魔法
「靴はそのままでいいからね。さあおいで」
そう迎え入れられた家の内装に、アリシアはぽかんとしていた。
玄関から伸びる廊下は薄暗く、その壁中に不思議な模様が刺繍されたタペストリーが飾られている。何気なく天井を見上げれば、宝石でできたひとつだけの目玉と目が合った。
「ッ!?」
「おや、ごめんよ。この目もタペストリーも全部、防犯のまじないさ。なにも怖いことはないから安心して」
アリシアの引きつった息にヘラっと笑ったオズワルドワルドは、少し進むと青い木のドアを開け入っていく。
大きな背中が見えなくなって、アリシアはしばらくその場から動けずにいたが、やがておずおずとその後を追っていった。
「待っててね。すぐに部屋を暖めるから」
そこは居間のようだった。低いローテーブルと柔らかそうなソファが置かれていて、床には分厚い絨毯が敷かれている。
オズワルドは向かいにある煉瓦造りの暖炉に近づくと、大きな手をかざして何事かを呟いた。すると、バチリと音がして次の瞬間には真っ赤な火が燃え上がりはじめた。
「……オズも、魔法が使えるんだ」
「おや、魔法を知ってるのかい? ……あ、まぁそれはそうか」
驚いた顔をすぐに一転させ、オズワルドワルドは合点がいったようにひとりごち穏やかに微笑んだ。
「お母さんが魔女だものね」
そう、母は魔法が好きな魔女だった。魔女だから当たり前なのかもしれないが、それにしたってなんでもかんでも魔法を使う人だった。彼女が魔法を使わずに何かをやっているところをあまり見たことがないくらいには。
日常的に見慣れていた魔法は、だからどんな不可能も可能にする特別な力だ、とアリシアは思っていた。
(特別だから、兄妹では使えても母娘では無理なんだ)
なにもかもが備わらない娘だった。
見た目も力も、なにひとつ母とは似ても似つかない。
どうして自分はこうなのだろう。母を失望させることしかできないのだ。
「さぁ、そこのソファに座っていて。ちょっと早いが夕食の準備をしよう。……と、その前に」
言われるがままにソファへと腰を下ろしたアリシアの前にオズワルドは膝をついた。
「触ったりしないから、少しだけ我慢していてくれるかい?」
ビクつくアリシアに、オズワルドはほんの少し申し訳なさそうに眉を下げた。
そうして、彼女の膝に触れる手前で掌をかざす。その膝小僧には赤い血が滲んでいて、アリシアはほんの少し目を丸くした。
地面に這いつくばったときか、いつの間にか怪我をしていたことに気がつかなかった。
「汚れを綺麗にして……、傷も……」
言葉の間に紡がれた理解できない音は、おそらく魔法を使うための呪文だろう。オズワルドがそれを口にするたびに、手から薄紫色の光が放たれ、膝の傷もすっかり消えてしまっていた。
「これでよし」
満足げにひとつ頷くと、オズワルドはよいしょと立ち上がった。
「じゃあここで待っていて」
「は、あ、えと」
「ああ、何か食べられないものはある?」
パクパクと口を動かし、結局黙って首を横に振った。
そんなアリシアを笑顔で見届けてから、オズワルドは居間から出ていった。
開けたままのドアの向こうから、どこかのドアを開ける音がした。夕食の準備と言うからには、キッチンへと続くものだろうか。
微かにくぐもった水の音がしはじめて、アリシアはそこでやっとほっと息を吐きながら背もたれに身を預けた。
「…………おかぁ、」
すんででカチ、と歯と歯を合わせた。呼んだから、なんだと言うのだろう。
真っ直ぐに視線を投げれば、パチパチと爆ぜる暖炉が目に入る。ドアが開いているにも関わらず、すでに部屋が暖まっているのは魔法で作られた炎だからだろうか。
手を伸ばして、つるつるの自分の膝を撫でた。
「お医者様、なんだ」
魔法使いのお医者様。
穏やかなブラウンの目はなにも問いかけてこない。アリシアを包み込むようにして、笑顔で見つめてくる。
だからだろうか。緊張はするものの、他の『オトコ』を前にしているほどの拒否反応は出なかった。
「私のおかしなところも、きっとわかってるんだ」
今、こんな事態になってしまっているすべての原因。
これを治せば、また母は迎えに来てくれるだろうか。
「……そうしたら、また『あの人』と暮らすんだ」
ぶるり、と身体が震えた。
思わず両手で自身を抱き込む。顔に吹き込む熱源を視界から追い出し、瞼をきつくきつく閉じた。
「だめ、だめ。怖がらないで。帰してもらえなく、なるでしょう。だめ……、大丈夫、大丈夫……──」
小さく小さくつぶやかれた言葉とともに、アリシアの身体もだんだんとソファに沈む。そうして、最後は糸が切れたかのように眠りに落ちてしまった。
♯
そんなアリシアの様子を、オズワルドは廊下からそっと伺っていた。
手元には紅茶とビスケットが乗せられたトレーがあった。食事ができるまでと、持ってきたのだった。
「ハァ……」
納得と呆れのため息。
妹とオズワルドはもうずいぶん長いこと顔を合わせていなかった。たまに妹からの手紙が来るくらいで、オズワルドは彼女の家もどこにあるのか知らない。
そんな関係ではあったけれど、今でも妹にとってオズワルドは頼るべき兄であったらしい。
どうして突然、という疑問にアリシアの独り言からなんとなくの答えを得られた気がした。
一度頭を振ってから、オズワルドは部屋に足を踏み入れて、ソファに座るアリシアに指を向けた。人差し指を横にスライドさせれば、彼女はクッションの上に柔らかく横たわった。
「まったく。あの子はいつまでも子供のままだ」
本当に久方ぶりに顔を見た妹を思い出す。
元々、気が強い性格であることはわかってはいたけれど、今までにない、とんでもない我儘を言って、こっちの事情も聞かずに帰っていってしまった。
(どうしようもなくなって、それで僕を思い出したのだろうけど)
きっと、アリシアは見えていなかっただろうが、彼女の母親は去る一瞬前に下唇を噛み締めていた。
オズワルドは、手にしたトレーをローテーブルに置き、ソファに掛かっていた厚手のストールを手に取ると、大きく広げてアリシアにかけてやった。
眠る幼い横顔は憔悴している。当たり前だ。突然母親に突き放され、伯父とはいえ見ず知らずの男の元へ預けられたのだから。
「……しかたがないけどねぇ」
どうしたものかと。
白い顔にかかった真っ赤な長い髪を、オズワルドは目を細めて眺めていた。