# 3:伝統市フェスティバル
## 1
「失われる伝統市」キャンペーンの準備は急ピッチで進められた。アオリは商人ギルドの本部に臨時の事務所を設け、毎日のように会議を開いていた。
「各店舗の『伝統』要素をリストアップし、それを強調した看板やポスターを作成します」アオリは集まった商人たちに説明した。「例えば、パン屋なら『100年続く製法』、鍛冶屋なら『代々受け継がれる鍛造技術』といった具合です」
商人たちは熱心にメモを取っていた。アオリの提案は彼らに新たな希望を与えていた。
「そして、フェスティバル当日は各店舗が特別な『伝統体験』を提供します。例えば、パン作り体験や、簡単な鍛冶体験など、普段はできない体験を提供するんです」
「それは面白そうだな」ある商人が言った。「うちの染物店では、伝統的な染色体験ができるようにしよう」
アオリは満足げに頷いた。「素晴らしいです。重要なのは、『今体験しないと、二度と体験できないかもしれない』というメッセージを伝えることです」
これは「プロスペクト理論」の応用だ。人々は得るものよりも失うものに敏感に反応する。「失われるかもしれない伝統」という危機感が、人々の行動を促す強力な動機になる。
準備が進む中、アオリは最大の課題に取り組んでいた。それは「ハロー効果」を最大限に活用するための、権威ある人物の招致だ。
「グレゴリーさん、王室の誰かをフェスティバルに招くことはできそうですか?」アオリはギルドマスターに尋ねた。
グレゴリーは難しい表情をした。「直接王族を招くのは難しいが…王室付きの料理人なら、知り合いがいる。彼なら来てくれるかもしれない」
「それは素晴らしい!」アオリは目を輝かせた。「王室付きの料理人による『王家の味』の実演があれば、大きな集客になります」
グレゴリーは頷いた。「交渉してみよう」
アオリはさらに「おとり効果」も計画に組み込んだ。これは、比較対象を提示することで選択を誘導する手法だ。
「フェスティバル期間中、各店舗は通常の商品と『特別伝統版』の商品を並べて販売します。特別版は少し高めの価格設定にしますが、『限定』『伝統』という価値を強調します」
これにより、通常商品が「お買い得」に感じられ、購買意欲が高まる効果が期待できる。
準備が整いつつあった頃、アオリは新たな問題に直面した。フェスティバルの広報だ。いくら素晴らしいイベントを企画しても、人々に知ってもらわなければ意味がない。
「どうやって広く告知すればいいだろう…」アオリは考え込んでいた。
そのとき、一人の若い商人が提案した。「街の吟遊詩人たちに歌を作ってもらってはどうだろう?彼らは街中で歌うから、多くの人に伝わるはずだ」
アオリは目を輝かせた。「それは素晴らしいアイデアです!」
彼はすぐに街の有名な吟遊詩人たちを集め、「失われる伝統市」をテーマにした歌を作るよう依頼した。報酬として、フェスティバル期間中の特別ステージと、各店舗からの商品提供を約束した。
「この歌が街中に広まれば、フェスティバルの認知度は大きく上がるでしょう」
これは「バンドワゴン効果」を狙った戦略だ。多くの人が歌い、話題にすることで、「皆が注目している」という印象を作り出す。人は多くの人が選んでいるものを選びたがる心理がある。
フェスティバル開催の1週間前、アオリは最後の切り札を放った。それは「現在志向バイアス」を利用した戦略だ。人は将来の大きな利益よりも、目先の小さな利益を優先する傾向がある。
「フェスティバル前日と当日、各店舗の入口で無料の『伝統の一口サンプル』を配布します。これにより、人々は店に入りやすくなり、そのまま商品を購入する可能性が高まります」
商人たちは最初、無料配布に難色を示したが、アオリの熱心な説得に折れた。
「小さな投資で大きなリターンが期待できます。これは『フット・イン・ザ・ドア』という技術です。小さな要求に応じた人は、その後の大きな要求にも応じやすくなるんです」
