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化け物であっても、独りであれぬ。 

作者: 久我走

挿絵(By みてみん)

 泣く事の多い少女だった。

 寂しい子だと、そう思った。


 だって、一人だったから。ずっと、独りだったから。

 少女は泣いているのに、誰も傍に居なかったから。

 「 」は泣いたことはないけれど、だけれども、「 」にだってわかる。


 そういう時、人間は一人で居てはいけないのだ。それは、どうしてもいけない事なのだ。

 とてもとても、いけない事なのだ。

 だから、傍に居てあげたかった。


 「 」くらいは、泣き顔の傍で。

 彼女を守ってやらないと、そうしてあげないと。



 そんな事を、思っていた。




                        §





 先々月の末くらいだったろうか。長らく疎遠だった親戚の叔母さんだか大叔母さんだか祖母だか曾祖母だか姪だかなんだかエトセトラエトセトラだかから連絡が来た。

 曰く、年端も行かぬ知り合いの少女を二泊三日で預かってほしい。

 そんなお願いだった。


「お断りします」

 断った。紳士的にお断りした。

 なにせ、私は男性で、成人しており、しかして定職に就かずにふらふらしている田舎の一軒家に住むしがないプー太郎なのだ。


 そんな私の下に、親戚の頼みだかなんだか知らないが、女の子が三日間も居るなんて、それはもう何かあらゆる事象に言い逃れが出来ない、大変にリスキーな事柄だと思う。

 だから断った。紳士ゆえに。


 だが、長らく長らく疎遠だった親戚の叔母さんだか大叔母さんだか祖母だか曾祖母だか姪だかなんだかエトセトラエトセトラだかは続けて言うのだ「お代として六万払う」と。

 六万。少女を三日程度預かって六万。単純に考えて日給二万だ。なんだこの破格条件な超高額報酬バイト。


 絶対これは何がしかの罠に違いない。私を陥れようとする大いなる意志とかが仕掛けてきたトラップだろう。多分、私を不信がってる地域住民とか自治体とかそんな感じの奴等とかの。


 ……大いなる意志の規模ちっせぇな。

 まあ、そんな胡散臭い甘い話にこの私が乗るか乗らないかと言ったら、賢明で明哲で博識で聡慧な私が、幾ら高額な報酬が用意されていようと、どの様な答えを出すのかは決まっていた。

 

「じゃあ、木賀さんこの子を宜しくね。お代はお先にこの封筒で渡しておくから、お迎えは三日目の昼位に車を寄越すからそれに乗せちゃってね。それじゃ」

「はい。お任せ下さい」


決まっていたから、少女はこうして我が家に来たのだ。


 厚化粧の所為で、美を保つどころか年の年輪を浮き彫りにしていった中年太りのオバサンが去っていくのを見送る。


 さて、ではでは改めて。一応君達に自己紹介とかしておこう。どうせ短い付き合いではあるが、相手の人となりを知っておくのは大事な事だろう?

 私の名前は木賀だ。名前の方はどうせ知る必要がないだろうから割愛させてもらう。てか、別に名字も覚えなくていい。


年は三十七、いや、八だったか? その位だ。仕事はしない主義だ。正確には仕事と言えるか微妙なラインの事でお金を稼いで生きている。当然常に金欠。


容姿は―――別にどうでもいいか、よくいる四十近いオッサンの風体をちょっと爽やかにして渋くして咥え煙草が似合う感じで、無精髭が逆に芸術的に枯れて。厚みを増した人間性を醸し出してるナイスダンディを想像して頂いた後に、それら全てを打ち消しかき消し無かったことにしてからやっぱりよくいる四十近いオッサンの風体を想像してくれ給え。


「……」

 そして今目の前の、長らく疎遠だった親戚の以下略が置いて行った少女だが。年齢は、中学を上がるか上がらないか位だろうか? 大人びた雰囲気だから高校生でも通じる人には通じそうだ。


 容姿も悪くない。寧ろ良い。短めの髪に冷めた目。若干痩せぎすな気もするが、細身で年の割に少し高めの身長をもった体を、女の子というよりは男の子が着てそうな服に包んだ姿。

 全盛期のシュワちゃんとかが全力でエルボーを叩きこんだら折れそうな程華奢。いや、全盛期のシュワちゃんなら多分電柱とかもエルボーで叩き折りそうだけど。


 だが、なんだろう。先ほど冷めた目、と表現したが。冷めているのは目だけではない。雰囲気事態が何か氷の様な冷たさがある。

 少女は私が触れると、氷の心で指先を凍らせるのです。ああ、触れたいのに触れられない、なんて悲しく冷たい物語――。

 みたいなポエムが浮かんでしまう。


 うん、下らないジョークは置いておこう。

 そう、なんとなく。その冷めた目は、なんだか俗世離れしていて印象的。

 悪く言えば、ちょっと不気味だという事だ。


「あの」

「あ、すまん。ちょっと色々考え事してた。取り敢えず上がって。本当に短い間だが宜しく。何かあったら遠慮なく言って」

「はい」


 無愛想だ。今の若い子なんかと接点なぞ無く、比較対象を持たないので分からないが、恐らく愛想のない方だと思う。

 私も人の事は言えないが、それでもこの年の頃はもうちょっと愛嬌が―――あ、やめよ、トラウマが甦っちゃうからね。碌な思い出が沸き上がってこないからね。



                        §



 人を紹介したなら、次は物だ。

 我が家は古き良き日本家屋だ。まあ、よーするに築年数が五十年位のどうしようもない田舎の一軒家だ。

 庭が広いのが救い。といっても、そもそも一番近いご近所でも此処から歩いて十分位掛かるので、庭とかそういう概念がそもそも無い。


 家の裏とか川が出来ちゃってるし、誰の持ち物かも分からない土地がそこらに無駄に広がって、草ボーボーで森がモリモリしている。縁側からの眺めはそれなりに綺麗だったりもするが、そういう事に感動する性分でもないので正直どうでもいい。


