人形のある部屋
「それ」をみかけたのは、私が会社から帰り、疲れ果てて、家の玄関に倒れこんだ時だった。
こじんまりした入口に、そこに続く、殺風景な、必要なものだけをとりそろえた部屋が視界に入る。
うっかり消すのを忘れていたらしく、電灯は家主のいない部屋をそのまま煌々と照らしていた。
輝きすぎるきらいのある明かりを頭上に感じながら、わたしの頭は今日あった出来事を無意識的に、まるで決まり事であるかのように回想していた。
今日もまた、会社で上司に怒鳴られた。つばを飛ばしながら怒り狂う彼の額には、ぴくぴくとして震える血管がのぞいていた。わたしの耳を激した感情の渦が通りすぎるのを感じながら、わたしは、上司の血を通す小さなその管が、まるでひとつの生き物のように思えてきておかしかった。なぜわたしはこの男に怒られているのだろう?頭がぼーっとする。この青虫め。ぴくぴくと波打ちやがって。……なぜわたしがこんな思いをしなければいけないのか。
湧き上がる理不尽な感情。それを力に、眠い目をこすり、床を這うようにしながら進む。
その時だった。その見慣れない「異物」に気がついたのは。
「それ」は、わずか六畳ほどの部屋の、中心に置かれたこれまた小さな机の上に乗っかっていた。
「わたし」だった。
いや、正確に言えばそれは「わたし」ではなかった。わたしの顔をした別の何かといった方が正しいだろう。
だが、格好といい、ちょっと斜めに吊り上がった目といい、まるでスモールライトでわたしをそのまま小さくしたみたいに、「それ」はわたしに瓜二つだった。
「それ」が人形のようにこじんまりとして、フィギアのように固定された表情をしていなかったら、わたしは「それ」をわたしそのものだと思ったことだろう。
しかしわたしは今会社から帰ったばかりで、六畳の机にまたがってポーズを決めていたはずもないのだから、「それ」は「わたし」ではありえないはずだった。
それはわたしの顔をした、「人形」だった。
わたしは「それ」を見て、ため息をついた。
「またか」
わたしは体じゅうから力が抜け、まるで魂ごとどこかに飛んでいってしまったようなぼんやりとしたここちで、「それ」を見つめながら呟いた。
*・*・*
最初に現れた日。「人形」は「わたし」と全く同じ形をしていた。
「同じ形」というのはそのままの意味で、まさしく等身大の「それ」が、六畳間を陣取って、わたしの帰宅を迎えいれていたのである。
その日は、得意先との商談がわたしのミスで見事に失敗した記念すべき日だった。青虫を動かす上司の激で、わたしの脳髄に、それは思い出として克明に刻み付けられることとなる。
疲労で体にずきずきとした痛みを感じながら、はじめてそれを見た瞬間、わたしはぎょっとして、心の中で何かが飛び跳ねるような奇妙な感覚に襲われた。その感覚はしばらく続いたが、やがてそれは四肢にしみわたるようにしてぬけていった。しかし目の前の現実を認識するのにはまだしばらく時間がかかった。
「……」
必要なものを最低限取り揃えただけの、殺風景な部屋。そこらで買ったソファを入口から見て左に、そこに座って見れるように、テレビを真向かいの右に置いている。部屋の中心には、特にどういうということをするわけでもないが、一応作業用に安いローテーブルを設けていた。それから、部屋の隅の方に設置した、ほとんどほこりに占領されている本棚。開け放したカーテンからは、寂しげに月上りが覗いている。それらはいたって簡潔な備えであり、別に無くても困るたぐいのものではないのだが、しかしそこが「自分の部屋」だとーー「わたしの住居」だと認識出来るように、わたしが取り揃えたものだった。
しかし今、その部屋を占領しているのはわたしではなかった。わたしと全く同じ顔をした、異質な「何か」が、わたしの場所を奪っていた。
頭がくらくらする。こういう事態に陥った時、人は何と言うのが一番正しい反応なのだろうか。「わあー!?」、それとも「きゃあーー!?」だろうか。
