまう。しかし、実際の所、母も兄も今家にいないのだから、私が受け取っておくより、他にないはずである。
「はぁ、それじゃ。すみません。」
結津さんはそういって、私に、あの赤い紙を渡しながらも、何となく不安げな、申し訳ないような顔をしてみせる。そうして、ふと、何かに思い当たったように、顔をしゃんと上げて、
「どうして、僕の名前を?」
私は途端に「しまった」と気づき、目をそらす。結津さんのことは、近所のおしゃべりなおばちゃんに聞いた。しかし、勝手に名前を知っているとなると、いい気はしないだろう。
「あの、その……わたし、結津さんがきれいだな、と思って、それで……人に聞いたんです。なんていうお名前なんだろう、って。」
私は自分の、取り繕うことのできない、なんでも正直に話してしまうところを呪いながら、ちらと結津さんを見ました。
「僕は、ちっとも綺麗なんかじゃありませんよ。」
結津さんから帰ってきたのは、勝手に名前を聞いたことに対する叱責でもなければ、私の方を気味悪がるでもない。ただ、自分の評価に対する、反対の言葉でした。
「僕は、綺麗じゃないんです。」
もう一度、結津さんは、はっきりとそういいました。
「なぜです?結津さんは、綺麗だと思います。」
「それは、そういう風に、だましているんです。僕なんか、本当は臆病者の木偶の棒ですよ。」
結津さんはなんだか悲しそうに、寂しそうにそういって、その日はうちを後にされました。
その晩、私は食卓で、母と兄に、結津さんから頂いた、赤い紙を渡しました。
私の手から、母、そして兄の手に渡った、あの赤い紙は、しかし、全然昼間の赤い紙とは違う。結津さんの真っ白な手から渡されたのと、とても同じとは思えぬ、ただの、赤い紙。
「結津くんが、これを、お前に渡したのか。」
兄は何が気に食わないのか、顔を曇らせて、そう、私に尋ねる。
「はい、そうです。私が、自分で兄さんに渡します、と云って、そうして結津さんから、受け取りました。」
「そうか。」
兄はそれっきり、なんにも話さず、ただ黙々と夕餉を食べ続ける。
母の方は、なんとなくせわしない。ひっきりなしに、目玉がくるくる。
「結津さんは、何か、云っていたかい?」
母は突然、何でもないことのように、私にそんなことをきいてくる。私はいまいちよくわからず、
「結津さんは、自分を『臆病者の木偶の棒だ』と云っていました。」
そう私が答えると、兄はむっとし、母ははっとして、それからまた、重い沈黙が食卓の飯だけでなく、お櫃の飯までも冷え々々とさせてゆく。私は、この、食卓に座ってる時間が、嫌いだ。
なんにもしていないのに。むしろなんにもしていないことが、いたたまれなくなってくる。
母も、兄も、今日は一段と、まずそうに、飯を食う。
次の日も、結津さんはうちを訪ねていらっしゃった。
私が、ちゃんと、あの紙を兄さんに渡したかを確認しに来たようだった。
「そうですか。渡してくださって、ありがとう。」
結津さんは、平生と変わらぬ柔らかな微笑みを、私に向けてくれる。それだけで、うちの澱んだ気配の一切合切が、綺麗に洗われるような、心地がする。
「結津さん。結津さんは、角のとこの、チヨちゃんとお話したことありますか?」
私がとつぜん、そんなことを聞きだしたので、結津さんは驚かれていました。
「いえ、挨拶をしたことがあるくらいのものですよ。」
「そうなんですか……。チヨちゃん、結津さんを、おっかない顔で、睨みつけているときがあるでしょう。気づいてらっしった?決して悪い子ではないのに……」
私がそこまで言うと、結津さんは、ようやく合点がいった、という風に、困り笑いをなさりました。
「それはね、僕が悪いんです。」
「なぜ、結津さんが悪いんですの?」
「僕が、チヨちゃんのお兄さんを、チヨちゃんから引き離したからです。遠くへやってしまったからです。」
「けれども、だって、そんなのおかしいわ。だってそれは、あの赤い紙が、そうさせているのでしょう?結津さんが、遠くへやってしまったんではないわ。」
