好物
オズワルドが帰ってきたのは、空が濃紫色に染まり始めた頃だった。
「おかえんなさい」
トトルの言葉にはっと顔を上げると、玄関の方でドアを開ける音がした。
「主、帰ってきたよ」
こくり、とアリシアが頷くのと、ふたりがいるダイニングのドアが開くのは同時だった。
「おや、玄関にいないと思ったら」
アリシアの隣に座るトトルを目に留めて、オズワルドはほんの少し目を細めた。
「ずっと嬢と一緒だったんさぁ」
「そう」
トトルは立ち上がると、慣れた手つきでオズワルドの上着と鞄を引き取ると、彼が脱いだ帽子を受け取って、さぁっと出て行ってしまった。
「遅くなってすまないね、すぐに夕食を作るから」
アリシアは昨日座ったソファに腰掛けていた。そこを避けるように遠回りをして冷たい暖炉の前に膝をつき、オズワルドは片手をかざした。大きな手の下からすぐに赤い炎が上がる。
少し肌寒くなってきていた部屋が、すぐに暖まる。
火は、この家では主しか使えないのだと、少し前にトトルが申し訳なさそうに言った。代わりにと厚手のストールをぐるぐる巻いてくれていたから、むしろちょっと暑いぐらいだった。
「今日は、ハルがすまなかったね」
ダイニングから出て行く前に、振り返ったオズワルドがそういえばと謝罪してきた。
ハル、と言われすぐに浮かばなかった。
そうして、昼間現れた少年が、確かトトルにそう呼ばれていたなと思い至ったところで、オズワルドが苦笑を漏らした。
「びっくりしただろう。彼、いつも本当に元気で嵐のようだから。悪い子ではないんだけれど……。なにか、失礼なことはしなかった?」
穏やかに、申し訳なさそうに問いかけられ、慌てて首を横に振った。
驚いたのはそうだけれど、失礼なことなどされていなかった。むしろ……。
「あの、オズ」
「うん?」
「あの、ね。その……、は、話さないといけないことが、あって」
どくどくと心臓が鳴って、じんわりと冷や汗が滲んでくる。
何から話せばいいのか、言葉が見つからない。そんなアリシアを見かねたのか、オズワルドはふと立ち上がった。
「そうだね。じゃあ、ゆっくり考えておいで。僕は夕飯を作ってきてしまうから、ご飯のときに話そうか」
言葉をすぐに出せないことが少し情けなくて下唇を噛み締めた。
「あ、そうだ」
不意に、オズワルドはドアに手をかけた状態で振り返った。にこりと笑う。
「なにか、食べたいものはある?」
♯
目の前に置かれた木の椀から、柔らかな匂いが立ち上っている。白くトロリとしたスープから大きく切られた野菜や芋が見え隠れしていた。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます……」
そっと口に含めば、優しいミルクの味わいが広がる。
シチューは、アリシアが唯一好きなものだった。おずおずと打ち明けた彼女に、鷹揚に頷いたオズワルドは必要な食材を手にキッチンへ入ると、ものの数分で作ってきてしまった。
「おいしい」
「それはよかった。煮込む時間が面倒で、魔法を使ってしまったからね。……うん。確かに、魔法を使っても使わなくても、味に違いはなさそうだ」
同じくひと口食べて「新しい発見だな」と頷いたオズワルドは、クルミのパンと白パンがそれぞれ入った籠をテーブルの真ん中においた。
その手で今度は自分のグラスにはワインを、アリシアにはオレンジジュースを注ぐ。
「……トトルは、食べないの?」
ふと思い返せば、トトルが食事をしているのを見ていない。今日の昼も、アリシアが食べているのを見ているだけだった。
「使い魔だからね」
そういうものかと、アリシアは再び視線を落とした。
しばらく沈黙が落ちた。
アリシアが話したいことがあると言ったのだから、それを待ってくれているのだろうけれど、なかなか声に出すことができなかった。
オズワルドが知っている少年に怪我をさせてしまったかもしれない。
自分が悪いことは十分にわかっているけれど、怖くて口に出せない。
「ハルは、なにか言っていたりした?」
