使い魔
アリシアが目を覚ますと、そこは見知らぬベッドだった。
ぼんやりとした意識の中、あれ、と疑問が浮かぶ。
(どうして……。……あ。そうか、私お母さんに連れてこられて──)
だんだんと思考がクリアになってくる。そうして、思い出された母の冷たい言葉に、アリシアは重苦しい息を飲み込んで寝返りを打つ。
そうして、こちらを覗き込んできた人影にギクリと体を強張らせた。
「ッ!? きゃ──」
「わー!! ま、待って待って!」
そうして、悲鳴をあげる寸前で大きな手に遮られた。
「驚かせてごめんよ! でも、アタイはアヤシイものじゃあないんだ」
慌てて弁解する、その人物が傍にいたことも驚いたが、それ以上にアリシアはそれの見た目に固まっていた。
人型を取っているその生き物は、アメジスト色の大きな目を持っている。ただし、たったのひとつだけで顔の真ん中でくるくるとよく動いている。
それだけでも目をみはるのに、漆黒の長髪のてっぺんにある狼のような耳や口から覗く牙、そして、アリシアの口を抑える、柔らかな毛に覆われた動物そのものの手。
「んん〜〜っ」
「あっ、ごめんよ!」
やっと離してもらえて、アリシアは思わず息を吸い込んで咳き込んでしまった。
まふまふと温かく毛むくじゃらな手に鼻下まで覆われていて、呼吸が満足にできなかったのだ。
「苦しかったよな! だ、大丈夫か……?」
わたわたと焦る、その顔があまりにも青ざめていたから、アリシアは慌てて息を整えて大きく首を縦に振った。それに、彼女はひとつ目を明らかに安心したように細めた。
「えっと、」
「アタイはトトル。主──オズワルド様の使い魔さ。この家の守護を任されてんだ。嬢も見たろぃ? 玄関にあったひとつ目を。見たはずさ。だって目が合ったもの。あれはアタイの──」
「トトル! 玄関にいないけど、どこにいるんだい?」
ぽかんとするアリシアを置いて、トトルの口からは流れるように言葉が出てきて止まらない。それをふいに遮ったのは、部屋の外から聞こえた大声だった。
聞こえた瞬間、アリシアはびくりと肩を震わせた。
「しまったな、主に見つかっ……、嬢?」
ドアの方を振り返ろうとしたトトルは、アリシアの様子の変化に動きを止め不思議そうな声を上げた。
「今は動き回らないでと言っておいたはずだよ、トトル」
トトルを探している声と共に、どこかのドアを開ける音もする。
アリシアは深く呼吸することで体の無意識的な震えを抑えようとしたが、なかなか上手くいかない。
ベッドの上で両腕を抱きカタカタと震えているアリシアを見下ろして、トトルは考え込むように口を閉じて、それからぱっと身を翻した。
「主!」
思い切りドアを開け放つと、トトルは元気よく外に呼びかけた。
「トトル、君、やっぱりアリシアのところにいたのか」
「ごめんよ。どうしても気になっちゃったんだ。もう戻るから……、あ、嬢の朝食かい? それならアタイが嬢に運ぶよ、任せてよ」
「嬢? ……あぁ、そっか。うん、じゃあ頼もうか」
アリシアはベッドの上から動けぬまま、息を殺してふたりの会話を聞いていた。震えはだんだんと治まってきていた。
柔らかな声は誰か知らない『オトコ』のものではなくて、昨日優しくして傷を治してくれたオズワルドのもの。
(大丈夫)
小さく深呼吸をした。
「アリシア」
「っ! は、はい!」
先ほどまでは遠くで聞こえていたオズワルドの声が、いつのまにか部屋のドアの前からして、突然のことにびくり、と肩を跳ねさせてしまった。裏返ってしまった返事にひとりでかぁっと赤くなる。
「朝食と一緒に着替えもトトルに運ばせるね。準備が終わって、もしも気が向いたらダイニングへおいで」
オズワルドは部屋には入らずにそれだけ言いおくと、静かな足音は遠ざかっていった。
しん、と音が消える。会話から、トトルも共にキッチンへ行ったのだろう。
(……朝)
ドアと反対側へ目を向ければ、明るい光が白いカーテンの隙間からこぼれ落ちていた。