 確かこの家は祖父だか祖母だかの持ち家で、財産として巡り巡って俺の下にきた。何回か必要最低限改装はしているので、住むこと自体には実は問題がない。

 私は親戚の中でも厄介者。言葉を選べば特殊。言葉を厳選すれば高貴なる特異人材だったので、特異な財産だけが転がり込んできた。


 しかし改装しているといっても、家の床を歩けば軋むし、なんか所々錆びてたり朽ちてたりするし、やたら焚いても無いのに線香の臭いが濃いし。二階まであるから無駄に部屋数も多い。

 物を溜め込む事もしないから、必要最低限のものしかなく基本的に物悲しい家だと言えるだろう。


「お嬢ちゃんは、取り敢えず二階に余ってる部屋があるから適当に好きなとこで寝てくれ。布団とかは後で持ってくから。あと、家にあるものは何でも勝手に使ってい―――」

「椎。私の名前、しい。お嬢ちゃんじゃない」

 と、そこで少女から不満の突っ込みが入る。まあ、呼び方が気になるお年頃なのかもしれない。


「あー、えーっと、椎さん」

「さん付けは気持ち悪い」

「……じゃあ、椎ちゃん?」

「ちゃん付けは途轍もなく気持ち悪い」

 途轍もなくときましたよ。分からん。ちゃんも、さんもダメなのか。

 この年頃は他人からの呼び名に此処までデリケートなのだろうか。


 そもそも人付き合いが極端に少ない私には、難しすぎる命題なんだが! ぇえい、もう知らん。ならば―――

「し、椎」

「うん」

 

 あ、呼び捨て。呼び捨てで良いんだ。それが正解なのか。なんだか難問クイズに正解した時の様な、爽快な喜びが全身を駆け巡る。たかが、名前の呼び方一つで苦慮している己を自覚を省みて一気に喜びは打ち消されたけども。


「じゃあ、椎。もう一度言うけど、家にあるものは勝手に使っていい。断る必要もない、まあ、大したものも無いが。私は下の階に居るから好きにしてなさい。飯は腹が減ってきたら言え、何か作る。私は下の階に居る事が多いから。外に出たりするときは一応声を掛けろよ」

 私が、なんだか保護者みたいな事を一通り言うと、無愛想な少女。椎は、こくりと頷いて二階に向かう階段へと向かった。

 うーん。本当に無愛想だな。愛嬌を振りまかれても面倒だから、別に良いけども。


「ん?」

と、そこで椎が階段に歩いていく内にハンカチが彼女のズボンのポケットから落ちる。

「おい、落ちたぞ」

 拾って彼女に、その黒っぽい花が模様として縫われたモノを差し出すと、矢張り椎は無愛想に礼も言わずに受け取った。


 不味いな、三日間とはいえずっとこのまま無愛想を貫き通されると辛い。多少は世間話が出来る程度の関係には成っておきたいものだ。

「そのハンカチ。可愛らしいな。その、黒っぽい花の刺繍なんて特に良い、何の花かはわからんが」

「え?」

 と、小粋なトークを展開するための入り口の言葉を発すると、椎は何やらとても驚いた表情でこちらを見てくる。


 初めて合った視線に浮かぶ感情は、困惑と恐怖。

「オジサン、もしかして」

 何を言いかけたのか、その答えは分かり切ってる程に。

「……いや、ううん、なんでもない」

 椎はそのまま何も言わず、背を向けて階段を上っていく。


 先ほどのハンカチと、恐らく唯一持って来ているのであろう自分の荷物の鞄を背負って。

 多分、今私は行動を間違えてしまったのだと、すぐに気付いた。そうして、理解できた。

 彼女が、なんで家に来たのか、察する事が簡単にできた。




                        §




 時間はあっという間に過ぎる。

 一日ってのは二十四時間あるが、年を喰えば喰う程、やる事が毎日単調になり、刺激が無くなり、時間が飛ぶように過ぎていく。

 

 それは、その日暮らしの生き方をしている私だって同様だ。

 そんなこんなで、椎が来たのは午前中だったというのに、今は既に夕方。とっぷり日が暮れていた。

 下の階で永遠内職のお花造りやら、ご近所(五キロ離れた所に住む鈴木さん)に頼まれていた農家ブログとかいうよくわからないコンテンツのHP作りのバイトをしていたら、既にこの時間。


 恐ろしい。なんなのだ、この時の加速度ぐあいは。そしてなんなのだ農家ブログって、誰に向けたコンテンツだよ。誰にPRしてんだよ。そして、なんで鈴木の婆さんは稲作風景写真のレイアウトを「お米の美味しさを全力で表現している儂の素晴らしさを全力で表現している写真が撮れたから、全力で表現してくれ」とかいう、もう自分でやって下さいという気分に全力でさせてくれる注文を付けてくるのだ。


 まあ、報酬が一年間米と野菜食べ放題という、有難い報酬なので粛々とやるしかないのだが。

 そんな感じで、自分が仕事と呼べるのか分からない仕事をしていた時間中、椎は一度も降りてこなかった。

 って、あ!


