荷物
アリシアは母を愛している。
母が暴力をふるっても、新しい恋人としか時間を過ごさなくなっても、食事を忘れられても、それが人々の言う『ぎゃくたい』などではないと思っていた。
ただ、本当は知っていた。
母が自分を嫌っていると。
それでも、アリシアにとって母は母だった。
愛していたし、たまに作ってくれるスープはこの世で一番おいしい食べ物だった。
「っ」
息も、できずに玄関先に立ち尽くしていた。
目の前に置かれたひとつの小さな箱。
隙間から見えた青いハンカチは見覚えがあった。それは、母がアリシアの八歳の誕生日に刺繍をしてくれたもの。
あのときの母は優しかった。母が変わってしまったのは「あの男」が来てから──。
『君が、アリシアちゃんかい?』
『かわいいね、お母さんに似ていない』
『こっちへおいで』
ぞくり、と背筋が震えた。
ぱっと自身を抱きしめ、早まる鼓動を鎮めるように腕をこすった。煙草の臭い。太い指。真っ黒な髪に、ねっとりとした声。
「違う、違う。今はそんなことを思い出してる場合じゃないでしょう」
そう、言い聞かせた。
言い聞かせなければ意識を逸らすことは不可能に思えた。
この箱が、この箱に詰まっているものが自分の荷物であるということは、アリシアにとってはそんな恐怖にも勝る絶望であったが。
震える手で箱の蓋を開ける。
「……ぁ、」
思わず漏れた息は、冷たい部屋に溶けて消えた。
アリシアの細腕でも十分抱えることのできる程の小さな容れ物。それでもまだなにかを入れるだけのスペースが残されている。
アリシアの元々持っていた荷物などそんな程度。これが全て。母の元にはもう、アリシアの物と呼べるものはなにも残されていないだろう。
「アリシア、今帰ったよ」
コツン、とドアを叩く音がした。オズワルドだ。
アリシアが住みはじめて最初にオズワルドが決めてくれたこと。帰ってくるときはドアをノックをする、というもの。
彼の家だというのに、『オトコ』を異常に怖がるアリシアのため、オズワルドが示してくれた気遣いだった。とても優しい人だ。だから、同時に申し訳なさでいっぱいになる。
「アリシア?」
自分が返事をしなければ、オズワルドは冷たい風にさらされ続けることになる。
早く、早くと思うのに、唇から漏れるのは吐息ばかりで言葉はひとつも出てくれない。釘付けにされたかのように箱を見つめるだけで、指一本動かせない。
「……アリシア。ごめんね、入るよ」
早口とともに、バタンとドアが開けられた。
いつもは足音も立てずに静かに歩くオズワルドが、今日は少し荒々しく近づいてきた。
「アリシア、大丈夫!?」
「オ、ズ」
そうして顔色悪く呆然としているアリシアの姿を見つけ、オズワルドはひとまず怪我はなさそうだと息をつく。
持っていた黒革の鞄をテーブルに置き、彼女から五歩程離れた場所に膝をつく。
それが、アリシアとオズワルドの距離だった。
「 一体、どうしたの?」
「……」
「アリシア?」
いつもの彼の柔らかな声。
それを聞いた瞬間、アリシアは視界がゆるりと歪んだことに気づき、慌てて服の袖で拭った。
「おっ、おかあさん、から……、私の荷物が届いたの」
「荷物?」
つい、とアリシアと同じ鳶色の目が箱に向けられた。
「これ?」
思わず、といった風だった。
当然といえば当然だ。荷物というにはあまりにも小さすぎる。だが、アリシアはこくりと頷いた。
「お母さんは、」
ぎゅっと、両手を握りしめた。そうしていないと、また泣き出してしまいそうで、爪が食い込むほどの力を込めた。
「いつも、迎えに来てくれてたの」
何度か追い出されたことはあっても、最後には必ず母は家に入れてくれた。けれど、これではもう、完全に忘れ去られてしまうかもしれない。
そう思うと、怖くて、悲しくて、どうにかなってしまいそうだった。
「ねえ、オズ」
目は、見れなかった。
「私、棄てられちゃった……?」
シン、と落ちた沈黙は重くアリシアにのしかかる。
言葉にすることでぐちゃぐちゃだった心がストンと纏まった。
棄てられた。
そのひとことで。
こんな風に現実を突きつけられると、もうどうしようもなかった。ぼんやりと箱を見つめることしかできない。
「アリシア」
名前を呼ばれることは少なかった。けれどそれでもその柔らかでぴんと張った母の声をはっきりと覚えていた。ただ、それはアリシアだけで、母にとってはほんの些細なことだったのだ。
「僕はね、アリシア。正直困っていたんだ。君を急に連れてきた妹に。自分すら満足に世話できないのに他人の、ましてや小さな女の子の世話なんて見切れない……ってね」
ずきり、と穿たれた言葉は、そのまま心にとどまって傷口を広げていく様だった。ついに、我慢しきれなかった感情が決壊する。その一歩手前で。
「でも、それでも、こんなだらしない男のもとでいいなら、いつまでだって君の新しい帰る場所にしてくれていいよ。君のお母さんが迎えに来るまで、ずっとね」
柔らかな声だった。
ああ、兄妹なのだと、今更ながら納得した。
そおっと顔をあげたアリシアに、オズワルドは小さく微笑みかける。
「身の回りのことはトトルがやってくれるだろうし、僕ができることなんて、せいぜい料理をすることぐらいなんだけどね」
一体、どう不満など言えるだろうか。アリシアは慌てて首を振ってまごつきながらも一生懸命に口を開いた。
「オズは、オズは、こんな私のことを受け入れてくれて、美味しいご飯を用意してくれて、とっても優しい人。私なんかに気を使ってくれる」
「ありがとう。でもね、私『なんか』っていう言葉は、感心しないなぁ。君を大切に思ってる人が傷つくだろう?」
どこまでも嘘のない目は、アリシアに反論の意思を持たせない。代わりに、震える声で希望を紡がせる。
「…………いつか、お迎えに来てくれると思う?」
「もちろん。なんていったって、君のお母さんだ」
きっと、オズワルドが言ったからだろう。不思議と、その言葉に安心した。
アリシアは一度瞼を閉じて、溜まりきった雫を頬に流した。そうして、またゆっくりと瞳を開けると、優しい眼差しに出会った。
「お腹、空いてない?」
「……少し」
「わかった」
待っていてね。
そう、優しさのみでアリシアを包み込んだ男は、着替えるべくトトルを呼んだ。