第3話 聖域アステリアと、王女のブラッシング予約
隣国アステリア王国の王宮。そこは今、大陸中の「もふもふ」が集う、地上で最も幸福な聖域と化していた。
「ルカ様、本日のスケジュールです。午前は聖なる羊たちの毛刈り、午後は国境を守る大鷲たちの爪切り、そして夜は……」
アステリア王女エルゼが、秘書のようにルカの横で手帳をめくる。彼女は今、ルカの隣で動物たちと一緒に過ごす時間が、人生で最も充実していると感じていた。
「エルゼ様、そんなに詰め込まなくても大丈夫ですよ。ポチが焼きもちを焼いて、僕の服を隠しちゃうんです」
ルカの膝の上で、神獣ポチが「そうだ、もっと俺を優先しろ」と言わんばかりにエルゼをジロリと睨む。だが、以前のような殺意はない。ルカがブラッシングのついでに、エルゼの指にも保湿オイルを塗ってあげたおかげで、彼女の指先から「動物が好む香り」がするようになったからだ。
「……あ、ルカ様。私の髪も、少し毛先が跳ねている気がするのだけれど。……もしよければ、ポチ様の『ついで』で構わないから」
「お安い御用です。エルゼ様の髪はとても綺麗ですから、この豚毛のブラシがよく馴染みますよ」
ルカが無欲な笑顔で、王女の髪を優しく梳く。その瞬間、エルゼの魔力がルカの「無自覚な浄化作用」によって整えられ、彼女の背後に美しい光の輪が浮かび上がった。
「(ああ……、彼が髪を梳いてくれるだけで、私の強力すぎて制御できなかった魔力が凪いでいく。……この人は、只者ではないわ)」
エルゼがうっとりと目を閉じている一方、王宮の外では驚天動地の光景が広がっていた。
「おい、見たか!?ルカ様が撫でた近所のノラ猫が、今朝、神獣ライオンに進化して火を吐いたぞ!」
「こっちなんて、ルカ様が池の掃除をしただけで、ただの鯉が龍になったんだ!アステリアは今、世界最強の召喚獣軍団を擁する国になっちまった!」
ルカが「快適さ」を求めて手を加えるたびに、その環境に適応しようと動物たちが爆速で進化していく。アステリアは戦わずして、大陸最高の武力を手に入れてしまったのだ。
一方、ヴァルキリア帝国。そこは、一ヶ月前までの繁栄が嘘のような「石と砂の死の国」と化していた。
「……陛下。本日も、配給はございません」
ガラム騎士団長が、やつれきった顔で報告する。かつて大陸の半分を制した軍隊は、今や「動く乗り物」が一頭もいないため、「徒歩のお散歩集団」に成り下がっていた。
「なぜだ!なぜ誰も働かぬ!畑はどうした、商人はどうした!」
イゾルデが荒れ果てた玉座を叩く。しかし、畑は、天敵の小鳥が全滅したためイナゴの大群に食い尽くされ、商人は荷馬車を引く牛が家出したため、一歩も動けない。さらに深刻なのは、帝国の唯一の誇りだった「武力」の象徴——『金剛の魔亀』だ。
「魔亀が……魔亀の甲羅が、ストレスで変色しています!かつてルカ様が毎日声をかけながら磨いていたのに、現在は誰も近づけないため、甲羅の裏にカビが繁殖し、そこから魔力が漏れ出しています!このままでは、城が沈みます!」
「……戻せ!ルカを、今すぐ連れ戻してこい!」
イゾルデは狂ったように叫んだ。「あいつは、私の夫だ!王である私を支える義務がある!無責任にもほどがある!隣国へ使いを出せ。いや、私が直接行く!連れ戻して、檻に入れてでも、一生あの亀と犬の世話をさせてやる!」
イゾルデはボロボロの軍服に袖を通し、自ら剣を取った。彼女はまだ気づいていなかった。
ルカが去ったのは、彼女が彼を「無能」と呼んだからだけではない。ルカが注いでいた愛情という名の「国の維持管理コスト」を、彼女が踏みにじり、ポチの肉球ケアという「世界の平穏」を笑ったその瞬間に、帝国の命運は尽きていたのだ。
国境を越え、アステリアの豊かな緑が見えた時、イゾルデが目にしたのは——伝説のフェンリルの背に乗って、隣国の王女と楽しげに笑い合い、もはや「王配」ではなく「神の寵愛を受ける主」として君臨する、ルカの眩い姿だった。
「ルカァーーッ!!戻れ!戻るのだぁーっ!!」
イゾルデの叫びは、アステリアの森に棲む一万頭の魔獣たちの「静かにしろ、羽虫」という一斉射撃のような威圧感によって、かき消された。




