しあわせになりたかったはなし
ヤスがいなくなったあの日。
人を好きになんてならなければ世の中の厄介事の半分は減るんだろうと思った。
「コーヒー飲む?」
ベッドの上であぐらをかいている私に向かってアキラはそう言った。
目の前に並べられた大学のレポートの束とにらめっこしながら私は、いらないと短く答える。
すると下着姿のままの私を気遣ったのか、何も言わずに自分のシャツを掛けてくれた。その行為に対して私は特に何も反応しなかった。
「まだレポート終わんないのか」
「うん」
「手伝ってやるよ」
「いい」
私はレポートの束を床に投げ、ごろんと仰向けに倒れる。あぁ、面倒くさい。
そういえば、とアキラが口を開いた。
なに、と天井を見つめたまま答える。
「もうすぐお前誕生日だな」
「あー、そうだね」
自分の誕生日にさして興味があるわけでもない。アキラもそれ以上何も言わない。
曲がりなりにも恋人同士である私達の間には、甘ったるい会話なんて生まれたことがなかった。
アキラは多分、私を愛しているわけではない。
哀れな私に同情してるんだ。それか、勢いでとってしまった自分の行動に責任を感じているのか。どちらにしても、仕方なく一緒にいるのだ。
時に情は、愛より重いのだということをアキラと一緒にいることで知った。
「涼子」
「ん」
「それ」
「え?」
アキラが指さしたのは、私の小指で光るゴールドのピンキーリングだった。
あぁコレ、と平静を保って小指を見せる。
アキラは少し複雑そうな表情をしたかと思えば、またすぐにいつもの無表情に戻った。
何も聞かないアキラ。聞かれないのだから言わなければいいのに、意志とは裏腹に口をついて出ていた。
「そう。ヤスがくれたやつ」
「知ってる」
「気に入ってるから、つけてるだけ」
「別にいい。どうでも」
そう言ってアキラは私の上に覆い被さる。シャワーを浴びたばかりのアキラの短い髪の毛から水滴が落ちた。
濃厚なキスの途中、シーツが濡れるよと言った私の言葉が頭に入っていたのかは分からない。
(まぁいいか。どうせアキラのベッドだし)
ただ彼は、何もかも掻き消すように私の身体を抱いた。
今ではすっかり馴れてしまったこの行為。恥ずかしさも何もない。
初めてセックスをしたのは高校三年生の時だったな、なんてアキラに組み敷かれながら呆然と思い出す。
経験豊富な周りの友達よりも少しだけ遅かった。相手は、ヤスだった。
セックスが終わったあと、やる前と同じく仰向けに寝転んでいる私の隣りで、アキラは煙草に火をつけた。
その横顔を眺めながら、私は言った。
「ねえ、親友の元カノとセックスするってどういう気分?」
「今は俺の彼女だろ」
「……」
「ヤスの事は忘れろ」
「……あんたもね」
これは、裏切りになるのだろうか。そうだったらいいな。私は今、ヤスの親友だったアキラと付き合って、恋人同士のような真似事をして、セックスをしている。
ヤスが知ったら、何と言って私を蔑むだろう。
裏切り者と罵るだろうか。
汚い女だと突き放すだろうか。
どちらでもいいような気がした。
だって先に裏切ったのは、ヤスなのだから。
アキラのマンションを出た瞬間、冷たい空気に肌を刺された。
思わず首を竦めた時、ミニスカートから生足を出した女の子が私の前を堂々と横切る。
アキラの部屋に泊まれば良かった。明日も朝から大学だけど、そんなことどうでも良くなるくらいに12月の夜は寒い。
だって仕方ないじゃないか。
アキラは泊まってけよなんて言わなかったんだもん。帰れとも言わなかったけど。
このまま自分の狭い家に帰るのも憂鬱だったので、携帯のアドレス帳から適当に暇そうな人を物色した。
途中、小指が軽くなったかと思えば、少し遅れて音もなくピンキーリングがアスファルトに転がる。
自分の指よりも少しサイズの大きいそれは、よく私の指から抜け落ちる。
3年弱も付き合ってたのに、ヤスは私の指輪のサイズも知らなかったんだなって、そのたびに思うのだ。
寒いし、面倒だし、いっそもうそのまま棄ててしまおうと一歩を踏み出した次の瞬間にはもう、しゃがみ込んで小さなピンキーリングを拾い上げていた。
何度も同じ夢を見る。
何度も、何度も―――
「俺ね、高校の時が一番楽しかったよ。涼子がいて、アキラがいて。無駄なものも、足りないものもなかった」
夢の中のヤスはそう言って屈託のない笑顔を見せた。
笑うと目元が優しくなるその表情が、私は大好きだった。
私は腕を伸ばして、ヤスの頬に手のひらを添える。
瞼を撫で、柔らかな髪を撫で、唇をなぞり、眉毛に沿って指を滑らせたところでいつも夢から覚めてしまう。
寝ぼけ眼で周りを見渡すと、自分の部屋だということに気が付いた。