どれもわたしにはそぐわない気がする。
頭のずきずきは主に右脳の方に集中していた。それでわたしはそこを押さえながら、痛みにこらえるため、また思考を整理するために、しばらく黙ることにした。
その「異物」が、こちらをじっと見つめている。
「…………」
やがて、一人の沈黙に耐えられなくなったところで、わたしは何気なく、自分でもほとんど意識をしないままに、ゆっくりと両の手を前に突き出していた。
観察だ。わたしはまだ現実を正確に認識しないままに、機械的に「それ」の体をまさぐっていた。観察をしないといけないのだ。
「それ」が人間でないことは、「それ」の固定された表情で分かった。
何とも形容しがたいような、困っているような怒っているような表情を、「それ」は浮かべていた。何を考えているのか、余りに判断に悩む表情なので、わたしは実際に眉を絶妙な角度に曲げてその姿を再現してみた。しかし、むなしさがこみあげてくるばかりで、凡そ解決というものには縁遠い。
わたしはその表情をやめると、今度は自分本来の真剣な表情で、果たして「それ」が何なのか考えはじめた。
肌触りはまさしくわたしのものとおなじだった。人形という感じがしない。髪の毛もさらさらしていて、むしろわたしのものよりも質感がいいくらいだった。下半身の方の毛も寸分たがわず再現されているのにはさすがに閉口したが。これが人形だったとしたら、これを制作した人間は、そうとうわたしに通暁していたことになる。
人形……これは人形なのだろうか?
間違いなく人間ではない以上、常識的な推論から導きだせるのは、「それ」が人形であるという結論である。最近の人形の技術はすごくて、どこかの俳優と寸分たがわない出来の人形が、海外の博物館に飾られているのを、テレビで見たことがある。あれは人形ではなくて、専門用語ではもっと別の名前を使うのだろうが。
「人形……なのか?」
口にしてみても、「それ」が同じように口を開いて返答してくれるわけでもない。生物的な反応はなし。なるほど、となるとますますこれは人形らしく思われた。
それは、わたしと同じ顔、同じ胴体、同じ脚を備えた「人形」だった。
どこからやってきたのか分からないが、それは貧しいながらも平衡を保っていたわたしの平凡な世界に、ふって湧いたような「異物」だった。
「…………」
だが、人形だとして、こんな人形を、誰が、どんな目的で作って、この部屋に置いておくというのだろう?誰が平和なわたしの世界に、こんな不純物を放りこんだのだろう。
私はそんなことをしそうな人間を考えてみた。
同僚の田中はどうだろう。肥満体の、どこがずれたような価値観を抱いている男だ。あぶらぎった皮膚を隠そうともせずに、場の雰囲気を読めていない発言を繰り返す男。わたしは彼が嫌いだし、彼はわたしが嫌いだった。
しかし田中にこんな人形を作る技術があるだろうか?あるわけがない。一般的な中小企業の会社員に、こんなものが作れるはずがなかった。
両親はどうだろうか。あの年老いた穏やかな老夫婦に、こんなものを作る気力がはたしてあるのだろうか。よしんばあったとして、なぜそんなものを、黙って一人暮らしの息子の部屋に放置する必要があるのだろうか。プレゼントだろうか。なら両親よりは、まだ恋人の方がそういうことをしそうだ。
しかし残念なことに、わたしには恋人はいなかった。
となると、わたしの周りにはこんなものを作れる人間はいないことになる。
……いや、別に作れなくてもいいのか。どこか適当な、それでいてきちんとした仕事をする業者に頼んで、わたしそっくりの人形を作ってもらえばいいだけの話なのだ。後はそれを部屋に置きさえすればいい……
そうだ。部屋だ。ここは冴えないアパートの一室だった。おまけにぼろぼろだ。とはいってもわたしの住処なのだ。他人が勝手に侵入できるわけがない……
わたしは心臓の鼓動が早まるのを感じた。
