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方程式の温度

作者: Ono
掲載日:2026/02/08

 恒星間輸送船を多数擁し、居住コロニーへの食糧運搬を請け負う小さな運送会社。彼はその末端社員だ。

 彼が乗るのは小型ながら全自動航行、循環型燃料システムを搭載した通称『清潔な艦(ニート・フリート)』。パイロットには技術など求められない。必要なのは、万が一法的トラブルが起きた際にすべてを負うための()()だった。

 人件費削減という全宇宙が共有する正義によって、彼のような実務経験ゼロの一般人が、最低賃金で雇われているのだ。


 生産コロニーを出発してから4日目。静寂に支配された艦にけたたましいアラートが鳴り響く。

 ――警告。規定重量の超過を確認。燃料消費率が悪化しています。目的地到達不能。

 モニターの赤い明滅が彼の退屈を恐怖へと一変させる。出港時の計量は完璧だった。マニュアル搭載の端末を片手に、計器の不具合であることを願いながら彼は震える足で貨物エリアへと向かった。


 防腐剤の臭いが鼻をつく。並び立つ巨大な穀物コンテナの隙間に、それはいた。

 薄汚れた作業着姿の小柄な少女だ。生産コロニーのスラムで見かける栄養失調特有の痩せた手足と、餓えしか知らない怯えた瞳。

 少女はパイロットの視線から逃れるようにコンテナの陰で小さく身を縮める。

「……密航者か」

 彼の呟きに応え、システムが無機質に告げた。

 ――不測の質量の排出を推奨。ミッション完遂のため、直ちに実行してください。

 それはつまり少女をエアロックから宇宙へ放り出せということだった。


 パイロットは顔を蒼白にしながら身を屈めると、優しく少女に語りかける。

「おい、君。どうして入り込んでしまったんだ。ここにいてはいけない」

「帰りたくない……」

 少女の声は掠れていた。だが、その瞳に強い決意が灯される。

「戻ったらまた工場で死ぬまで働かされるんだわ。それなら、いっそこのまま外に放り出して」

 彼女の言葉には絶望への拒絶だけがあった。精々40キロ程度の命、その余剰質量が、広大な宇宙の片隅で艦をガス欠に追いやろうとしている。

 傾いた天秤が彼の手に預けられたのだった。


 彼は少女を連れてコックピットに戻り、コンソールを睨みつけた。減給? 解雇? 知ったことか。目の前の人間を見殺しにしてまで運ぶ麦に何の価値がある。

 彼は決断した。キーボードを叩き、彼女の体重に相当するだけの食糧を廃棄指定する。

 減圧音と共に船体が僅かに揺れて食糧が宇宙に消えてゆく。モニターの数値はすぐに正常範囲に戻ってきた。

 自分のための水を差し出してやると、少女は眦に涙を滲ませながら小さな声で何度も「ありがとう」と繰り返した。


 長い数週間の旅路、少女との対話は彼の孤独を癒やした。

 彼女は多くを語らなかったが、その存在の温もりによって、冷たい鉄の塊は心身を守る()になった気がした。


 目的地の居住コロニーに到着した時、彼は覚悟を決めていた。

 入港手続きのためにドッキングベイに管理官が入ってくる。無精髭を生やした、いかにも不機嫌そうな男だ。

「積荷のリストと照合する。おい、報告にあった『重量調整』ってのは何だ?」

 管理官が端末を見ながら怪訝そうに眉を寄せると、彼は背筋を伸ばして堂々と答える。

「人道に従いました。密航者がいたんです。彼女を助けるために、同質量の食糧を廃棄しました。責任は私が取ります」

「密航者?」

 管理官は首を傾げ、彼の後ろに視線を向ける。


「どこに?」

「え?」

 そこには誰もいなかった。

 彼の横にも、コックピットにも、貨物エリアにも。

 ドローンが食糧コンテナを運び出している。すっかり空になった艦のどこにも少女の姿はなかった。


「そんなはずは……ログを見てください! 私は食糧を捨てて、彼女を守ったんです……」

 管理官は吐き捨てるようにため息をついて、端末の画面を彼に見せた。『積載率:100%』。食糧は一粒たりとも減っていなかった。

「エラーログもなし、システムは出港から今この瞬間まで正常だ。最初から何も起きちゃいない」

「そんな馬鹿な! 私は確かにレバーを引いて、ハッチを開けたんだ!」

 あの痩せた体の儚さも、切実な感謝の言葉も、すべてが鮮明に残っているのに。


 管理官は哀れむような、それでいて侮蔑を含んだ目でパイロットを見下ろし、鼻で笑った。

「可哀想な少女を救うために食糧を宇宙に捨てました、だって? 港に着くまでハッチは開かん。お前にはそもそも船を操作する権限など与えられていないんだ」

 彼の肩を軽く叩き、最後に告げる。

「うちの極安宇宙船に、そんなまともな監視システムが走ってるわけないだろう。馬鹿なやつだな」


 管理官が去った後の静寂は宇宙の闇よりも重く冷ややかに彼を包む。

 慈しむべき体温も、冷たい方程式も、彼が孤独に耐えかねて作り出した幻覚に過ぎなかった。

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