鎌倉の伯母と本物の偽物
「あらー」
目の前に置かれた湯気を立てる皿を前に、戸塚の伯母は無邪気な声を上げて目を細めた。
伯母の前に置かれているのは、たっぷりの生クリームと厚切りベーコンが絡んだ濃厚なカルボナーラだった。
「ふふ、これこれ。本場の人が見たら『これはカルボナーラじゃない』って怒られそうだけど、このクリーム感もたまらないのよね」
週末の夕暮れ、雑居ビルの地下にある気取らないイタリアン。
免許取りたての私は、運転の練習とご飯をおごってもらうこと(こちらが本命)を兼ねて、伯母を乗せて鎌倉まで足を延ばしていた。
「本場のカルボナーラは、生クリームを使わないのは知ってるけど、ベーコンも使わないんだ」
「そうよ。使うのはグアンチャーレっていう豚のほほ肉ね。それとたまごと、あとチーズ。そのチーズも、ペコリーノっていう山羊のチーズを使うの。脂の感じと香りが違うのよね」
「へえ。なんか可愛い名前のチーズだね」
伯母は「そうね。あ、おいしーコレ」と、もぐもぐと口を動かしながらご満悦の様子。楽しそうで何よりだ。
「だからこのパスタは、厳密に言えば『偽物』ね。でも、日本の人に合うように進化した、これはこれで愛されているお料理なのよね。偽物にも、偽物と指を刺されるだけの何かしらの魅力があるんでしょうね。ふふ、私だけ飲んじゃってごめんね。あ、コレもおいしー」
白ワインのグラスを傾けて微笑む伯母を見て、私は友人から聞いた奇妙な相談を思い出した。
「そういえば伯母さん。『偽物』といえば、今日ちょっと不思議な話を聞いたんだよ。ある収集家が亡くなってね、ウチの先生が絵の鑑定に駆り出されたんだけど」
「あら、そんな事もあるのね」
伯母はくるくるとフォークにパスタを巻きつけながら、申し訳程度に相槌を打つ。
これは完全に食べる方に意識が行っているな。まあいいや。
「その収集家はね、凄い高価な近代画家の同じモチーフの絵を、なぜか三枚持ってたんだって。一枚は間違いなく本物で、残る二枚は精巧に作られた偽物で。それで、その三枚を額装して並べて飾っていたみたいなんだ」
「へえ、本物と偽物を。クイズみたいな話ね」
「そうなんだよ。それで、額の下に奇妙なラベルを貼っていたんだって。えーと、ちょっと待ってね」
私はナプキンにペンを取り出し、三枚のラベルに書かれていた文言を書き留めた。
一枚目のラベル:「三枚目の絵は本物である」
二枚目のラベル:「三枚目の絵は偽物である」
三枚目のラベル:「この絵は本物である」
「遺族の方が言うにはね、収集家は気難しい方で、『ラベルの文言のうち、本当のことを言っているラベルが貼られている額だけが本物だ。嘘つきのラベルの絵はすべて偽物だ』って生前に言い残してたんだってさ」
「なるほど。ちょっとした論理パズル仕掛けじゃないの」
伯母はフォークでぼってりとしたクリームの固まりを口に運ぶと、満足そうに咀嚼し、ワインで喉を潤した。
それから悪戯っぽく唇をほころばせる。
「単純に考えると、『本物』は、二枚目の額に入っているってわけね」
♢♢♢
「えっ、もう解けたの? はやっ」
伯母はナプキンの文字を指先でトントンと叩きながら、小気味よく解説を始めた。
「この手の『嘘つきいますよ系』のパズルで最初に注目するのはね、同じ対象について語っている文や、真っ向から対立している選択肢よね」
私は、『嘘つきいますよ系』って何、と思ったけどとりあえず頷いて伯母の話を聞くことにした。
「まず、三枚目のラベルを見てごらんなさい。『この絵は本物である』と主張しているわね。もし、この三枚目のラベルが【本当】だと仮定するとどうなるかしら?」
「ええと……収集家のルールでは『本当のことを言っているラベルの額が本物の絵』だから、三枚目の絵が本物ということになるかな」
「そう。けど、三枚目が本当なら、残る一枚目と二枚目のラベルは【嘘】でなくちゃいけなくなるわね。でも、一枚目のラベルを見てごらんなさい」
「一枚目は、『三枚目の絵は本物である』と。で、これが【嘘】。あっ……!」
私が声を上げると、伯母は手にしたフォークをくるりと回した。
「気づいたようね。もし一枚目のラベルが【嘘】なら、『三枚目の絵は本物である』の否定、つまり『三枚目の絵は偽物である』ということになるわ。そうなると、三枚目の『この絵は本物である』というラベルが【本当】という前提と矛盾しちゃうわよね」
「ということは……三枚目のラベルは【本当】ではあり得ない?」
「その通り。三枚目のラベルは【嘘】よ。そして収集家のルールを思い出して。『本当のことを言っているラベルの額に本物がある』のだから、三枚目は嘘つきのラベル、つまり三枚目の絵は偽物で確定よ」
伯母は楽しそうに目を細め、話を続けた。
「三枚目が偽物だと分かれば、残るは一枚目と二枚目ね。じゃあ、一枚目のラベルが【本当】だとしたらどうなるかしら?」