暑さのせいだろうか。今日の夜は、夏とはいえ、特に肌にしみつくような暑さだった。そのせいかもしれない。水だ。水分が足りないのだ。早く水分を補給しなければ。
あるいは、その早鐘は、わたしの脳裏をかすめた「ある考え」によるものかもしなかった。それははじめただのたわごとにすぎなかったが、やがて頭の片隅から視界を覆うまでに成長し、わたしの繊細な心を著しく蝕んだ。
誰だ。誰がこんなものをわたしの部屋に置いていったんだ。
声に出して問うてみても、「人形」はわたしと同じく曖昧な視線を返すだけだった。
*・*・*
次の日も、「人形」は現れた。
その日は会社の同僚と飲んだ帰りで、大分遅くーおそらく時計の針が十二時をとうにこした頃の帰還だった。その飲み会自体はいたって事務的なものでしかなかったが、ともかくわたしは参加した。嫌な酒にもかかわらず、逆にその為にわたしは気持ちよく酔うことが出来た気がした。わたしは昼間青虫上司にどなられた時とはうってかわって、まるでこの世の王者のような気分で振る舞っていた。ちょうどその日は満月で、今なら藤原道長の気持ちが分かるような気がしたものだ。わたしの後をついてくる月よ。お前はわたしの配下だ。ちっぽけなわたしの。
わたしの住んでいるアパートは二階建てで、会社からは割合と近いところにあった。なので通勤には非常に便利なのだが、残念ながらあちこちに「ガタ」が来ており、わたしが階段をのぼる度にきいきいと音をたてた。酔いのためか、鍵を挿入する手元が狂う。わたしの方もガタがきているのかもしれない。
「人形」は再びそこにいた。
玄関を開けると、昨晩と同じく、「人形」は机の前に陣取って、こちらを見つめていた。前日に押入れにしまっておいたはずなのだが、どうやら誰かが持ち出して、同じ位置に配置しておいたらしい。昨晩に続いて侵入者を許したのか、このおんぼろの部屋は。
我が家の入り口とリビングまでは、直線的に短い廊下で繋がっている。だからもし部屋に侵入者でもあれば、隠れるところもないような場所だから、一瞬で見つけることが出来る。
わたしはその日常を脅かす侵入者の存在に、心の中で調子よく膨らんでいた風船が急速にしぼんでいくのを感じた。風船に詰めるのは酔い。その侵入者とドッペルゲンガーは、恐怖という名の冷気でそれを冷やす。
恐怖。そう、わたしは「人形」を、怖がるようになっていた。
わたしは自分でも驚くくらい統制のとれた人間だと思っている。めったに感情を揺らすことなどない。そのわたしが、ここまでの動揺を見せるのは、珍しいことだった。
平静な水面に投石された「恐怖」が、きれいな波紋を広げていく。
わたしは身震いしながら、「人形」をじっと眺めた。早急だ。早急に解決しなけれいけない。でなければ、サラリーマンとしてのわたしの業績にゆらぎが見えてしまう。
わたしが苦悶している間も、「それ」は相変わらずわたしと瓜二つな顔をしてそこに立っていた。
わたしは目の上の方にほくろともしみとも判別のつかない黒っぽい斑点があるのだが、それは余りにも小さいので誰もがわたしの特徴からは除外するものだった。「それ」の顔に「それ」がついているのを見て、わたしは思わず小さな叫び声を挙げた。まず他人なら見落とすような斑点。
小さな疑念が、それこそ斑点のようなぽつぽつからどす黒い固まりとなってわたしの心にわだかまる。淀んだ、にごりきった、そのせいで気持ちよく生きることさえ叶わないような異物感。
右手に痺れを感じた。ふと眺めると、まるで上司の青虫の如く、ぴくぴくと動く掌。ダメだ……まともに考えようという気力が失せていく。
わたしは震えていた。
*・*・*
「おはよう」
それがわたしに対して向けられた声だということに、わたしはだいぶ歩を進めて気がついた。
わたしの視覚は朝の眩しい光のために著しく機能を落としていた。わたしは朝に弱いので、よく世界がぼんやりとした、もやもやとしたものになることがあるのだ。