「しまった、昼飯を出してやるのを忘れてた!」

 普段自分が適当な食生活だったから完全に失念していた。腹が減ったら言えとは伝えたが、何も言ってこなかったら勝手に用意してやるつもりだったのに。

 駆け足で二階に向かう、複数ある部屋の中から、人の気配を感じる場所に当りをつけ、改装時に取り付けた所為で若干周りから浮いている洋式のドアをノックする。


「すまん、椎。昼飯を用意するのを忘れた。夕飯何か喰いたいものはあるか?」

 声をドア越しに掛けてみるが、反応はない。もしやぶっ倒れていやしないだろうかと思いながら、ドアを恐る恐る開けると、椎は倒れていた。


 倒れていた!?

「椎!!」

 何もない部屋の真ん中で、横向きに寝転がって倒れている椎を見て、急激に血の気が引く。

 急いで駆け寄ろうとするが、そこで彼女の顔が目に入った。


「ん、っんん」

 冷たい印象をひっこめた安らかな顔で、椎は寝ていた。どうやら腹が減り過ぎて倒れたわけではなさそうだ。

「おい、風邪ひくぞ」

 取り敢えず一安心しながら、彼女の傍に声を掛けながら近寄っていく。


 寝てる子を起こすのは可哀想かとも思ったが、晩飯のリクエストを聞いた方がいいだろう。もしかしたら、食べられないモノやアレルギーなんかもあるかもしれない。

「んん、ぁ、ぁぁ」

 そこで、彼女の様子が少し変な事に気付いた。


 安らかな顔だと思っていた表情が少し崩れ、うなされていく。

「こ、ない、で。わたし、いや、だ、ら。こな、で」

 苦渋の表情で、何か嫌な夢でも見ているのか、椎は怯えてるみたいだった。


「や、めて、おね、が。お願い、だから」

 彼女は静かにうなされながら、苦悶の声を上げていく。体は何かに耐える様に、少しずつ、くの字に縮こまっていく。



「お願い、だから。一人にして」



 そう、彼女が苦しみながら呟いた瞬間。

 風が吹いた。

 部屋に合った唯一の窓から、【開いてもいないのに風が吹き荒んでくる】。


「う、ぉっ!!」

 何かからの悪意を感じるような、不気味で不穏な風が、私の体に叩きつけられる。

 何が起こっているのか分からない。分からないけど、暴風の中で必死に異常事態を確認しようと、細く開けた瞳の中に映り込むものがある。


 影。

 黒い影。

 何か、泥濘の様な、靄の様な。影。只々黒く、それがあった。いや、居た。


「ん……ぇ?」

 と、その暴風の中で、苦悶しながら寝ていた椎が目を覚ます。

 彼女は体を起こし、数秒固まった後に勢い良く立ち上がった。


「―――っ!? やめて!! 【此処】では止めて!!」

 大きな声で、彼女は叫ぶ。

 誰に言っているのか、何に行っているのかもわからなかったが、彼女はそれでも伝える為に叫んでいた。



 そこで、私の意識は唐突に途切れた。






                        §




 「あー、次に目が覚めた時、そこは異世界でした。なんか風呂屋っぽい所で豚とかになった両親を豚汁にする為に、おかっぱ頭の情報伝達能力皆無の少年とか、顔とか欠損してる系男子とか、ババアとかと喧々諤々した後、現実の世界に戻って美味しく豚汁を―――」


 目が覚めた。

 普通に、いつものぼろい我が家で。

 意識が途切れる前に何があったのか、改めて脳内精査する。


「……」

 精査やめ! 考える事を放棄します!

 大人は考えても無駄になる事や、無意味になる可能性の高い事については考えない!


「オジサン、大丈夫? 色々な部分が」

「ぁ?」

 自分の状況を確認。意識がぶつ切れる前に居た部屋で、私は床に転がっていた様だ。

 傍には椎がいて、何とも言えない表情をして傍で正座している。


 なんだか、これから親に怒られることが分かっている子供が、正座しながら覚悟を決め切れてないで不安にしているみたいだ。

 でも、色々な部分とか言う時点で、俺のさっきの独り言妄想大会について突っ込みを入れる余裕はあるみたいですね。恥ずかしいですね私。


「ぁー、大丈夫だ。お前は大丈夫だったか?」

「ぇ? う、うん。大丈夫。その、あの」

 床から身体を起こし、立ち上がる。大体四半刻程度気絶していた様だ。多少関節とかが痛い。出来れば布団とかに寝かせて欲しかったが、成人男性を運んで布団に寝かせる等という重労働。少女に求めるのは酷だろう。