21歳の女子大生の部屋とは思えないシンプルな家具。可愛げのない殺風景な部屋。一カ所だけ不自然に穴の空いた壁紙。見ると憂鬱な気分になるのだけど、直す気にもなれない。
昨日の記憶があやふやだ。
アキラのマンションを出てから、真っ直ぐ帰ることなく浴びるほど酒を飲んで、それから……それからどうしたんだっけ。
時計を見ると、もうとっくに昼過ぎになっていた。
窓から射し込む陽の光が痛い。頭もガンガンする。
それを更に刺激するかのように、携帯の着信音がけたたましく鳴り響いた。
アキラだ。
出るかどうか迷った末、出ないことにした。
布団を被り、じっとしていると着信音はパタリと鳴り止み部屋は再び静寂に包まれる。きっと大学に来ていない私を不思議に思って電話をかけて来たのだろう。
やっと立ち上がる決意をし、レポートだけでも提出しようとベッドから這い出た。
カーペットの上に落ちていた見慣れない時計には気付かないふりをした。
昨日の記憶を慎重に探りながら着替える。そのほとんどを思い出したのは、家を出る直前だった。
ボロいアパートの階段を降りた先に、予想外の人物を見つけて思わず足を止める。
アキラは恐い顔をして両手をポケットに突っ込んだまま、私を見上げていた。
そして何も言わずに階段を上り、私の目の前に立つ。
「お前、昨日隆弘とやっただろ」
「うん」
間を置かずに私は答えた。
隆弘、とはヤスやアキラの男友達。大学が同じで、顔を合わせたことがあった。
ヤスがいなくなってから、私は何度かその男と寝た。
昨日も、隆弘と飲みに行き、そのまま2人で私の部屋へ帰ったのだ。
私が起きる前に帰ったんだろうけど、慌てていたのか寝ぼけていたのか、時計をカーペットの上に置いたままだった。
「隆弘だけじゃねえな。他にも何人かいるだろ」
「うん」
「どういうつもりだよ!」
「断る理由が、なかったから」
どうせバカな隆弘が口を滑らせたのがきっかけだろう。それで、色んな男とセックスをしている私の余罪が次々と明らかになったに違いない。
だけど心はとても冷静だった。いつバレてもおかしくないような気がしてた。
これでアキラも私から離れられるだろう。自分が浮気された被害者という、最高の名目で。内心ほっとしてるに違いない。
強い衝撃が頭を揺さぶった。
アキラに叩かれた頬が熱い。それほど強い力じゃなかったんだろうけど、突然のことに私は反応出来なかった。
「ふざけんなよ」
泣きそうな顔してた。本当に泣いているわけじゃなかった。
ただ怒っていた。怒りで、アキラの唇が震えていた。
そんなことで、怒る人だったんだ。
アキラはそれ以上何も言わなかった。何も言わずに背を向けて階段を降りて行った。一歩一歩、確実に遠ざかっていくアキラの背中に、私は叫んだ。
「じゃあ……どうすれば良かったのよ!」
ヤスが変わったのは、私達が付き合って2年経った、大学に入ってすぐのことだった。
ヤスは他の女と浮気をして私を裏切った。
喧嘩を何度繰り返しても、それでも私はヤスと別れることをしなかった。ヤスもそれを分かっていたから何人もの女と、私を裏切り続けた。
彼が初めて暴力を振るった日から、私の部屋の壁は穴を空けたままだ。
そして、ヤスが死んだあの日。
酒を飲んだまま運転してガードレールに突っ込んだヤスの隣りには、私の知らない女が乗っていた。あいつは、私以外の女と一緒に死んだのだ。
狂ったように色んな男と寝た。中にはヤスの友達もいた。アキラはその中の1人だった。
ヤスの親友と寝ることで復讐をした。空の上にいるヤスに見せつける為に。
男なんてもう信じられない。誰も好きになれない。愛なんてそんなもの、信じたって私に何も与えてくれなかったじゃない。
ヤスみたいに、みんな死ねばいいんだ。
そう思ったけど、彼が私を残して死んだことが何よりも許せなかった。
「どうすれば、良かったのよ……」
叫び声は涙声に変わった。何の涙かは分からない。
どうすれば良かったかなんて、本当は分かってる。
愛せば良かったんだ。
アキラが私の体を散々抱いたあと、付き合おうと言ってくれた日から。
ちゃんと信じて、もう一度愛せていれば良かったんだ。
ヤスが最初の浮気をした時点で別れて、高校時代に買ってくれた安物のピンキーリングなんて捨てて、ずっと傍で見守ってくれてた不器用なアキラを選べば良かった。彼の気持ちには、気付いていたのに無理矢理そんなはずないと思い込んでいた。
だけどやっぱり、私はヤスと同じ気持ちでアキラを見れない。
死んでも尚、私を縛り付けるあんたが憎い。
今すぐ会ってぶん殴って、その後、思い切り彼を抱き締めたい。全部、許してあげるのに。
いっそ私も死ねたらどんなに楽だろう。
だけど目を細めたヤスの笑顔が、不器用なアキラの優しさが、私をこの世に縛り付ける。
しあわせになりたかったはなし