わたしは目をこらして声の主を見やった。
「おはよう」
さきほどとまったく同じ声色で、まるでそれが当たり前であるかのように、その老人はわたしに挨拶をよこした。
「おはようございます。」
わたしは冷え冷えとした心で、淡々とそれに返事をした。
老人はそれで満足したのか、それともそもそも期待をしていなかったのか、実に老人らしい、ゆったりとした歩調で、わたしとは逆方向に歩んでいった。
わたしはため息をついた。気持ちの良い朝だ。適度に冷たい風がわたしの頬をなで、すがすがしい空気がこの広い世界全体を満たしている。
しかしわたしの心はまるで鉛のように重く、それでいて五感はその朝を気持ちの良いものと認識しているので、例えようのない壁をそこに感じることとなった。
「ちぐはぐ」だ。体と心が、世界とわたしが、まるで「ちぐはぐ」な対比を見せている。
朝というのは活動を始める時刻なので、会社への道は、それぞれの目的地にふさわしい装いをした人々で埋まっていた。さきほどの老人とは反対に、足早に通り過ぎるサラリーマン風の男。二列になって、じゃれあいながら学校に向かう小学生達。そうやって目的に向かう人々の内の一人に、わたしも含まれているはずなのだが、どうにもわたしは彼らとは違う存在のように思えてならなかった。わたしはさきほどの老人には目的地があるのだろうかと考えた。どちらかと言えば、わたしも目的もなくうろつく人間の類のように思えてきた。
だがわたしはこれから会社に向かわないと行けない。恐らくあの青虫上司に怒られるだろう。豚の田中に嫌味たらしく粘着されるだろう。先に結婚した同期には、露骨な憐れみの目で見られることだろう。
何かがわたしの歩みを阻害している気がした。会社に行かなくてはならないと誰が決めたのだろうか。中学生の頃に習った憲法の文句が頭に浮かんできた。「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負う。」つまりマッカーサーが悪いのだ。
しかし誰が悪かろうがわたしか職場に向かうのだ。求められていない会社へ。
なんとちぐはぐなことだろうか。
道行く人は誰もわたしに挨拶などしはしなかった。会社の連中もそうだ。ろくに挨拶などしてきやしない。わたしという人間の存在価値が分かっているから。あの老人だけが、わたしの本来の価値を知らず、挨拶をしてくれるのだ。
わたし今日は「人形」が消えていてくれることを願いながら、無理やり足を踏み出した。
*・*・*
四日目。「人形」は、今日もそこにいた。
わたしがちゃんと片づけておいたはずなのだが、どういうわけか、彼はそこに陣取って、こちらをわたしと全く同じ目で、見つめてくるのである。
わたしは身震いした。
しかし、それと同時に、この得体のしれない「人形」に対する怒りが、まるで蒸気のように、沸々とわたしの胸に湧き上がってきた。こいつが現れてからろくなことがなかった。以前のわたしなら、あれほど会社に行きたくならないなんてことはありえなかったし、同僚の言葉が、あれほど胸に刺さるということもなかったのだ。
わたしは人形をまじまじと見つめた。
それは相変わらず同じ姿勢で、こちらをじっと睨み返していた。わたしと同じ、安物のシャツに、古いズボン。よれよれにそれを着こなし、その上にだらしのない口元で、全体的に脱力感を見る者にもたらす。骨盤がずれているのか、まさかそんなわけもないと思うが、わたしはちゃんとまっすぐに立てたことが無かった。怒っているのか困っているのか分からない表情。凡そ感覚というものを研ぎ澄ましたことがないような、そんな退屈な男。
なにからなにまでわたしそっくりだった。
わたしは歯ぎしりした。誰がこんなものを置いていったのか知らないが、それは確実に嫌がらせだろう。
そもそも誰がこんなものをわたしの部屋に、誰にも見とがめられずに置いていけるというのだろう?