アリシアには少し大きいベッドから滑り降りると、白木の床の上を素足でペタペタと歩き窓に近づいた。そうしてカーテンを引いて、目の前に広がった景色にアリシアは目を大きく見開いた。
窓の外は見える範囲には建物がひとつもなく、ただ数本の木々が家を囲むようにして立ち並んでいた。それらはアリシアが今まで見たどの木とも違っていて、薄桃色や空色の葉に複雑にうねる幹をもっていた。
その下では、色とりどりの花が一面に咲き乱れ、風に吹かれるとキラキラと輝く銀色の粉を辺りに散らせている。
朝日の中の、その幻想的な様子にアリシアはしばらく言葉を失って見入っていた。
「きれい……」
ぽかんと、思わず感嘆の声を漏らした。
見たことがないのは魔法関係のものだろうか。母が扱うのはせいぜい杖と魔法陣ぐらいで、薬草らしいものを使っているのは見たことがなかった。医者と、魔女の違いなのか。
花畑の真ん中を、貫くようにしてある道は小さな橋につながっていて、細長い川が穏やかに流れていた。
橋の向こうには何があるのだろう、と好奇心を覗かせて窓枠から身を乗り出すようにしたとき。
「おまたせを〜」
「っ!?」
ぱっと振り返れば、トトルがトレーを手に部屋へ入ってくるところだった。
「外が気になるかぃ? あとで行ってみる?」
「え……、外、出てもいいの?」
「? モチロンさ」
トトルは不思議そうに小首を傾げると、壁際にある丸テーブルに朝食の乗ったトレーを置いた。
温かなスープなのだろう。器から白い湯気が立っている。
その途端、アリシアのところにまでいい匂いが漂ってきて、不意に空腹感が襲ってきた。ぐう、と腹が鳴って、ぱっと両手で押さえた。
「お食べよ。腹が空いて当然さね、朝だもの。恥ずかしがるこたぁない」
ケラケラ笑って椅子を引いてくれたトトルに、赤くなりながらもアリシアは素直に従った。
トレーにあったのは、白い皿が三つ。透き通った飴色のスープに、柔らかそうな白パンにはこんがりと焼き目が付いている。同じ皿にはオムレツと、もうひとつの皿にカットっsれたフルーツが数種類盛られている。
「……おいしそう」
「これ、パンの蜂蜜とジャム。今日のジャムは今朝、アタイが摘んだラズベリーさ」
「トトルが、作ったの?」
「いんや。食事はぜんぶ、主が作ってる。アタイは家を守ってほんのすこぅし手伝うだけ」
もう一度、トトルに勧められて、アリシアはそっとスプーンを手に取った。そうして、スープをひとくち口に含む。瞬間、程よい塩分と玉ねぎの甘さが広がって思わず頬を緩めた。
「うまいかい?」
コクコク頷くアリシアに、様子を見守っていたトトルは満足そうに笑った。
ほんのり温かいパンを手に取り、ラズベリージャムを少し塗ってかぶりつく。甘酸っぱさに幸せな気分になった。
こんなにちゃんとした食事をしたのは久しぶりのことだった。朝食を摂ったのも。
「主に」
見上げれば、トトルはにこにこしながら食事をするアリシアを見ていた。
「外に出ることを伝えてくるよ。主が家を出る前に」
そこで、先ほどオズワルドの言葉を思い出した。
(気が向いたら、ダイニングに──)
きっと、トトルもオズワルドもアリシアの怯えに感づいていた。だから、ふたりとも気を遣ってくれているのだと、アリシアにもわかっていた。
口にあったパンを飲み込むと、手の中のも皿に戻した。
「あの、わ、私も、オズに……」
立ち上がろうとして、驚いた表情のトトルに止められた。
「わかった、一緒に行こうか。でも、主も食事をしてて、まだ出かけないからゆっくり食べて着替えてからでも、十分に間に合うさ」
ね?と再び座らされて、ほんの少しほっとして息を吐いた。
それで、アリシアは自分が緊張していたことに気づいた。
(こんなんじゃ、駄目だ。これから、住まわせてもらうんだから)
スープに映る、不安そうな自分の顔をかき消すように、トプンとスプーンを沈めた。