全ての準備が整い、いよいよフェスティバル前日となった。街は「失われる伝統市」のポスターと旗で彩られ、吟遊詩人たちの歌が街中に響いていた。
アオリは自分の部屋の窓から街の様子を眺め、深呼吸した。
「さて、明日が勝負だ…」
## 2
「失われる伝統市フェスティバル」の初日、ルモアシティの商人街は朝から多くの人で賑わっていた。各店舗は趣向を凝らした装飾で彩られ、「伝統」を強調した看板が目を引いた。
アオリは早朝から商人街を巡回し、最終確認を行っていた。
「リーナさん、準備は順調ですか?」彼は「伝説の銀月亭」に立ち寄った。
リーナは忙しそうに頷いた。「ええ、『伝統の月夜の宿泊体験』の準備は整ったわ。予約も結構入っているのよ」
「素晴らしい!」アオリは満足げに微笑んだ。
彼は次に「彩織堂」を訪れた。ドミニクは特別な織機を店の前に出し、伝統的な織物の実演を行う準備をしていた。
「これは見事ですね」アオリは感心した。
「君のアイデアのおかげだよ」ドミニクは笑顔で答えた。「『失われゆく伝統技術』という看板を見て、多くの人が足を止めるんだ」
アオリは商人街全体を巡回し、各店舗の準備状況を確認した。どの店も彼のアドバイスを忠実に実行し、「伝統」を前面に押し出していた。
正午頃、フェスティバルの開会式が中央広場で行われた。グレゴリーが壇上に立ち、熱のこもった演説を行った。
「我々の商人街は300年の歴史を持つ、ルモアシティの宝です。しかし、新しい商業地区の台頭により、この伝統が失われる危機に瀕しています。今日から3日間、皆様に我々の伝統と技術を体験していただきます。どうか、失われゆく伝統の価値を感じてください」
この演説は「フレーミング効果」を利用したものだ。同じ内容でも、「新しい商業地区が素晴らしい」と言うのではなく、「伝統が失われる危機」と表現することで、人々の認識を変える効果がある。
開会式の後、特別ゲストの王室付き料理人、マエストロ・クリストフが登場した。彼は王室の正装に身を包み、堂々とした態度で料理の実演を行った。
「これは王家に代々伝わる『祝福のスープ』の作り方です。通常は王族の誕生日にしか作られない特別なレシピですが、今日は特別に皆様にお見せします」
多くの人々が彼の周りに集まり、熱心に見学していた。これは「ハロー効果」の絶好の例だ。王室という権威が、料理の価値を高めている。
アオリは満足げに状況を見守っていた。計画は順調に進んでいる。
午後になると、商人街はさらに多くの人で溢れかえった。各店舗の前には行列ができ、「伝統体験」に参加する人々で賑わっていた。
「無料サンプル」の戦略も効果を発揮していた。一口の試食や、小さな体験を通じて、多くの人々が店内に入り、商品を購入していった。
「これは『現在志向バイアス』の効果ですね」アオリはグレゴリーに説明した。「人は目先の小さな利益(無料サンプル)に惹かれ、その後の行動(購入)につながりやすいんです」
グレゴリーは感心した様子で頷いた。「君の心理戦略は本当に効果があるな」
フェスティバル初日の夕方、アオリは商人たちから初日の売上報告を受けた。多くの店舗が「平常時の3倍以上の売上」を記録していた。
「信じられない!」ある商人は興奮して言った。「こんなに売れたのは何年ぶりだろう」
アオリは謙虚に微笑んだ。「これはまだ始まりです。明日はさらに多くの人が来るでしょう」
彼の予測通り、フェスティバル2日目はさらに多くの人々が商人街を訪れた。「失われる伝統市」の評判は急速に広がり、隣町からも多くの人々が訪れるようになった。
特に効果的だったのは、「おとり効果」を利用した商品展示だ。各店舗は通常商品と「特別伝統版」を並べて展示していた。特別版は高価格だが、多くの人々が「伝統の価値」に惹かれて購入していった。
「不思議ですね」ある商人がアオリに言った。「以前は安い商品しか売れなかったのに、今は高い『伝統版』の方が人気です」