「本当に、ごめんなさい……」

 椎が謝ってくる。か細い声で。怯えながら。悪い事をしたら、謝る。それは正しい。だから、謝る時は罰に恐怖しながらというのも、間違っていない。

「何について謝ってるんだ?」

「それ、は」


 だけど、形だけの謝罪に意味はない。そして、私は何も椎に謝罪されるような事はされていない。

「突風が吹いて、四十近いからなのかオッサンは動転して倒れた。間抜けの極致みたいな話だが、そういう事だ。何を勘違いしているのか知らんが、謝る必要なんて無い」


 【傍から見ればそういう事なのだ】


 だからこそ、彼女にとって、この事は問題なんだろうが。

「飯にしよう。昼飯、作るの忘れて悪かった」

 そう、俺は椎に告げる。

 彼女は苦しそうな顔で頷くだけだった。



 冷蔵庫にあったモノで、適当に作った夕飯を彼女に振る舞い、全く会話も無く楽しい夕食は終わった。

 因みに椎からの味の感想は無かった。聞かなかったから答えなかっただけなのかもしれないし、聞いたら彼女の不満が噴出していたかもしれない。


 椎は、只無愛想な面で箸をすすめるだけだった。

 その後も特に会話も無く、椎も私も各々の部屋で寝た。

 彼女は、ずっと何か言いたい顔をしていたが、私は何も聞かなかった。聞こうとしなかった。


 そういう処が、きっと私の人格の欠損部分なんだと、自覚はしていたけども。

 それでも聞かなかった。

 聞いて、答えを得ても。私もそれに何を抱けばいいのか分からないから。それは怖いことだから。



                        §



 二日目も何も無かった。

 以上。



 で終わるつもりだったが、そうもいかないだろう。

 だが、本当に何もなく終わりそうだった。

 朝に朝飯を食べさせ、昼に昼飯を食べさせた。昨日同様適当に冷蔵庫の食材を引っ張り出して作ったモノで、味の感想も聞けやしなかった。


 無愛想で無口な椎は、食事中も仏頂面で黙って黙々と食事をしていた。

 昨日の事なんて無かったかのように。いや、無かった事にしようとしていたのか、何も話さなかった。


「外に、行ってきます」

 だから、昼過ぎに椎がそう言ってきた時、私は少し驚いた。

 今日も二階の部屋にずっと籠っているのかと思っていたからだ。


「ああ、分かった。夜には帰って―――」

「オジサンも来てください」

 訂正。少しじゃない、とても驚いた。




 椎は何処に行きたいとか、何がしたいとかは言わなかった。

 ただ、一緒に歩いてくれと、そう頼むだけ。

 だから、だだっ広いだけの田舎道を、私と椎は何もせずに歩いていた。会話も無く、遊びも無く。只歩くだけの、散歩。


 家の裏にあった川に沿うようにして、取り敢えず歩きやすい道を進んでいく。

 椎は田舎の景色を楽しむなんてことをする気も無いようで、顔も上げず俯きがちに歩くだけだった。

「……」

「……」

 く、苦痛―――。

 何も会話が無いというのはこんなにも辛いのか。どうしよう、何か話題を振るべきだろうか。

 そろそろ夏も近くなってきますし、暑さが辛い季節ですね! とか。


 蚊も大量発生してきて辛い季節ですね! とか。なんかともかく辛い季節ですね! とか。

 川遊びとかすると気持ちが良いけどここら辺に居るのはババア位なもんで華が無くて辛いですね! とか。

 駄目だ、辛い季節過ぎる。世の中辛い事が多すぎる。



「気持ち悪いモノが見えるの」



 私の下らない思考を打ち消す、冷めた音色の一言。

 川を越える為に作られた、木造の橋。その橋に足を数歩踏み入れた辺りで、彼女は立ち止まりそう言った。


 不自然な程に冷たい風が頬を撫でる。

 椎は氷の目をしたまま、言葉を続けていく。

「もっと子供の頃は、黒い靄みたいなものが見えたりしなかったりで、形として見えた訳じゃなかった。だけど、最近はもうしっかりと見えてくるようになって。ちゃんとそこに居るって分かるようになった」

 冷たい声で、年不相応な雰囲気を纏いながら椎は話す。


「その気持ち悪い奴は、私以外には見えないみたいで、誰に伝えても誰も分かってくれない。嘘つきって言われたり。色々言われた。大人に、よく怒られたりもした」

 誰も見えないものが見える少女。理解できない事を訴えかけてくる少女。

 同年代の子達にも、大人達にも、椎がどう思われ、どう扱われたのか想像する事はとても容易い事だ。


「それに、その気持ち悪い奴は、良く話しかけてくるの。何を言ってるのかはわからないけど、いつもいつも、何か話しかけてくる。朝でも昼でも夜でも、私が一人で居る時はいつも」

 風が強くなる。

 冷たい風が、椎と私の間を吹き抜ける。


「それが怖くて。消えて欲しいけど。あいつらは、分かってくれないの。それどころか、偶に、その気持ち悪い奴は怒ったみたいに強い風を吹かせたりして、周りの人達を傷付けたりするの」

 風が強く、強く。

 どんどん強く。どんどん激しく。


「私、分からなくて。気持ち悪い奴の事、分からなくて。でも、誰に聞いても誰も見えなくて分からなくて、どうしたらいいのか、何も、分からなくて」

 冷たい風が吹き荒ぶ。

 局地的な、極小の異常気象。そして、この風が向かう先がどこなのか。もう、分かっている。


「もしかしたら、私、人間じゃなくて、あいつ等と同じ化け物なのかな。だから、お父さんもお母さんも居なくなっちゃって、お爺ちゃん達もお婆ちゃん達も私を叩いて。だから、私もうすぐ施設に入れられちゃうのかな」


