プロローグ
全身に強烈な圧迫感を覚える。目の前を赤い明かりがストロボのように点滅していた。
とにかく狭苦しい。辺りに敷き詰められた配管が絡み合い、プシュプシュと蒸気機関がピストンを繰り返している。……今度はどこだ。
身体を捻らせて抜け出そうとするが、厚みのある黒いクッションに覆われ、四肢もそこにすっぽりと嵌まり、身動き一つ取れない。
己の首と、砂嵐の映し出されたブラウン管テレビだけがわずかな空間に収まっていた。
息苦しさに苛まれながら老人は、もうこれで幾度目かも判らない同じ疑問を頭に巡らせる。
一体、いつまで続くのか。かつて生きていた世界よりも長い年月、連綿と渡って過ごしてきた。
『おうおう、アリエッタ! このフェットチーネじゃベルトにならねぇ、締め殺せやしねぇよ!…………ジ――ッ………ムラサキグジュグジュムシは、尿で浸した巣の中で卵を育てて腐らせます………あぁんなたを想うぅぅぅ押し潰されそなココロにぃぃぃ…………ジ――ッ…………ジ――ッ…………』
上気した顔中から汗を噴き出し、呼吸が荒くなる。
画面の映像が目まぐるしく移り変わっていく。ぎゅうぎゅうとゴムが擦れ合う音と共に、世界そのモノが少しずつ身体を締め上げてくる。
これから何が起こるのかを察し、両手両足の血の気が引いていく。見開いた目が血走り、嘔吐いて喉が押し上げられた。ピストンの音が早まる。
たんとガスを注入された袋体が膨張して硬化。圧迫する手足に痺れを生じさせた。
『この物語はフィクションであり、実在する人物、団体には一切関係ありません。この物語はフィクションであり、実在する人物、団体には一切関係ありません。この物語はフィクションであり、実在する人物、団体には一切関係ありません。この物語はフィクションであり、実在する人物、団体には一切関係ありません。この物語はフィクションであり、実在する人物、団体には一切関係ありません。この物語はフィクションであり、実在する人物、団体には一切関係ありません。この物語はフィクションであり、実在する人物、団体には一切関係ありません…………ジジッ…………ジ――ッ…………ジ――ッ…………』
先に左足の甲が潰された。波打つが如くバキバキと折り畳まれ、関節が外れ、どす黒く腫れた片足が破裂。
老人は唸って唇を噛み、痛みが和らぐまでの数時間、熱気で蒸せる中、暑苦しさに堪らず身を悶えさせて次の箇所が潰されるのを怯えながら待ち続けた。
やがて右腕、指八本、左肩、下半身をじっくりと二日間に掛けて潰されていき、最終的には頭ごと全身を徐々に粉砕されていく。
顔面の肉と骨、髪の毛と脳髄が混ざり合い、口から血のあぶくを滴らせる。それでも意識だけは鮮明に、へしゃげた舌がいまだかつてない味覚を感じ、嗅いだこともない妙な匂いが鼻孔を擽る。じんわりと押し潰された眼球からゼリー状の液体が飛び出て、そこでようやく圧死。
すぐに視界が復活。どこかへ投げ出されて倒れ、膝を突く。
今度は駅のホームだった。外の明かりは確認できず、線路の先も闇が続いている。
立ち上がろうとしたが、五体満足の感覚を忘れたので、バランスが取れなくて自販機にぶつかり、背中を預けてへたり込んだ。
冷たい空気が肺を満たし、汗ばんだ身体を冷やす。ふと右手を見つめて指を一本ずつ動かしてみた。
手も足も全て繋がっているのを確認すると、すかさず老人は、自らで頭部をベンチに打ち始めた。
額から血がおびただしく飛び散るが、それでもなお勢いよく頭を振って打ち続ける。
「いい様だな、ゴミがッ」
何百年ぶりかの懐かしい声が聞こえた。ホームから見える屋外広告板の上で、仮面を被った黒いコートの少年が、老人を見下ろしている。
「少しは反省したか」
「……お、オージン!」
広告から舞い降りてホームに立ったオージンに、ビゾオウルがよたよたと近寄る。
コートの袖を掴んで縋り付き、涙と鼻水を垂れ流しながら頷くように何度も頭を下げた。
「すまん……わしが悪かった。頼む、許してくれぇ……わしを……」
必死に懇願するその姿は、紛れもなく悔恨の表れであり、自身の過ちを認めた上で救いを請う声だった。
「わしを、はやく、殺してくれぇぇ……!」
ここはまさに具現した地獄。
始めに味わったのは想像を絶する苦痛。暗黒の中で、業火に身を焼かれているような状態が何十年も続き、狂って正気を失うことさえも赦されず、確実に一つ一つの神経から刹那の激痛を噛みしめていた。