アオリは微笑んだ。「それは『おとり効果』です。二つの選択肢を提示することで、人々は比較検討するようになります。そして『伝統』という付加価値があれば、高価格でも選ばれるんです」
フェスティバル最終日、商人街は過去最高の賑わいを見せた。王室付き料理人の評判は王宮にも届き、なんと若い王子が密かに視察に訪れるという予想外の出来事も起こった。
「これは大変なことだ!」グレゴリーは興奮して言った。「王子が商人街を訪れるなんて、100年以上なかったことだぞ!」
若い王子の訪問は、商人街の評判をさらに高める結果となった。「王子も訪れた伝統市」という新たな噂が広がり、フェスティバル後も多くの人々が商人街を訪れるきっかけとなった。
フェスティバル終了後、商人ギルドは特別会議を開き、成果の報告と今後の戦略について話し合った。
「フェスティバル期間中の総売上は、通常の5倍以上」グレゴリーは誇らしげに発表した。「そして、フェスティバル後も客足は落ちていない。むしろ増加している店舗もある」
商人たちから大きな拍手が沸き起こった。
「これはひとえにアオリの戦略のおかげだ」グレゴリーは続けた。「彼の『心理戦略』が我々の商人街を救ったと言っても過言ではない」
アオリは照れくさそうに頭を下げた。「私は単なるアドバイザーです。実際に行動したのは皆さんです」
グレゴリーはアオリに近づき、約束通りの成功報酬を手渡した。それは彼が想像していた以上の金額だった。
「これは…」アオリは驚いて言葉に詰まった。
「約束の報酬だ」グレゴリーは微笑んだ。「そして、商人ギルドからの特別な申し出がある。我々の公式アドバイザーになってほしい。定期的な報酬を用意する」
アオリは感激して頷いた。「光栄です。喜んでお受けします」
会議の後、アオリは自分の部屋に戻り、窓から商人街の様子を眺めた。街は以前よりも活気に満ちていた。
「前世では炎上させることでしか注目を集められなかったけど、この世界では建設的な方法で人々を助けることができる…」
彼は報酬の金貨を見つめながら、感慨深く微笑んだ。
「母さん、見ていますか?今度は正しい方法で成功しています」
アオリの評判は商人街を超え、ルモアシティ全体に広がり始めていた。「奇跡の宣伝師」「心を読む男」など、様々な呼び名で彼は知られるようになった。
そして、その評判は思わぬところにも届いていた…
## 3
フェスティバルから1週間後、アオリが商人ギルドで仕事をしていると、見慣れない使者が訪ねてきた。
「アオリ様にお目にかかりたい」
使者は高級な服を着た若い男性で、胸には王国の紋章が刺繍されていた。
「私がアオリですが…」アオリは不思議に思いながら答えた。
使者は丁寧に一礼した。「情報省次官、ヴィクター・ノリスよりお招きです。明日、王宮にてお会いしたいとのこと」
「情報省?王宮?」アオリは驚いた。
「はい。詳細はお会いになった際にお伝えするとのことです」
使者は招待状を手渡し、去っていった。
アオリは招待状を見つめ、困惑していた。「情報省って何だ?」
彼はすぐにマルコを訪ね、情報省について尋ねた。
「情報省は王国の重要な機関だ」マルコは説明した。「王国内の情報を管理し、公式発表や噂の制御を担当している。かなり権力のある組織だよ」
「噂の制御?」
「ああ、この国では噂が力を持つからね。情報省は『公式の噂』を作り出し、広める役割も担っているんだ」
アオリは考え込んだ。前世でいうところの広報部門や情報統制機関のようなものだろうか。
「次官からの招待は名誉なことだ」マルコは続けた。「断る理由はないだろう?」
アオリは頷いた。「もちろん。行ってみます」
翌日、アオリは最も良い服装で王宮を訪れた。壮麗な宮殿の前で、昨日の使者が彼を出迎えた。
「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