 無口で無愛想で仏頂面の少女。その彼女の独白は、矢張り冷めた表情で、冷たい面相で語られる。

 だが、彼女は泣いていると、何故かそう感じた。

 声は怜悧で、呟くような小さい声で。だけど、その言葉は泣き濡れた人間のもので。




「私、これでようやく独りになれるのかなぁ」



 そう、発せられた。


 

 衝撃。

 椎がその言葉を発したと同時に風の暴力が、私の全身を襲って来た。

 体が浮遊する感覚と、圧を持った存在が押し潰そうとしてくる感覚。

 体を支える事が出来ず、その正体不明の力になす術もなく体を地面に叩きつけられる。

 

 だけど、その現象は怖くはなかった。そんな事、最早どうでもよかった。

 見えていたのは椎だ。彼女の姿だ。

 とても、苦しそうな、彼女の表情だ。あんなもの、嫌でも目に入ってくる。

 あんな言葉を、あんな冷めた表情で発する少女なぞ、最早痛々しいなんてレベルじゃない。


 一体何度感情を押し殺せばああなってしまうのだろう。一体何回傷付けられたらあそこまで温度を失ってしまうのだろう。

 彼女は無愛想だった。無口だった。何も言わなかった。だから、何も分からなかった。

 だけど、それは、一体どうしてだったのだろう。

 どうして、彼女はそうなったんだろう。


 それは、誰も応えてくれなかったからだ。


 椎の周りの全ての人間が、彼女の言葉に応えなかったからだ。ちゃんと、言葉を返してやらなかったからだ。

 だから、この少女は何も話さなかった。だから、この少女は、何も聞いてこなかった。

 だから、彼女は温かさを失ってしまった。

 椎は、何も分からなかったから応えて、教えて欲しかっただけなのに。彼女に応える人は居なかった。



 なら、私は、応えてやらないと。

 私は、椎と同じなんだから。答えを、知っているのだから。

 私だって、聞くのは怖い。今でも怖い。だけど、聞かなきゃ何も始まらない。

 だから、聞いてくれ椎。私に。応えるから、私もどう応えればいいのか分からないけど、応えるから。



 独りになる事を求めるのは。それだけは、駄目なんだよ、椎。

 


 思考が途切れて、気付いたら、体は地面に叩きつけられていた。

 肺の中にあった空気は、強制的に口から外に吐き出され。鈍痛が全身を駆け巡る。

 四十に近くなると体もガタがくるもので、この一撃で何処か故障していそうで非常に怖い。


「オジサンっ」

 少女が仰向けに倒れた情けないオジサンの傍によってくる、体に纏わりつくように発生していた風は彼女が近づいてくると和らいでいく。そして、椎の身を案じる様に周りを囲って流動し始めた。

 ああ、やっぱり、そういう事なんだな。


「だい、じょうぶだ。私も年だから、ちょっとフラついた」

 冷めた表情からも読み取れる、気遣わし気な冷めた瞳。それは、相反しているようで、両存している。

「なぁ、椎。一つ聞かせてくれ」

「な、何?」


 彼女は小さな手で私の腰のあたりに手をやって、起こしてくれる。

 冷たい瞳と、その行動の温かさのちぐはぐさ。それはきっと、彼女本来の性質と、生きていく中で生まれてしまった諦観。その二つがどちらも消えずに椎の中にあるからなんだろう。

それはとても、ちぐはぐで歪かもしれない。だけど、彼女は優しい少女なのだ。その事が、なんだか嬉しくて、笑みが零れてしまう。


「何故、【見える】事を、私に話してくれたんだ?」

「そ、れは……」

 少女は言い淀む。だが、逡巡の後、伏し目がちに視線を合わせてきて応えてくれた。


「オジサンが、『何について謝っているのか』って聞いたから。それを説明するには、私の事を言わないと、説明できない。でも、人に言うのがやっぱり怖くて、あの時は言えなくて。でも、あの時オジサンがあんな目にあったのは私の所為だったから」

「そうか。じゃあ、君は俺が聞いたから、応えてくれたのか」

「うん。だから、ごめんなさい。あの時、私の所為でオジサンを危険な目に合わせて、ごめんなさい。それに、今も、今のも私の所為だから、ごめんなさい……」


 椎は謝罪をする。自分の所為だと、謝ってくる。相手の言葉に真摯に答えようとして、行動し謝る。なんと、真っ直ぐで清らかな行為なのだろう。

 なら、私はなんと応えてあげればいいのだろう。


 人との関係など希薄で、田舎に一人で住んで、ふらふら生きてるプー太郎の私が、彼女のこの謝罪に応えきれるはずがない。

 でも、応えてあげなければ。そうしなければ、彼女は独りを望み続けてしまう。自分の為に、他人の為に、孤独を選んでしまう。


「まずな。椎、俺がこんな目にあったのは君の所為ではない。だから、気に病む事はない」

「……」

 痛む体を支えて貰いながら、なんとか己を自立させる。


 そして、私は椎に視線をしっかりと合わせようとしたが、身長差から視線が上と下で交錯してしまう事に気付いて、立ち上がってまたすぐ、膝立ちになって彼女の目線に合わせた。