「いいえ、いいえ。僕が遠くへやってしまったんです。少なくとも、チヨちゃんには、そう思われたでしょうし。それに、それは、間違っていないんです。チヨちゃんは正しい。」
結津さんは、そういいながら、なんだかご自分を責めてらっしゃるようでした。
「僕はね、生まれながらの出来損ないなんですよ。それでとっても、狡い人間なんです。」
結津さんは、もう私に話しているというよりは、ご自分で、ご自分に石を投げていらっしゃるようでした。
「結津さんは、出来損ないなんかじゃあないわ。それに、きっととても賢い方です。そうに違いありません。」
私は自信たっぷりにそういいました。
「賢い、というのは、勉強ができていることではないのですよ。そうして、もちろん非道い中身を、うまく道化で隠すことでもない。真に賢いというのは、これがなによりひとのためである、ということを、きちんと見極めて、そうして、それを見返りなく実践できることをいうのです。と、すると、僕はちっとも賢くなんかありません。」
私にはなんだか難しい。
「ですけれど、出来損ないという事はないでしょう。私、いままで、結津さんほど美しい方を見たことないんです。これは、本当です。」
「ありがとう。ありがとうございます。ですが、僕は、丙種なんです。頭ばかり肥え太らせた、生まれながらの出来損ないなんです。」
私は以前、兄が「丙種」という言葉を言っているのを、聞いたことがあります。その時たしかに、結津さんの名前と、それから奥寺のところの坊ちゃんの名前が出てきたのも、聞いております。しかし、それがなんだというのでしょう。
私には、そんなことが、どうして、こんなに美しい人を、憂いさせるのかがさっぱりわかりません。
「私はそれに、その肥え太らせた頭を、使うこともしない。賢く、使わない。頭でわかっていることを、分かっているだけで、声に出そうとしない。悪いことに、悪い、といえない。臆病者なんです。」
「やっぱり、私にはちっともわかりませんわ。チヨちゃんのことも、結津さんの事も。何が、そんなに、責められるようなことなのか。」
「えぇ、どうか、わからないままでいてください。その方が、きっとよろしい。あなたがここにいて、そうして、その純粋潔白の思いを汚されないでいてください。」
結津さんは、そういって私の目を、その透き通った水張りのガラス玉で見つめました。
「そうしていてください。あなたがいつまでも、そうしておられることが、幸福の証になりますから。どうか、せめて、そうしていてください。」
結津さんはそれから、同じような事を、四五度言い残して、また次の配達へ向かってゆきました。
それからも、結津さんは赤い紙を配り続けました。むしろ、日に日に、その仕事は忙しくなっていくようでした。
そうしてそのうち、赤い紙に代わって、木の箱を配達するようになりました。木の箱は時々、結津さんのほかに、薄汚れのある、煤けた枯草のような色の服の人たちも届けに来ました。その服も、もとは、美しい若草色だったのでしょうか。わかりません。
ただ、村は異様に沈黙していました。話していても、背後に沈黙がへばりついているようでした。
母と二人きりの家には、沈黙が膨れ上がって、横たわっていました。
沈黙と一緒に、村には香のにおいも絶えず、あります。
ある時、結津さんと奥寺の所の坊ちゃんは、二人して、いなくなりました。
私は、一目結津さんに会っておけばよかったと後悔しました。なんだか、もう、会えないような気がしたからです。結津さんは、やっぱり神様かなにかで、そうして、天に帰ってしまわれたのではないかと。そうえいば、奥寺の坊ちゃんも、結津さんほどではないけれど、色の白くて、繊細な美しさのある方だった。
あの二人は、いよいよ仕事を終えて、天界に戻られてしまったのでしょうか。
そういえば、私、結津さんとお話しできたあの日から、なんどか、山の方に行って、あの夢のような景色を探したのですけれど、ちっとも見つからない。やっぱり、あれは、幻だったのかしら。
ひんやりとした森の中、そよぐ緑の木々と、澄んだ空気。
それから、一面の、赤い花。




