第4話 再婚の鐘と、崩れ落ちる帝国の幻影
アステリア王国の国境。かつては「氷の女帝」と恐れられたイゾルデは、もはや泥にまみれた敗残兵のようだった。彼女の背後には、空腹で膝をつく数名の騎士のみ。対する門の向こう側には、毛並みを黄金に輝かせた数万の魔獣軍団、そしてその中心に、あまりにも場違いなほど穏やかな表情のルカがいた。
「ルカ……!戻れ!戻れと言っているのが、聞こえないのか!」
イゾルデが震える手で、刃のこぼれた魔剣を抜く。
「貴様がいないせいで、我が帝国は滅茶苦茶だ!義務を果たせ!私の夫として、今すぐあの亀を磨き、飛竜どもを呼び戻すのだ!」
ルカは困ったように眉を下げ、ポチの耳元を優しく掻きながら答えた。
「イゾルデ様、昨日の今日で会えるとは思いませんでした。でも、もう無理ですよ。……僕、もうアステリアの人間になっちゃいましたから」
「ふざけるな!私というものがありながら、夫の義務を果たさないのか!私は認めん!」
「いいえ、認めさせる必要はありませんわ」
ルカの隣から、王女エルゼが凛とした足取りで進み出た。彼女の手には、教会法に基づき受理された「離縁証明書」と、ルカとの「婚約届」が握られていた。
(……ん? 婚約届?)
ルカは隣で胸を張るエルゼを見て、小首をかしげた。そんなものにサインをした覚えはない。強いて言えば、昨晩ポチのブラッシングに夢中になっている時、「ここに名前を書いてくれたら、一生分の最高級ブラシを取り寄せますわ」と言われて、適当にペンを走らせた記憶があるような、ないような。
(まあ、いいか。エルゼ様はポチの肉球ケアも上手いし)
彼は「神獣に優しい人に悪い人はいない」という雑極まりない理屈で、この人生の重大な契約を瞬時に受け入れた。細かいことはどうでもいい。ポチが懐いているなら、それは正義なのだ。
エルゼは高らかに宣言する。
「貴女が彼を『無能』と呼び、ゴミのように放り出したあの夜。ヴァルキリア帝国は、ルカ様という『世界の調律者』を失った。……見てなさい、貴女が縋りついているその剣を」
イゾルデが自分の剣に目を落とすと、魔石はすでに輝きを失い、ボロボロと砂になって崩れ落ちていた。
「な……魔法が、発動しない!?」
「当たり前です。その魔石は魔獣の結晶……ルカ様のケアによって『浄化』されていたからこそ、貴女に使わせてくれていたのよ。ルカ様を傷つけた女に、貸す力など無いと彼らは言っているわ」
「嘘だ……!私は、私の力で戦ってきたんだ!」
イゾルデが狂乱し、ルカに向かって駆け出す。
「グルルル……(消えろ、下等生物)」
ポチが、ただ一度「鼻息」を吐いた。それだけで、大嵐のような衝撃波がイゾルデを襲い、彼女は無様に地面を転がった。かつてあれほど高く跳び、鋭く舞った女王の体は、今やただの重い肉の塊だった。
「……ああ、そうだ。イゾルデ様」
ルカが思い出したように、懐から一枚の古い羊皮紙を取り出した。
「去り際にお伝えし忘れていました。父王様から預かっていた『帝国の維持マニュアル』なんですが」
「な……マニュアルだと?」
「はい。あの子たち——亀の『カメ吉』も、飛竜の『ボルちゃん』も、僕が毎日撫でることで『魔力の暴走』を抑えていたんです。僕がいなくなって一ヶ月。そろそろ、彼らの中に溜まったストレス(魔力)が限界のはずです」
ルカが指差す先——はるか彼方のヴァルキリア帝国の王城から、凄まじい光の柱が立ち昇った。『金剛の魔亀』が、ついに我慢の限界を迎え、巨大な欠伸をしたのだ。その一振りで、城壁は粉々に砕け散り、帝国を支えていた基盤そのものが消滅していく。
「あ……あああああ……っ!」
イゾルデは、遠くで崩れ去る自国の光景を、ただ呆然と見つめるしかなかった。
「ポチ、もう行こうか。今日はお祝いのディナーに、特製の肉球ケアオイルが届くってエルゼ様が言ってたから」
「ワンッ!(それだ!早く行こうルカ!)」
ルカは一度も振り返らなかった。彼にとっては、帝国の崩壊よりも、目の前のポチの毛並みと、自分を愛してくれるエルゼの笑顔の方が、何万倍も重要だったから。