「一枚目が本当なら……『三枚目の絵は本物である』か。でも、さっき三枚目は偽物だっていう結論を出しているわけだから、一枚目のラベルも【嘘】を言っていることになるね」
「ご名答。そうなると、【嘘】のラベルが貼られた一枚目の絵も偽物に決まるわ」
私はナプキンを見つめ、息を呑んだ。
「一枚目も三枚目も【嘘】で『偽物』……残るは二枚目だけ」
「そうよ。二枚目のラベルには何と書いてあったかしら? 『三枚目の絵は偽物である』。最初に検証したように、三枚目の絵は確かに偽物だったのだから、二枚目のラベルは【本当】のことを言っているわね。そして『本当のことを言っているラベルの額』に入っている絵こそが、『本物』というわけ」
伯母はいつのまにか平らげていたカルボナーラのソースを、バゲットで綺麗に拭って、口元へ運んだ。
「ん-、最高。あ、すいませーん」
伯母はひと皿をペロリと平らげると、店員を呼んでデザートのティラミスを注文した。
「それで、実際に二枚目に入ってたの? 『本物』が」
伯母は澄まし顔でそう言ったのに、私はちょっとビックリしてしまった。
「そうなんだよ。不思議なのはそこでね、――入っていなかったんだよ。『本物』が」
♢♢
「入っていなかったの?」
ティラミスを待つ間、伯母はグラスに残ったワインを揺らしながら小首をかしげた。
「鑑定に行ったウチの先生が見たらね、二枚目の額に入っていたのは、どう見ても『贋作』だったんだって。精巧に似せてはあるけれど、明らかに後から描かれた偽物だったらしいよ」
「あらあ」
「遺族の方も困惑してさ。『偏屈な人だから、自分がいなくなった家族に恥をかかせようとしたのかもしれません』とか言ってて。結局、三枚とも偽物だったんだって。本物は額装されてない状態で倉庫から出てきたらしいよ」
「そうなの。『真作』を隠すための嘘クイズだったってことなのかしらん」
「うん。先生たちはそうじゃないのかって言ってたよ」
そこへ「お待たせいたしました」と、ココアパウダーがたっぷりかかった大皿のティラミスが運ばれてきた。
たちまち伯母は「わぁ、おいしそう」と歓声をあげ、小さなスプーンを手に取った。
ひとすくいして口へ運ぶと、幸せそうに目を細める。
「ふふ、マスカルポーネが効いてて美味しい。……そうねえ、その収集家さんは、本当に嘘をついていたのかしらね?」
「うーん。そうじゃないのかなあ。だって、二枚目に入っていたのは贋作だったんだし、パズルを解いて辿り着いた先が偽物だったんだから、ルール自体が出鱈目だったってことじゃないの」
私が腕を組んで答えると、伯母は紙ナプキンで口を拭って続ける。
「美術的な価値としての『真作』か『贋作』かで言えば、確かに贋作だったんでしょうね。でもね、その収集家さんにとって、二枚目の絵は間違いなく『本物』だったのかもしれないわ」
伯母は、少し悪戯っぽい眼差しを私に向けた。
「どういうこと?」
「もしその人が、ただ家族をからかって困らせたかっただけなら、最初からそんな凝ったパズルのラベルなんて残さないわ。わざわざ三枚並べて、論理パズルまで仕立てて、二枚目を指し示すように誘導した……。まるでわざとその絵に注目させるみたいにね。そこには、そこまでして誰かに見せたい『本物』があったのよ」
伯母は2枚目のラベルのナプキンを指先でトントンと叩いた。
「確かに世間一般から見れば、ただの偽物の絵よね。でも、たとえば親友が描いた心のこもった模写だったとか、息子さんが描いた模写だったとか。その方が大切にしている想い出の絵だったとしたらどう? 『真作』よりも、その絵こそが血の通ったたったひとつの『本物』だった。そう考えたら辻褄が合うわよね。それを本人に見つけて貰いたかったとしたら、ちょっと茶目っ気のある方にも思えてこない?」
「自分にとっての、本物……」
「そう。この生クリームとベーコン入りのカルボナーラみたいなものだったっていうわけ。騙すためじゃなく、美味しく食べてもらいたくて、楽しく見てもらいたくて、ひと工夫してみたってわけ。少なくとも私は、カルボナーラもそのクイズも、『美味しい』って楽しませて貰ったわ。それと同じよ」
伯母はティラミスをもう一口頬張り、満足げに微笑んだ。
「『真作』とか『贋作』とかいう枠組みをひらりと飛び越えて、ううん、むしろ踏み台にして、言葉の罠を編み上げたんだとしたら。ふふ、その収集家さんなかなか味わい深い方だったんじゃないのかしら。私は嫌いじゃないけれどね」
「……なるほどなあ。じゃあ、遺族が困惑しているのを見て、その収集家さんは天国で『してやったり』ってほくそ笑んでいるのかもしれないね」
「そうね。チャーミングで、そして、はた迷惑な方ね。さ、あなたもティラミスを食べなさいな。ここまで運転してきてくれたことと、面白い謎を運んできてくれたことへのご褒美よ。半分分けてあげるから」
そう言っておいしいものの前で笑う伯母の笑顔は、すがすがしいほどに嘘がなくて、私はスプーンでティラミスを取り分けながら、思わず苦笑してしまった。