 人と会話するときは、相手と同じ場所に立たないと何も始まらないから。


「次に、君に教えてあげたい事がある」

 冷たい瞳に、向き合いながら、私は告白をする。昔、何度かしようとして、その度に話さず後悔した内容を。


「私にも、気持ち悪いモノが見えるんだ」




                        §



 それは確か私の年が小学校に通っていた位の頃で、飼っていた犬が死んだときだったと思う。

 薄情な事に、その犬の名前を憶えていないけれど、その犬が死んだときの事は鮮明に覚えていた。


 犬は、私の目の前で、交通事故で死んだ。散歩中にリードをうっかり放してしまい、まだ幼く元気が有り余っていた犬は、道路に飛び出し乗用車に轢き殺された。車は止まりもせず、ひき逃げていった。

 私はその死体を抱きかかえて、泣きながら家に帰った。


 両親がなんと私に声を掛けたかは余り覚えていない。

 私を叱責しながら、その犬を飼うのに幾ら掛かったと思っているんだとか。何故、引き逃げた車をその場で止めなかったんだとか、そういうことを言っていた気がする。


そして、飼い犬が死んだその夜。私は寝る前に化け物を見た。


 黒い靄が掛かったソレは、ペットを失ったショックから泣き続けていた私の寝布団の頭上周りを、ゆっくりゆっくり旋回していた。

 そして、何事か音を発していた。

 ぶつり、ぶつりと。奇怪な金属音の様な、言い知れぬ音階を響かせながら、靄は周回を続けていたのを覚えている。


 そして、その靄は年を重ねるにつれて色濃く実態を持って行き、靄ではなく影になっていった。

 大人になり、紆余曲折を経ても、その影を見る事は多い。影はいたるところに居た。

 地方の大学にいたころ、都会で仕事をしていたころ、海外で放浪していたころ。いつでも、影は目に入って来た。


 民家に、ビルに、仕事場のプリンタに、独り暮らしの住まいのタンスに、影は常に蔓延り、群生していた。

 煩わしいと思った事はあっても、怖いと思った事はない。それは、私にとって当たり前の事だったから。

 そして、その事を周囲に話した事はなかった。


 そう、私は話さなかったのだ。

 なんとなく、分かっていた。それが、自分にしか見えないであろうことや、その事を話したらどうなるのか。

 椎と違い、あるいは同じく。私は他人に聞くことをしなかった。他人に拒絶される前に距離を置いてしまった。


 だから、誰とも分かち合う機会すらなかった。

 いつか、誰かに話していたら、想像の外の出来事が、出会いがあるのかもしれないと。そんな事を考え続けながら。

 私は、誰かからの応えを求めようとはしなかった。



                        §



「そう、だったんだ。オジサンも見えるんだ、だから、あの黒い花、見えたんだ」

 初日、椎が落としたハンカチにされた黒い花の刺繍。アレは、刺繍なんかじゃなくて、彼女の言う『化け物』の一種だ。

 私自身も、日々生活していく中で何度か見たことがある。


 あの花は、数日たつと場所が変わっていたりする。自然にハンカチや布なんかの刺繍の様に紛れてるから、時々他者にも見えてるモノだと思って、ボロを出しそうになることは度々あった。

「ホントは、もしかしたらオジサンも私と同じなんじゃないかって。同じように見える人なんじゃないかって、そう思ったから、話したってのもある。ごめんなさい」

「謝る必要は無い」


 本当に謝る必要なんて無い。

 だって、嬉しかったんだろう? 椎。

 漸く、理解してくれるかもしれない人間が現れたのかもしれないって。嬉しかったんだ。漸く目に見える形で、希望が湧いて出てきたんだから。

 それを逃すまいとするのは、何も悪い事じゃあないんだ。当たり前じゃないか、そんな事は。


「椎、お前は自分の周りに居る、【気持ちの悪いモノ】が嫌いか?」

「分からない。気持ち悪いし、怖いけど。でも、分からない。嫌いかって言われると分からない」

「そうか」

 黒い影は、音を発する。動きもする。私の周りの彼等は、そうやって常に視界に入って来たし、存在を私に知覚させてきた。


 だが、彼女の傍に居るのは少し違う。椎の傍にいる影は、風を纏い、彼女の傍で風を行使することまでする。

 他者に危害を加える。

 そんな影は、私の周りにはいなかった。


「椎。もしかしたら、その影は君を守ってるのかもしれない」

「守る?」

 少女は小首を傾げながら疑問を呈する。


「影が風を吹かしたり、君に話しかけてくるのはどんな時なんだ?」

「それは。私が泣いてる時とか、誰かに酷い事言われてる時とか、あと、私が一人で居る時」

「君自身が、その風に怪我をさせられた事は?」

「そういうことは、無かった……」


 彼女を直接傷付けることなく、彼女を傷付ける者を攻撃する。一人で居る時には話しかけてくる。

 それは、一体どういう事なのか。素直に考えれば、一つのシンプルな答えが出てくる。

 そして、椎は聡い子だ。だから、彼女は当惑した顔で答えを出す。


「気持ち悪い奴は、私の為に―――?」



 例えば、彼女がもっと幼かった頃。一人で泣いていた時、影は話しかけてきたという。

 例えば、彼女が心ない言葉を言われた時、暴力を振るわれた時、風は巻き起こり加害者を傷付けたという。

 ならば、例えば、それは彼女の事を想って。影が椎を守ろうとして、行動した結果なのかもしれない。


 彼等は喋る。だけど、彼等と会話は出来ない。

 だけど、誰にも応えて貰えなくても、彼等は椎や私の様な人間に話しかけてくるのだ。

 そして、椎の傍に居る影は、彼女の為に行動までする。

 なら、それはきっと。



「本当の事は結局分からない。だけど、これから椎が影に応えてやれば、影と心を通わせようと努力をすれば、もしかしたら。いつか、【気持ちの悪いモノ】でも【化け物】でもない、他の何かに奴等はなってくれるかもしれない」