異常だ。異常なはずだ。全てが異常だった。
わたしはむかむかとしながら、その人形をひっつかみ、そのまま窓を開けて、投げ捨てようとした。
その時、ふとした違和感に気がついた。
軽い。非力なわたしでも、軽々と右手でかつげるほど軽い。
昨日まではそうではなかった。それは今のわたしとまったく同じ体重で、だからこそ余計に迷惑し、腹ただしかったのだ。
わたしはその人形を床にゆっくりと下して、もう一度まじまじと見た。
「これは……」
暗い月明かりの中でもはっきりと分かる。
人形は縮んでいた。
*・*・*
その日から、人形は身長を縮小しはじめた。
それが人形が自発的に望んだ行為なのか、それとも誰かがわざとそうしているのかはわからないが、それは目に見えて小さくなっていった。
なぜそうなるのかは分からない。わたしには分からないことだらけだった。
「おい!!こんな簡単なことも出来ないのか?何年ウチに居るんだお前は!!」
まるで実感の伴わない上司の叫び声が、会社のオフィスを支配した。誰もがこちらに注目する。その視線さえ、今のわたしには大した障害ではないように思われた。
頭の中は、もう17センチも縮んだ人形のことでいっぱいだったのだ。
馬鹿げた細事に関わっている暇はない。
青虫をぴくぴくさせながら上司が席に戻ると、わたしも自分の仕事に戻った。最近は特に忙しいのだ。これ以上進捗を遅らせるわけにはいかない。
椅子に座ると、隣で田中がにやにやしながら声をかけてきた。
「いやー、こたえるよね。部長の説教は」
「別に、慣れてますから」
それよりお前の体臭の方がきつい。
田中はその太った体を奇妙な具合にねじりながら、笑っているのだろう、「ふひっ」という、鼻息のようなものを出しながら言った。
「いやいや、それはまずいでしょ。そろそろ学ばなきゃ、君も」
いらいらする。彼は人を怒らせるには、かっこうの起爆剤だった。あのいまいましい人形も、お前が嫌がらせの為に作り上げたものなのだろう?うっとうしい。そんな周りくどいことをしなくても、直接何か言ったらどうだ。
わたしは無視してPCの電源をつけた。
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昼食の時間になったので、わたしは立ち上がると、そのままビルの屋上に向かった。わたしは別に学生ではないから、そこへの出入りは禁止されていないのだ。
わたしは近くのコンビニで買ったおにぎりを口に含みながら、残りの会社での時間を、どうやって乗り切ろうか、ぼんやり考えていた。
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「おかえり」
老人は、いつものように私に挨拶をしてくれた。
わたしは今日の会社での仕打ちを想像しながら、彼に感情の無い声で挨拶を返した。
わたしの足は、以前よりずっと重かった。
*・*・*
「人形?」
「そう、人形」
わたしの答えに、友人は憐憫とも、困惑とも取れるような奇妙な表情を浮かべた。
人形がわたしの部屋に現れるようになってから、もう随分時間が経っていた。人形はわたしが押入れにしまいこんでも、必ず夜にはそこから這い出して、その感情の読み取れない表情を、こちらに向けていた。
わたしは段々と、自分の脳に重みが加わるのを感じた。まるで部屋だけでなくわたしの脳内にまでもあの人形が住み込んで、わたしを機能の中枢から痛みつけているようだった。それは今まで経験してきた中でも中々に耐えがたいストレスだったので、わたしはその吐出し口が欲しくなったのだ。友人というのはそういう苦しみを分け合う存在だと、わたしは自分の短い人生の中で理解していた。