そんなアリシアを見かねてか、オズワルドが最初に言葉を投げかけてくれた。
「……先生」
「え?」
「そう、呼んでいたの」
誰が、と言う前にオズワルドはあぁ、と笑った。
「ハルだね。そう、僕は教師だから」
「教師?」
今度はアリシアが驚く番だった。
「お医者様じゃないの?」
確かに、アリシアの怪我を治していたし、母もオズワルドのことを『医者なんだから』と言っていたはずだ。
けれども、オズワルドはあっさりと否定した。
「少し医療魔法が使えるからね。そう言われることもあるけど、ちょっとした怪我を治したりできるだけで、重い病気や怪我なんかは手に負えない」
それを聞いて、なんだか安心したような少し残念なような気がした。それなら、治してもらえるわけじゃないのかもしれない、と。
「本当の仕事は、子供たちに魔法を教えることなんだ」
「魔法を?」
「そう。ハルは僕の生徒なんだけど、よくああやってサボっているんだ。今日はなぜか僕の家に転移してきたみたいでね。何がしたかったんだか……」
ごめんね、と言われ、アリシアは手にしていたスプーンを置いた。
「あのね」
「うん」
頷いてくれたのを確認して、アリシアはそっと息を吸った。
「私、ハルに酷いことしちゃったの」
口にすれば、すっと胸が軽くなった気がした。
きっかけを口にすれば、あとはどうってことはない。
「怪我をさせちゃったの。すごく、私の腕が熱かったの。赤くなって。ハル、熱いって言ってたの。だから、もしかしたら、火傷をしちゃったかもしれない」
「腕が?」
けれど、オズワルドは違うところで眉をしかめた。話を続けようとしていたアリシアは、彼の難しい顔に不安げに口を閉じた。
「オズ?」
「ん? あぁ、いやごめんね。なんでもないよ」
ぱっといつもの柔らかな笑顔を向けられた。だから、不思議に思いつつもアリシアはそれ以上追求はしなかった。
「今日、あのあと教室に戻ってきたけれど、元気そうだったよ」
「でも……」
「ハルはね、人魚の子なんだ」
「人魚?」
人魚というものをアリシアは見たことがなかったが、知識だけはあった。アリシアの家には魔法に関する本がたくさん置いてあって、それらをよく読んでいた。そして、その中で人魚についての本も読んだことがあったのだ。
それによれば、人魚というのは体の半分が魚で半分が人間の姿をしているという。だけれど、あのハルという少年にはどこにも魚の要素はなかったように思えた。
「正確に言えば、魔女と人魚のハーフだけど」
本は間違っていたのだろうか、と内心首を傾げたアリシアを見透かすように、オズワルドはほんのりと微笑んだ。
「人魚は魔法を使うことはないんだけど、ハルはお母さんの影響を強く受けて産まれたみたいだね。僕たちと同じ姿で、そのおかげか魔法もとても上手に扱っている。まぁ、それで。人魚というのはどこに住んでいるか、知っているかい?」
「海?」
「あたり。よく知ってるね」
褒められて、アリシアはほんのりと頬を染めた。
「人魚は水の中でしか生活できない。けれど、半人魚の彼は僕たちと同じような生活ができて、人魚のように水をまとうこともできる。つまり、火傷とは縁遠いのさ」
なんともないのだと、怪我をさせてはいないのだと、わかったアリシアはほっと息をついた。
それでも、彼女はまだスプーンを取ろうとしなかった。だから優しい声で、オズワルドが再び尋ねてやれば、迷うように瞳を揺らしてから、そっと膝の上から何かを取り出した。
「それは……、手紙?」
「うん」
「アリシアが書いたの?」
「うん。あの、ハルに、わたして欲しくて。ご、ごめんなさいって、書いたの」
震える指先で差し出されたそれは、綺麗なすかしが入った封筒だった。トトルに同じように事情を話したときに、どこからかもってきてくれたレターセットのものだ。
「直接会って、またあの子に嫌な思いさせちゃったら、ダメだから」
「……いいよ、わかった。間違いなくわたしてあげるからね」
それにやっと安心したように、アリシアはシチューを食べはじめた。その様子を、オズワルドはどことなく浮かない顔で眺めていた。