 少女は冷たい目を、まんまるにしながら、思いもよらなかった回答を得た、驚きの表情をする。

 私は応えた。椎に。


 漸く、彼女に応えを出せる人間として、在れた。

 私の答えは間違っているかもしれない、だけど、少女が聞くことを辞め、他者に諦めの感情を抱くだけでなく。人と心を通わせることが出来る事を知れたのなら、それはきっと素晴らしい事の筈だ。


「……な、ら。言わなきゃ」

「え?」

 椎は言いながら、顔を上げる。


「だって、だとしたら違うから。あの子達のしている事は、間違ってるから」


 先ほどからずっと、優しく彼女の周りを揺蕩う風に向かって。声を上げる。小さく冷たい音色の言葉。

「か、げさん。聞こえますか、私の言葉聞こえてますか?」

 椎は声を上げる。

 いつも、話しかけてきた影に応える為に。彼女自身の言葉で、応える為に。


「影さんがなんで私の傍にいてくれるのか分かりません。なんで、私の近くにいつもいるのか分かりません。何回も考えたことだけど、やっぱりどうしてもわかりません」

 顔を上げて、彼女は声を発する。対話をしようとする。


「ずっと気付かなかったけど、影さんは私の為に色々してくれてたんですか? 私を虐めてきたクラスメイトのあの子を、怪我させたのも。担任の先生やお婆ちゃんに、なんで嘘ばかり言うんだって怒られた時や、お、かあ、さんに。お母さんに、お前なんて産むんじゃなかったって言われたあの時、影さんがしたこともっ」

 風が吹く。何かを伝えたいのか、彼女が問いかけるたびに応えの風は吹く。


「だとしたら、だとしたらそれは間違ってるんです。私を想っての事だとしても、それは間違いなんです」

 小さく冷たかった声は、大きく熱を帯びていく。少しずつ、少しずつ。耐えて押し込めていた何かを内から噴出させていく。


「たとえ、私が理解されなくても。誰も私に応えてくれなくたって。だからって誰かを傷付けるのは間違ってる。分かり合えなかったとしても、私が永遠に独りだったとしても。誰かにあたりつけてしまう事は間違いなんです」

 椎は声を上げる。

 彼女は、声を上げ続ける。


「だから、もし、私にキツイ事を言う人がいても。そういう人達を傷つけようとするのは、やめてください。 私が皆に比べてちょっと変なのは仕方ない事なんです。それについて言われちゃうのも、仕方ないと思うんです。でも、それに対してこちらから傷付けちゃうのは違うと思うんです。間違っていると、思うんです」


 冷たい彼女の表情は、無愛想な彼女の面相は崩れない。

 氷は氷解せず、内から噴出していく熱は、まだ心を溶かしてはいない。

 だけど、彼女は凍っているからこそ、触れば熱く、想いを滾らせている。


「誰かに理解されなくても、私は歩けます。助けが欲しいと思う事はあるけど、でも、歩けるんです。理解されなくても、傷付けられても、そんな事は別に私だけじゃなくて、皆抱えてる事で。だから、その、うまく言えないけど」

 声を張り上げる。


 小さかった声は大きく、瞳には冷たい炎が揺らめいて。彼女は、もう諦観していない。

「少なくとも、私は今日オジサンに応えて貰えました。誰からも応えて貰えなかった私でも、応えてくれる人が居たんです。影さんがしてくれることは、その可能性すら潰しちゃうんです。私は、これからも、もっと沢山の人と出会えるかもしれないんです。もう、独りでいなくてもいいかもしれないんです!」


 もう、彼女は独りで居る事を望んでいない。

 椎は声を上げる。

 優しい彼女は、自分を独りにすることで、自分を傷付ける様な他者でさえ守ろうとしたんだろう。

 きっと、目の前で誰かが自分を傷付け、誰かが傷ついていく姿を何度も見て。そして、彼女はそれを悲しんだんだろう。


「私は、もう独りを望みません。だから、影さんは、私を一人にさせないでください。もう、誰も傷付けたりしないでくださいっ」

 彼女は自分の望みの為に、誰かが応えてくれることを求める。


「でも、でも、影さん。影さん、私が一人で居る時、いつも話しかけてくれて。私、まだ影さんが何を言ってるのか分からないし、分かる事が出来ないかもしれないけど、それでも!」


 何時の間にか、揺蕩う風は形になって。

 椎と私の前には黒い影が出来ていた。


 形容しがたい、名状しがたい何かが、目の前に存在している。

 不気味で、おどろおどろしくて、嫌悪感や恐怖感を急き立てる。そんな造形。

 