「久しぶりに会ったと思ったら、そんな話をされることになるとはね。」
ただ友人といってもたまに顔を合わせる程度の中で、職場も違うので、本当に友人と言っていいのかどうかは疑問があった。しかしわたしには他に友人と言えるような人間がいなかったので、わたしはとりあえず彼を友人と呼ぶことにしていた。
それに彼のほかに、わたしはプライベートで一諸に食事をとる人間がいなかった。
彼はコーヒをすすりながら言った。
「なんだいそれは。人形とは」
「人形は人形だよ。精巧なつくりの人形だ。……いや、本当はあれは人形じゃないのかもしれないな。」
わたしは自分の部屋に現れた不思議な人形について、極めて簡潔に説明をした。
わたしはいたって真面目に話していたのだが、コーヒーの苦さからくるのではない顔の歪みを彼が見せたので、わたしはその試みがあまり上手くいっていないことをさとった。
「それは夢の話かい?」
「夢ではないな。恐らく」
「……疲れているんだろう。君は」
彼の声の調子は極めて落ち着いていたが、しかしどこか嫌な気持ちを起こさせる類のもので、わたしの心はざわつきを覚えた。
「今の職場に満足していないんじゃないか?もしあれなら、僕がしかるべき手配をしてやってもいい」
「それには及ばないよ」
わたしは無愛想なウエイターが運んできたパスタに、フォークを突き立てながらしゃべった。場末のカフェにしては、ここは中々味がよかった。
「そうかい。」
彼の出す空気がひどく乾いているように思えた。
わたしは彼がこれからも一諸に食事をしてくれればいいがと思いながら、コーヒーをすすった。
ーーーーーーー
その日の夜も、「それ」は押入れを這い出して、わたしの帰りを待ちわびていた。
ただ今までと違うのは、それはもう等身大の人形ではないという点だった。
それはもう、手のひらサイズの、小さな小さな人形だった。
*・*・*
「江藤さん、最近元気がないんじゃないですか?」
会社でパソコンのモニターに向かったままボーっとしていたら、隣に座っていた同僚に声をかけられた。
事務的にそちらを向く。
保坂だった。余り仲が良いほうでもないが、だからといって関係が悪いわけでもない、中途半端な間柄の同僚。のっぺりしたその顔に、なぜかわたしはいらいらを覚えた。
そんな程度の人間に声を掛けられるほど、私は参ってしまっているのだろうか。確かに、今朝見た鏡では大分頬がこけ、目の下の隈がまるでパンダのように縁を彩っていた。
いや、あれは部屋に陣取ったまま離れようとしない人形の方だったか。
人形。人形。人形。人形。わたしの生活は、わたしの精神は、全て「それ」で占められている。
「どうしたんだ、江藤。最近ミスが多いぞ。」
部長が長い机をわざわざ周ってきて、わたしの肩を心配したように叩いた。青虫は今日は動いていなかった。
それほど広い職場ではなかった。むしろ業種のわりに、スペースを取り間違ったのではないかと思うほど小さな職場。こじんまりとした正方形。そこに長机を平行に3つ並べ、部長用の席を西に用意しただけの場所。空調は効きすぎるくらい効きすぎていて、寒々とした様子を呈していた。
入社当初は、まるでままごとのような場所だと思ったものだ。そこでまるでままごとのように出世できたものだから、この世は全てままごとのようなものだと錯覚した時もあった。
今はその職場でさえ、どろどろした、この世の悪を全て塗り込めた世界に思えた。純粋なわたしはまじめに息をすることすらままならない、汚い世界。わたしはこうやってパソコンの前に座って、もっと汚れた世界を覗き込みながら、居場所もなく小さくなっているしかない。
いや、逆だ。むしろわたしが汚くなっているのだ。純粋なわたしが、埃を被ったカビのように、必要とされずに生き続けている。
