第2話 翌朝、帝国からすべてが消えた
ルカ・エルロッドが追放された翌朝。女王イゾルデは、かつてないほどの不快感で目を覚ました。
「……侍女。喉が渇いた。水を」
返事がない。それどころか、いつもなら小鳥のさえずりで満たされているはずの寝室が、墓場のように静まり返っている。イゾルデが苛立ちながら蛇口を捻るが、一滴の水も出ない。それどころか、蛇口の装飾である『水龍』の彫刻が、まるで抜け殻のようにひび割れていた。
「……どういうことだ?」
彼女が宮殿のバルコニーへ出た瞬間、目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
「陛下!大変です!陛下ぁーッ!」
階段を駆け上がってきたガラム騎士団長は、鎧も着けず、髪を振り乱していた。
「ガラム、何事だ。なぜ馬の足音が聞こえない。訓練はどうした」
「馬が……馬が一頭もいないのです!厩舎の扉はすべて内側から破壊され、軍馬三千頭、すべてが王配殿下……いえ、ルカ様の進んだ南の街道へ向かって失踪しました!」
「なっ……!」
イゾルデが城下を見下ろすと、さらに惨状は深刻だった。帝国の誇り、動く要塞こと『金剛の魔亀』が、完全に首と足を甲羅に引っ込め、ただの巨大な岩と化して城門を塞いでいる。「亀が……門を開けないのです!王配様がいつも掃除していたタワシを、私が間違えて捨てたのが原因かと!」
「そんな馬鹿な!獣一匹に、この大帝国が左右されるわけが——」
その言葉を遮るように、空から巨大な影が差した。見上げれば、帝国の航空戦力を担う『紫電の飛竜』たちが、一列に隊列を組み、女王に「あばよ」と言わんばかりに雷光を一発放って、悠々と南へ飛び去っていくところだった。
「待て!戻れ!飛竜部隊!」
女王の叫びは、虚しく空に消えた。イゾルデが戦場で無双できたのは、彼女の武勇ではなく、ルカが丹念に翼のメンテナンスを施した飛竜たちが、彼女を「ルカの奥方だから」という理由で、渋々背中に乗せていただけだったのだ。
一方、国境の南側。アステリア王国の豪華な馬車の中で、ルカは当惑していた。
「あの、エルゼ様。そんなに見つめられると、ポチのブラッシングに集中できないのですが……」
ルカの膝の上では、神獣ポチが「あー、そこそこ」という顔で、隣国の王女を完全に無視して寛いでいる。王女エルゼは、その光景を食い入るように見つめていた。
「ルカ様……貴方は自分が何をしたか、理解していないのね」
エルゼは手元の水晶板をルカに見せた。そこには、空を埋め尽くす飛竜の群れ、地平線を覆う軍馬、そしてその後ろを健気に歩く帝国中の猫や犬たちの「大移動」が映し出されていた。
「これ、全部僕の後に付いてきちゃったんですか……。困ったな、餌代が大変だ」
「困るのは帝国の方よ。……貴方は『平和の象徴』として婿入りしたと言われているけれど、実際には貴方一人が『帝国の心臓』だった。貴方のブラッシング一つ、肉球ケア一つが、荒ぶる聖獣たちを鎮める唯一の儀式だったのよ」
エルゼは、ルカの白く細い指を取った。武骨な剣だこ一つない、しかし動物たちを慈しむために磨き抜かれた、奇跡の指。
「我が父、アステリア国王も、貴方の噂を聞いて震えていたわ。……『あんな宝を、路傍の石ころのごとく扱っている女王がいる。今すぐ奪い取れ』とね」
「……僕が宝?」
「ええ。イゾルデは『強い戦士』を求めて貴方を捨てたけれど、皮肉なものね。貴方が去った瞬間、彼女は世界で一番『弱い女王』になったのだから」
エルゼの瞳に、熱い光が宿る。彼女は、自分を救ってくれるのは、ルカのような「すべてを包み込む無欲な男」だと直感していた。
「ルカ様。我が国へ着いたら、まずは貴方のための『聖獣宮』を用意させるわ。貴方はただ、好きなだけ動物たちを愛でていればいい。……そして、もし許されるなら、その横に私も座らせて」
「はぁ……。まあ、ポチが良いなら」
「グルル(まあ、こいつはマシな匂いがするな)」
ポチが初めて、女王以外の女性を認めるように尻尾を一度だけ振った。その瞬間、アステリア王国の全土で、見たこともない色鮮やかな花々が一斉に開花した。
その頃、帝国では。「……お腹が、空いたわ」イゾルデが震える声で呟いたが、調理場からは「火を吹くサラマンダーが家出したので料理が作れません!」という絶望的な報告が届いていた。