 だけど、何故だか今の私には、椎の言葉に、説教にしょげている、仕様のない子供の様に見える。

 そして、そんな影に。子供に。同じく子供の椎は―――



「それでも、いつも私の傍で、私を想っていてくれたのなら。それは、本当に。本当にありがとう!!」



―――そう言って。泣き笑いの、冷たくて温かい表情を浮かべていた。






 その日の夜。夕飯を作った。

 冷蔵庫にあった食材を適当に調理した、適当な料理を作ろうとした。

 だけど、なんだかそれだけじゃ物足りない気がして、椎と一緒に料理を作ってみた。


 その日の料理は、美味しかった。

 昨日と変わらず、言葉少ない夕食だったけど。だけど、美味しかった。

 お互い、矢張り無口なのと、口下手なのは中々治らなかったが、それでも、美味しい夕食だった。



                        §



 二泊三日。

 当然だが、短い日数は短く過ぎていく。

 椎を迎えにきた、人の良さそうなおっちゃんが乗って来た車には、『みんなのための家』なんていう文字が印字されていた。


 彼女は施設に行く。親戚は誰も引き取れず、誰も引き取らなかった。

「私と一緒に暮らすのも、一つの手だと思うが?」

「オジサンは収入が安定してないから嫌です」

 はっきり言われた。しかもものっそい正しい事を! 正論でぶん殴られた!

 酷い!!


「ま、まあそうだけども。だが、施設で大丈夫なのか?」

「大丈夫です。今なら多分、巧くやっていけると思います」

 冷たい瞳で、氷の目で、彼女は俺と視線を合わせる。そこに浮かんでいる感情は、正直巧く読み取る事は出来なかった。


 たった二日とちょっとの程度で、相手の事を表情だけで分かる様になれるほど、私に対人コミュニケーション能力は存在しない。

 だが、私は知っている。彼女のこの冷たい瞳は、とても温かいものだという事を。

「オジサン。また、此処に来たいです。また、お話したいです。それで、出来ればいつか、これからどうなるか分からないけど一緒に暮らしたいです」


 冷たい瞳で、真っ直ぐに彼女は私の目を見る。

 そんな事、直球で言われると、流石に照れる。愛の告白みたいだ。

「そうか。まぁ、いつでも気軽に来い。あと、これやる。何十回分か位の交通費にはなる筈だ」


 そういって、私は彼女に六万円分の封筒を渡す。

 彼女はそれを受け取って、氷の瞳をまんまるにさせながら驚いた。

 どうやら、彼女は普段は中々にクールな感じだが、感情を発露させるときは素直な様だ。そういう処は可愛らしい。


「こ、こんな大金、良いんですか?」

「構わないよ、それ位。大した金でもない」

「いや、オジサンの生活状況を見てると、凄い大金の部類に入ると思いますけど」

「なんか昨日から凄いはっきりものを言うようになったな君。キャラ変わりすぎだろう」


 そんなやり取りをしつつ、それでも彼女は嬉しそうにその封筒を持っていた鞄に仕舞った。

「折角なので、貰っていきます。また、絶対に来たいですから」

「ん、待っているよ」

「はい!」


 少女は迎えのおっちゃんに元気よく挨拶をし、車に乗り込み去っていった。

 おっちゃんは、それじゃあと私に挨拶し、車は発進される。

 発進した車から、少女は助手席の窓から身を乗り出して、大きく大きく手を振りつつ、笑顔で大声で何事かを叫んでいた。


 残念ながら、距離があき過ぎて少女が何を言っているのか分からない。

 分からなかったから、今度また会う時に、何を叫んでいたのか聞く事にしよう。

 そんな事を想いながら少女を見送る私の背中を、冷たい風が優しく撫でる感触がある。


 その感触は、車が見えなくなってもいつまでも残り続けた。

 冷たくて、だけど、とても温かい感触が。

 いつまでも―――。



                        §



 泣く事の多い少女だった。

 寂しい子だと、そう思った。


 だって、一人だったから。ずっと、独りだったから。

 少女は泣いているのに、誰も傍に居なかったから。

 「 」は泣いたことはないけれど、だけれども、「 」にだってわかる。


 そういう時、人間は一人で居てはいけないのだ。それは、どうしてもいけない事なのだ。

 とてもとても、いけない事なのだ。

 だから、傍に居てあげたかった。


 「 」くらいは、泣き顔の傍で。

 彼女を守ってやらないと、そうしてあげないと。

 そんな事を、思っていた。


 だけど、彼女は一人じゃなくなったみたいだった。

 少女は、あの日、ご飯を食べながら笑っていた。

 一人の男と笑っていた。


 男の方は、なんだかちょっと危なそうな奴だったけど、でも優しそうだった。

 だから、もう大丈夫だと思った。

 あの男がいれば、少女は一人じゃなくなるんだと思った。

 「 」だけじゃなくなったんだと、その事が分かった。彼女に、教えてもらった。

 

 だから、いつか「 」が本当に必要無くなるその時まで。

 そんな日がくるまで、「 」は傍に居続けよう。


 椎。

 もう、寂しくないかい?


 もう、辛い事はないかい?


 もう、泣くことはないかい?


 寂しくても、辛くても、泣くことがあってもいい。

 だけど、独りで居るのはだめだ。独りに納得してしまうのは駄目なんだ。

 何があっても、一人でだけは居ないで。

 


 だから、椎。

 「 」は、君の傍で。

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