田中だ。田中のせいだ。あの脂ぎった豚が、口角をつりあげながら、臭い息をまき散らすせいなのだ。「お前はこの会社には必要ない」「これだからB大学出身は」。BGMにするにはあまりにも不快な和音……乾いた響きが視界を覆う……
お前があんな人形を作ったりするから……
わたしは頭を左右にふった。
これではいけない。もっとはっきりした意識を持たなくては。あの気味悪い人形が部屋に現れて以来、わたしは本来のわたしではなくなりつつあった。
そして人形が小さくなるたびに、わたしの会社での立場も、まずいものになっていった。
人形。……あの人形は誰が作り、誰が毎晩わたしの部屋においているのだろう。
暑さのためだろうか。わたしは冷静な頭を欲した。
*・*・*
わたしは薄暗い部屋の隅にうずくまりながら、その「人形」を眺めていた。
もう何度それを見てきたことだろう。もう何度、退屈な会社と、家への往復を繰り返してきたことだろう。もう何度、会社を放棄し、人形を放り出して、何もかも捨て去ってしまいたいと思ったことだろう。もう何度、その退屈なローテーションを繰り返してきたことだろう。なぜか涙が出たし、声にならないほどの悲しみとはこういうものなのかと、わたしは短い人生の中で初めて理解した。
頭痛がする。ずきずき痛む頭を振りながら、目の目にある「それ」を、わたしは改めて見やった。
それはもう本当に、小さな小さな、本人の何十分のⅠスケールの人形だった。わたしはそれを疎ましく思ったし、何度しまいこんでも現れるそれを、むしろ知己の友人のようにも感じ始めていた。
人形。
わたしはそれの目の上についている、もはや判別不可能なほど体と同じく小さくなった斑点を見やった。
そんな斑点を、そんな細部まで練って作り上げられる人間は、一人しかいない。
わたしだ。
あの人形は、わたしが作ったのだ。
*・*・*
わたしはその最終的な結論に、確信を持っていた。
もちろん、本当にわたしが粘土細工のようにいちから作り上げたのではないのだろう。なにしろ幼稚園の頃のわたしが大の苦手としていたのが、粘土細工なのだから。こんな精巧なものを、実際に作れるはずがない。
心だ。
わたしが作り上げたその人形は、わたしの心が作り上げたのだ。
「人形」は「わたしの心」の「鏡像」だ。社会に、会社に、自分に、満足とも不満足とも言えない微妙な人生を歩んでいる私の。
「人形」がわたしとそっくりなのは、わたしの心の核となる部分だからだろう。
「人形」が突然現れたのは、わたしがその日々の乾燥に気がつきもしていなかったからだろう。
「人形」が縮んでいるのは、わたしがやがてその日々さえ維持できなくなることの現れだったのだろう。
「人形」は、わたしの異常な、他人と摩擦を起こさざるをえないどろどろとした心そのものだった。
やっと気付けた。やっと真実にたどりついたのだ。わたしは、晴々とした気分になった。
わたしは笑った。笑ったのは随分久しぶりのことだった。その笑いは心からの笑いで、完全に平静な心の水面を取り戻した人間の発することが出来る笑いだった。笑いのための笑い。アイロニーのためのアイロニー。
わたしは「それ」を右手で掴んだ。そして左手で、もう一度その精巧な作りを観察した。それは最初に現れた時とは違って、本当にそこら辺にあるような、低俗なつくりのプライズ品に思えた。
わたしは声を出さずに笑った。それから、会社のこと、両親のこと、自分の今までの人生のことを考えながら、「人形」を両手で押し潰した。
ここまで読まれた方ならお分かりかと思いますが、ほぼ気分で書いてます(笑)。
それでも何かしら、この文章から感じることがおありでしたら嬉しいです。
駄文を失礼いたしました。




