半人魚
その日の授業は午前のみで、オズワルドはうららかな昼下がり、帰る前に散歩でもしようかな、などと考えていた。
相変わらず足の踏み場もないオズワルドの仕事部屋は、見かねた彼の教え子たちの手によって多少は見れるようになっていた。しかし、それでも片付け下手のプロには敵わず、再び侵食されていくのだが。
「なあ、オズワルド。お前、幼女趣味だったっけ?」
「は?」
ひっきりなしにやってくる子供たちが、宿題とともに『先生、片付け!』と口々に言いつつ出て行きやっと途切れた頃、ひょっこりとドアから覗いたのは壮年の男だった。
いい加減なように見えて、計算され尽くしてセットされた髪はどこにでもいるような黒。幾筋か垂らされたそれの合間から覗く眠そうな目は特徴のないこげ茶色だ。唇をニッと上げて笑うと彼のこけた頬にえくぼができるが、それ以外はいたって普通の風貌だ。
男はこの世界には珍しく、『何も』ないただの人間だった。
「だから、お前が幼女趣味かどうか聞いてんの」
「ジェッド。君が何を言ってるんだかさっぱりなんだけど」
そして若干頭がおかしいこの男は、オズワルドの一応の上司でありこの魔法学校の創立者である。
「冗談はさておき、いるだろう、面倒見ている女の子が一人」
「…………」
なぜ知っているのか、とはオズワルドは聞かなかった。
ただの人間であるはずのジェッドは、しかし、千里眼でも持っているのかと疑いたくなるほど、なんでもお見通しなのだ。
だからオズワルドはひとつため息をついて、肩を竦めるだけに留めた。
「入れないのか?」
「ここに? まさか」
「なんで?」
「別にいいでしょ」
「ふうん」
まともに取り合っても疲れるだけ、というのはすでに学習済みだった。ジェッドとの付き合いもかれこれ長い。
「ところで、お父さん」
「やめてよ。彼女とはそういうんじゃ──」
「お前の教え子の半人魚君が宿題放って飛んで帰ったけど、あれ、いいの?」
オズワルドの散歩計画は直帰に変換された。
♯
玄関のすぐ横に、小さな赤い花が植えられていた。ささやくような笑い声と、艶めく光の粒子を風に乗せる愛らしいそれらは、オズワルド曰く魔力を持つ花なのだという。
珍しがったアリシアに、笑って花の世話を任せてくれた彼は、戸惑う彼女に一から丁寧にやり方を教えてくれた。
普通の花とは違い、決まった時間に魔力の込められた魔法水を注いでやらなければいけないため、その日もアリシアは如雨露を手に外でしゃがんでいた。
水をやるとまるで喜んでいるかのように花を揺らす様はとても可愛らしく目に映った。
一通り水をかけ終わって家に戻ろうと立ち上がった。その前にふとなんの気なしに視線を巡らせ玄関口へと続く門の方へと目をやり──見つけてしまった。
「ぁ……っ」
思わず声を上げたアリシアに、門にもたれかかるようにして立っていた少年が目線をよこした。
「終わった?」
ニッと笑いかけてきた少年を、その派手な銀髪を、アリシアは覚えていた。
(確か、そう。ハルって言ってた)
オズの言葉を思い出した。
そのハルはどこか緊張した面持ちで、一歩、足を踏み出してきた。
「あ、あ、あの、……ッ!!」
何か言わなければいけない。そんなアリシアのよくわからない使命感から、空になった如雨露を握りしめて精一杯口を開いたところで、すでにハルは歩幅五歩分の距離を越えようとしていて。
「っ!!」
「お……っと。この辺?」
「…………え?」
びくりと反応したアリシアを見て、ハルは足を止めた。ずり、と一歩、後ろへ下がる。
わけがわからずきょとんとしていると、ハルは人懐こい笑みを浮かべた。白い歯が光って、とても印象的な笑顔だった。
「この辺までなら、近づいても平気?」
言い直されたその言葉で、ようやくハルの意図が読めた。
一転、彼ははすまなそうに眉を下げると、アリシアを遠慮がちに見つめた。
「謝りに来たんだ」
「え?」
「おれ、知らなくて。そうじゃなくても女の子に勝手に触るなんて駄目だって母さんにも怒られた。腕、急に掴んで悪かった。ごめんなさい」
同時にがばっと頭を下げられ、アリシアは慌てて首を振った。
だが、下げ続けているハルには当然見えていなくて、声をかけようと口を開け、言葉が出ずにぱくぱくと開閉させていた。
「……そっ、そ、そん、な、あの……、あっ、頭……」
ぐだぐだなアリシアに、ハルがひょいっと少しだけ顔を上げた。
キラキラ光る碧眼がまっすぐにアリシアを捉えている。そのことに、アリシアはさらにどぎまぎして顔を赤くさせた。
「あ……の、わ、私が、私がいけなくて、その、あ、あなたはぜっ、全然悪くないから、あの」
「じゃあ、おたがいさまってことで仲直りしよう!」
「え?」
「んで、友達になろう!」
「と、とと友達!?」
友達、と呼べる存在など、アリシアにはいなかった。学校に行ったことのなかったアリシアには、母親が魔女ということもあって、同い年の子供どころか、近所の誰も寄ってこなかったのだ。
「うん。まぁ別に無理にとは言わないけど、仲直りはしようぜ! はいっ」
元気よく差し出されたのはハルの手──ではなく、突如アリシアの背後から現れた水の塊だった。
「え」
戸惑うアリシアの目の前でそれは手を形どり、空中でまるで握手を催促するようにゆらゆらと揺れていた。
「おれの父さん、人魚なんだ。だからおれにとって水は簡単に操れる、まあ、体の一部みたいなもんなんだ。これなら、おれに触らなくても握手できるだろ! ……それとも、これもダメ?」
慌てて首を横に振って、それからおずおずと自身の手を差し出した。同時にキュッと握られて、ハルの手もまた同じように空間を空けて握られていた。まるで、その中にアリシアの手があるかのように。
水の手は冷たいのかと思っていたが、そうでもなく、むしろどこか温かかった。ハルの『体の一部』と言った意味がなんとなくわかった気がした。
「へへ。ありがとう!」
先ほどまでの遠慮がちな態度が弾けるような笑みに、アリシアもまた笑ってしまった。
すると、ハルが驚いたように目を見開く。
キョトンとしたアリシアの手元で、パシャンと水が弾けた。宙に浮いていたそれは当然のようにそのまま下に落ちて、アリシアのつま先を少し濡らしてしまった。
「ああ! わあ、ごめん!」
なぜハルが謝るのか理解できず、近づこうにもその一歩手前で思いとどまる少年に、アリシアの方が申し訳なくなってくる。
「あの、」
「嬢、どうし──って! ハル! またあんたかい!?」
騒ぎを聞きつけて家から出てきたトトルが、二人の姿を認めてさっとアリシアの前に躍り出た。
「あ、トトル! 違うの、そうじゃなくて」
「授業、あんまり抜け出してると、主だって黙ってないよ!?」
「違うってー! 今日はちゃんと授業受けてから来たんだよ!」
「嬢をイジメに!?」
「違うって言ってんだろ! このひとつ目引きこもり使い魔!」
「はあ〜〜!? 好きで引きこもってると思うのかィ、このガキが!」
ぎゃいぎゃいと騒ぎが大きくなっていくのを、アリシアには止めるすべがなかった。
困り果ててウロウロとする中、しばらくして気配を感じたオズワルドが魔法で転移して来た時には、アリシアは涙を零す一歩手前だった。