それがようやく終わったかと思えば、今度は別の地獄が始まる。様々な状況下で殺されていく。
なにより恐ろしいのは痛みにまったく慣れていないことだった。恐怖心を植え付けられ、迫り来る死に怯えながら、果てる瞬間に最大の苦しみが鋭くなった感覚から伝わる。
死んでは生き返りが何度も繰り返された。酸の海で窒息したままじわじわと溶かされ、身体中で蠢く寄生虫に内臓を屠られ、錆び付いた刃物で眼や陰部の急所をめった刺しに責められる。
先ほど、閉塞的な場所に閉じ込められて、グチャグチャに頭蓋が割られた感触を思い出して総毛立ち、ビゾオウルは発狂するがごとく叫んだ。
「まあ、そう言うな」
オージンが、彼の印象とはそぐわない朗らかな物腰で、震えるビゾオウルの肩へ慰めるように手を置いた。襟を掴み、ホームから引きずり下ろす。
「お楽しみはまだまだこれからじゃないか」
線路上に立ち、首を持ち上げて手前に掲げる。遠くの方から小さな光の点が見え始め、地面に震動が伝わってきた。
お願いだもうやめてくれやめてくれぇとビゾオウルは泣きじゃくり、顔を歪ませている。
「どうした。ある意味では、キサマが望む世界ではないのか。ここにはキサマが真理だと語るヒトの闇だけが拡がっている。キサマの浅薄な理屈に従えば、力の無いキサマがワタシに虐げられているこの現状に何も問題はないはずだが」
「違う……わしが間違いだった。頼む……でき得るかぎりの償いをしよう……何でもする……」
「それで真面目に懺悔しているつもりなのか。キサマというゴミは、まだ理解が足りないようだな。償いなど不可能だ。何でもするなら黙って報いを受けろ」
電車が近づくのに比例して動悸が激しくなる。鼻から大きく空気を吸い込み、胸が締め付けられて心臓が浮き上がった。
このまま衝突して、車輪で身体をバラバラに捻切れるのだろう。強制的に揺さぶられた心は、拭い去れない死に対する恐れを増していく。
快速と表示された方向幕がすぐ正面にまで来ると、ビゾオウルは力強く目をつむった。側を電車が通過していく音が聞こえる。
何も痛みを感じない。目を開けるとオージンが胸ぐらから手を離した。砂利の上に倒れ、混乱した表情で仮面を見つめる。
どこまでも伸びる異様に長い車両は、スピードを緩めないまま背後を過ぎて行く。
「悪かった。キサマがどの程度反省しているのか試したかったのだ」
「は……?」
「迎えだ。十分に苦しみ抜いただろう。安心しろ、もう全て終わった。キサマを赦そう。これにて更正完了」
一瞬言葉の意味が理解できず、少しの間、放心した後、ビゾオウルの瞳に今までとは違う感情から込み上げる涙が溢れ出てきた。
確かめるように、本当か、本当か、と何度も尋ねた。不気味な仮面は、ああ、と答えるだけ。
うずくまり、子供みたいに無様な泣き方で嗚咽を繰り返す。身に余るほどの歓喜だった。
これまで永久に続く時間の中、いっそ殺してくれと望む傍ら、かつての世界を夢想しながら願った。ほとんど諦めかけていたそれが今、ようやく叶うのだ。
同時に、ありし日の自分を呪っていた。どうしてあんなことを。大した意味も理由もなく、ただ己の欲を満たすためだけに、一方的な弾圧を行ってきた。
少しも考えはしなかったのだ。誰もが自分と何一つ変わらないヒトであることに。悪意による統率などあってはならなかったのだ。
それに気付くことができたのなら、ここでの苦しみは大きな意味があったのかもしれない。
これで卑しい自分の魂が完全に洗われたとは思えないが、元の世界へ戻ったら、次からは人のために生きようと決めた。
傷付けた者たちへ、自分なりに償えるよう努力しよう。心からそう思えるようになったのだ。
顔を上げ、本当か、と再度尋ねた。
「ああ、もちろん嘘だ」
涙が止まり、急に重くなった肩が沈んだ。思い馳せた現実が遠のき、この幻想世界へまた引き戻されて茫然自失。たったの一言であっけなく潰えた。
オージンがビゾオウルの首根っこをもう一度掴み、いまだ走り続ける電車へ向かった。
「実につまらんな。もう少し期待したらどうなんだ」
「お、お願いだ、頼む頼む頼む……やめてくれもうたくさんだぁ! まだ、まだかぁ………教えてくれ、あとどれくらい……数百万人分………数千人分……?」
