プロローグ
いつからか、なんてわからない。
けれど気がついたら。
「おい、こっちに来い」
「ヒッ」
『オトコ』が駄目になっていた。
♯
乱暴に腕を引っ張られ、肩に走る痛みに顔を歪めた。
無言で家から連れ出され、見知らぬ土地を歩き続けてどのくらい経ったか。だが、そんなことを気にしている余裕など今のアリシアにはなかった。
「ね……っ、ね、ねぇ!!」
カツカツとヒールを鳴らして前を歩く女性は止まらない。その背を流れる波打つ長い金髪を見上げ、アリシアは再び口を開いた。
「お、お母さん! 一体どこに──」
「うるさいっ!」
やっと止まってくれた足。振り返った美しい顔と答えてくれた声。
それと、次の瞬間襲ってきた頬の焼けるような痛み。一拍遅れて、母にぶたれたのだと理解した。
「あんたがいけないのよ」
じくじくと熱を発しはじめた頬を押さえ、呆然とするアリシアに降りかかった憎しみと怒り。それなのに、見上げた母はどこか傷ついたような表情だった。
「産んでやったのに。あんたときたらなんにも返してくれないで、恩知らずはいらないのよっ!!」
ドンッと突き飛ばされ、思い切り地面に転んだ。
仰け反るほどの力で押された両肩よりも。もろに打ち付けた尻よりも。
胸が、ギリギリと痛かった。
「ねえちょっと。何やってるの」
不意に聞こえた声。それが誰のものかを確認するよりも前に、『オトコ』のものだと認識したアリシアの身体が大袈裟なくらい跳ねた。
「ちょうどいいところに、兄さん」
「いや、ちょうどいいって……。ここ、僕の家だからね。真ん前でこんなことされてたら出てくるでしょ」
兄さん。母は兄と言った。
アリシアは母に兄がいることを知らなかった。
もしかしたら他にも兄弟姉妹がいるのかもしれない。だが、祖父母の顔さえ見たことのないアリシアには、全くもって想像もできない存在だ。
「この子、兄さんに引き取ってもらいにはるばる来たのよ」
「えっ」
伯父だという男が反応する前に、アリシアは目を見開いて顔を上げた。
母はもう、アリシアを見ない。心臓がドクドクと早鐘を打つ。
先ほどの、『いらない』というのはそういう意味だったのだろうか。
「突然来て、育児放棄宣言されても……」
育児放棄。
(私、棄てられちゃうの……?)
さあっと、血の気が引いた。
理由。理由はなんだろうか。
空腹を我慢できなかったことか。殴られたとき声を出してしまったことか。煙草が切れていることに気づかず買い忘れたことか。
それとも、それとも──。
「育児放棄なんて失礼ね、違うわよ」
ハッとした。
ちらりと見えた希望に、アリシアは急いで立ち上がろうとして。
「この子、病気なのよ」
がちりと固まった。
──病気。
風邪ではない。熱もないし、他にも病院にかかるほどの病気なんてしたことがなかった。
だから、アリシアが思いつく唯一のもの。
(あれは……、男の人が駄目なのは……病気?)
だから、母は自分を棄てるのだろうか。
「あのね、」
「兄さん医者でしょ。預かって。この子の荷物全部、そのうち送るから。それじゃあ」
「……っ! お母さ、」
手を伸ばしたけれど、遅かった。
突如現れた青い光が母を包み込み、あっという間にその姿を消してしまった。
あとに残ったのはキツい母の香水の香りと、行き場のなくなったアリシアの小さな手だけだった。
「…………えーっと」
いつまでも空中を眺めて微動だにしないアリシアに、遠慮がちな声がかけられた。しかし、アリシアは背後の声にビクリと身を竦ませた。
ザッと土を踏む音に、這うようにして前に逃げる。そんなアリシアの行動に気付いたのか、男が動くのをやめる。
「……わかった。僕はここから動かないから、ちょっとこっちを向いてもらってもいい?」
心臓が、緊張で震えていた。
冷たい地につけた手をぐっと握り、ゆっくりゆっくり振り返る。
最初に見えたのは茶色の革靴。スラリと伸びる脚とそれを包む濃紺のスラックス。骨ばった手と腕、広い肩に流れる淡い金髪。
「……」
「目は、見れないかい?」
見透かされていた。
アリシアは思わずかあっと赤くなる。
(そう、いえば、お医者様だって……)
「じゃあ視線は落としておいで。僕は今からしゃがむからね」
温かでゆったりとした声だった。
今までに聴いたことがないほどに心が安らぐ深いそれに、そこに見える気遣いに、アリシアははじめて『彼の』声を認識した。
アリシアの視線が革靴に移ったことをしっかりと確認し、男はゆっくりとした動作で片膝をついた。
「さて。では、はじめまして。僕は君のお母さんの兄で、名前をオズワルドといいます。気軽にオズと呼んで。君の名前は?」
「……ど、して」
「ん?」
「どうして、私のお母さんだって、わかったの?」
「うん?」
アリシアの髪は燃えるような赤毛で、目もぼんやりとしたブラウンだった。
金髪碧眼の美しい母とは似ても似つかない容姿は、他の人からいつも見たことのない父親似なのかと憶測されて、その度に母を苛立たせていた。
「似てない、でしょ」
言えば、ぽつんとひとつ間があった。
「……まぁ、あの子の派手さは受け継いでないようだけど。だけど、全く似てないわけじゃないよね。アーモンド型の目とか高い鼻に太い眉とかそのまんまだし」
そうして、男がクスリと笑う気配がした。
「なにより、目の色が僕とそっくり一緒だ」
嫌な遺伝を流してごめんね、と。
そんな言葉は耳に入っていなかった。
大きく見開いた目に飛び込んできた優しげな淡いブラウンに、アリシアはしばらく動けなかった。
「おや」
同じく驚いたような表情をした男は、次いでその薄い唇に柔らかな笑みを浮かべた。「どうだい、同じだろう?」と。
「…………アリシア。十歳です」
「素敵な名前だね。それじゃあ、アリシア。とりあえず家に入ろうか。いつまでもここにいては風邪をひいてしまう」
トクン、トクンと響く音はなぜだか少し、暖かかった。
よろしくお願いします。