最後のさようなら
静かな波音が、今の私の全てだった。
目前に広がる海はあんなにも赤いのに、吹きすさぶ風は肌に突き刺さるように痛かった。
それでも。はるか遠くの水平線に沈む夕日に熱された、踝を包みこんでいる柔らかな砂は今だに暖かく。
その温もりは、遠い日の中にある君の肌を思い出させた。
寄せては返す規則正しい波音も、まるで私の隣で眠る君の立てる吐息のようで……悲しみばかりがこの胸に滲んでくる。
沈む太陽を追いかけて飛び去る海鳥。
貝殻の破片が光る海岸。
白いあわを楽しそうに追いかけていた君。
変わらない風景の中、君だけがそこにいない。
それが耐えられなくて、ずっと遠ざかっていたこの場所は、何十年たってもちっとも変わった様子はない。
悲しみが深すぎて、涙の一滴すら流せない自分に苦笑しながら、私はスラックスのポケットから古びた時計を引っ張り出した。
銀盤から千切れてしまいそうな赤茶のベルトの細い時計は、丁度、十二時を指したところで止まったままになっている。
曇った硝子板は所々ひび割れ、元の華やかさの名残もとんと無いが、彼女は好んでこれをつけていたと言う記憶だけは鮮明に残っている。
私は、今にも壊れてしまいそうな時計を両手に抱え込むように持ち、潮水の飛沫がはじける海岸線までふら付く足を進める。
生臭い潮の匂いが、ツンと鼻を刺激した。
広い世界の中で静かに染み渡る波音に奉げるよう、私は両手を前に差し出し。女物の時計を白い泡の中へと投げ込んだ。
ぽちゃりと小さな音を立てて、海はあっという間に時計を飲み込むと、深い懐の中へと引きずり込んでゆく。
それは、遠い記憶をつなぎとめていた楔のような物だったのだろう。肩から何か大きな物が抜け落ちるような、そんな感覚を覚えて、私は深く息をついた。
「おじいちゃん! はやく!」
海岸線と並立して敷かれた国道から、小さな声がかかる。
そんなに待たせたつもりはないが、子供にしてみればひどく退屈な時間だったのだろう。
駄々をこねる子供を、苦笑顔でなだめている男女に軽く手を振って、裾を濡らす波から足を上げる。
「さようなら」
この風景を、一人で見に来るのはこれがたぶん、最後だろう。
いつか近いうちに歩かねばならない道の先で、君に会えたその時。そうしたらまた、二人でこの景色を見に行こう。
「また……会おう」
緩やかな弧を描く空には、瞬く星が顔をみせ始めていた。