言った瞬間、その怒りごと叩き付けるように車両へ身体を押し当てられた。後頭部と背中が、強力な摩擦により削られ、血肉と脂が側面に塗られていく。
「七千三百万四百十五人、加えて十一名のヒロイック能力者だ。間違えるな」
オージンが電車からビゾオウルを引き寄せると、削ぎ落とされた半身が徐々に再生していく。もはや死以外の望みはないが、傷口から新たに生み出され続ける細胞は自らの意思に反し、絶命を許さない。おもむろに目玉をくり抜かれて捻り潰される。
しばらく手の中で遊ぶように揉みくちゃすると、ぶつんと引き千切り、オージンは流れる車輪の側にビゾオウルの顔面を近づけさせた。火花が散り、鉄の焼け焦げた臭いがする。
「これはまだ、ほんの通過儀礼だ。せいぜい一人分。度が過ぎていると思うか。これでも生ぬるいと考えろ。キサマが穢した魂は二度と還ってこない。キサマみたいな何の価値もないゴミに踏みにじられた気高き想いはもう報われない。ヒロイック能力者が、キサマとは比べモノにならないほどの尊ばれるべき人間が、何故そんな目に遭わなくてはならなかったのだ。解るか、その罪科に見合う制裁は永久の苦しみだ。いつかこの地獄が終わる。そういった無駄な考えは捨てろ」
深い泥沼に落とされ、もがき苦しみ、ようやく這い上がったところで突き落とされた。
終わらない。ずっと。無限に。繰り返す。
白衣が車輪に絡まる。あ、と声が漏れて、今度こそ轢かれた。車体の下で全身が細切れにされていく。
しかしそこで意識は無くならなかった。電車が通り過ぎた線路の上で、散らばった肉片が集まり、衣服も混ざって歪な形に身体が再生。全身が平べったくなって呼吸もできず、激痛により塩をかけられたナメクジのように悶え、くの字に折れ曲がっていく。
仮面の男が見下ろしている。皮膚が突っ張る痛みに構わず表情を歪め、先ほどの媚びた態度とは打って変わり、真っ赤な老人は憤怒を露わにした。
無意味に人を虐げてきた自分。罪深き昔の自分。ああ、そうだ。あの記憶こそまやかしなのだ。コイツの悪趣味な世界に呑まれて、そう思い込むように記憶を植え付けられただけのなのだ。自分は被害者だ!
「なるほどな。別にどちらでもいいぞ」
オージンがビゾオウルの首をもぎり取る。脊髄ごと神経が芋づるのごとく連なって引き抜かれ、首の断面にぶら下がった。
右手が発するオーラが流れるようにビゾオウルの記憶を読み取っていく。
「他の誰か、ましてやキサマが証人である必要は無い。キサマが本当にゴミであるかどうか、その真実はワタシだけが判っていればいい。これは、そのための能力だ。自らの記憶を都合良くねじ曲げ、罪の自覚もしないのなら、勝手にそう思っていろ。だが、いつまでも悔い改めようとしない限り次の段階には進まないがな」
情景がまた一変し、薄暗い空間に移り変わった。全面赤錆で、奥では巨大な円柱が歯車と共に回っている。
器具で散らかった台の上に首を置かれ、頭を開かれる。潰れた脳がドロドロに流れ出し、電極を刺された。
側にある装置の電源を入れてオージンが操作を始める。試しに壁を黒い閃光で穿つ。口を開けたままビゾオウルの首が痙攣を起こす。
反応を確かめた後、全ての機器を稼働させた。建物そのものにビゾオウルの感覚が宿る。
鉄板張りの壁が剥がされ、プレス機が潰し、熱せられた鉄鋼が融解して溶鉱炉へと流れる。ぉうぉうと苦悶の顔が呻く。無限の要塞を解体する工程の全てが、痛みとして伝わってくる。
「言ったはずだぞ。まずはヒーローサイドに敬意を払えと。そこから己の惨めさを再認識したところで、ようやく本当の地獄が始まるのだ。キサマにそのような畏敬の念が芽生えるにはまだ早かったようだな。過去の悪行に目を背けるようでは話にならん。もう一度仕切り直しだ。キサマが侮辱したヒトの尊厳と歴史、その重みを存分に味わえ。そして全てが終わった頃には楽になる。罪深き者は決して救われてはいけない。キサマの命が本当に尽き果てる時、いまのワタシの言葉を思い出せ」
思い出の幻影が巡る。これを認めたところで待っているのは半永久的な苦しみ。結局は何も変わらない。
どう足掻いたところでオージンが唱えたあの呪詛に囚われたまま抜け出せない。ビゾオウルは声も出せずに叫びを上げた。頼むからこの思考を止めてくれ!
重厚な扉が閉ざされ、いつしか視覚も聴覚も機能しなくなり、音も光もフェードアウト。また苦痛と暗闇だけの世界になった。