アオリは案内されるまま、王宮の中へと足を踏み入れた。豪華な装飾、美しい絵画、優雅な調度品…全てが彼の想像を超える豪華さだった。
使者は彼を宮殿の東翼にある一室へと案内した。部屋の扉には「情報省」と書かれた金の札が掛けられていた。
中に入ると、大きな机の前に中年の男性が座っていた。彼は洗練された印象の人物で、鋭い目と思慮深い表情が特徴的だった。
「ようこそ、アオリ君」男性は立ち上がり、アオリに向かって歩み寄った。「私が情報省次官のヴィクター・ノリスだ」
アオリは丁寧に一礼した。「お招きいただき光栄です」
「座りたまえ」ヴィクターは優雅な仕草で椅子を指した。
二人が席に着くと、ヴィクターはじっとアオリを観察した。
「『失われる伝統市フェスティバル』は大成功だったようだね」
「はい、商人たちの努力のおかげで…」
「謙虚だな」ヴィクターは微笑んだ。「だが、我々は真実を知っている。あのフェスティバルの成功は、君の『心理戦略』によるものだ」
アオリは黙って聞いていた。
「特に興味深いのは、君が使った『プロスペクト理論』や『ハロー効果』といった概念だ」ヴィクターは続けた。「我々情報省も似たような手法を使っているが、君のアプローチには新鮮さがある」
アオリは驚いた。情報省が彼の戦略をここまで詳しく把握していたとは。
「実は、我々は君を観察していたんだ」ヴィクターは意味深に言った。「『伝説の銀月亭』の再生から始まり、『彩織堂』の復活、そして『伝統市フェスティバル』まで。君の手法は非常に興味深い」
アオリは緊張した。観察されていたとは…まるで前世のSNSのような監視だ。
「恐れることはない」ヴィクターは彼の緊張を察したように言った。「我々は君を評価している。だからこそ、提案がある」
「提案、ですか?」
「そう。情報省の特別顧問として働かないか?」
アオリは驚いて言葉を失った。
「王国には多くの課題がある」ヴィクターは続けた。「隣国との緊張関係、国内の不満、様々な噂による混乱…我々は情報を適切に管理し、国民に正しいメッセージを伝える必要がある」
「それは…広報活動ということですか?」
「その通り」ヴィクターは頷いた。「だが、単なる広報ではない。『心理戦略』を用いた情報管理だ。君の能力は我々にとって非常に価値がある」
アオリは考え込んだ。王国の情報省で働くことは、大きなステップアップになる。しかし、「情報管理」という言葉に違和感も感じた。前世での「炎上商法」を思い出させるものがあった。
「少し考える時間をいただけますか?」
「もちろん」ヴィクターは寛大に微笑んだ。「だが、長くは待てない。3日以内に返事が欲しい」
アオリは宮殿を後にし、複雑な心境で宿に戻った。
「王宮からの誘いだって?」マルコは驚いた様子で尋ねた。
「ええ、情報省の特別顧問として働かないかと…」
「それは素晴らしいじゃないか!」マルコは興奮した。「情報省の顧問といえば、高い地位と報酬が約束されている。普通の人には手の届かない名誉だぞ」
アオリは悩ましげに頷いた。「わかっているんだ。でも…」
「でも?」
「情報省が何をしているのか、完全には理解できていない。『情報管理』という言葉に少し引っかかるんだ」
マルコは少し考えてから言った。「確かに情報省は時に厳しい情報統制を行うことがある。だが、それは国の安定のためだ。君なら内部から良い影響を与えられるかもしれない」
アオリは窓の外を見つめた。「そうかもしれないね…」
その夜、アオリは眠れずにいた。情報省の誘いは魅力的だが、何か引っかかるものがあった。前世での彼は、視聴者数と収益のためなら何でもする「炎上の帝王」だった。この世界では違う道を歩みたいと思っていたのに、また同じような道に進もうとしているのではないか?
「でも、内部から良い影響を与えられるかもしれない…」
彼は自分に言い聞かせた。王国の情報を扱う立場になれば、より多くの人々を助けることができるかもしれない。
翌日、アオリはグレゴリーを訪ね、相談した。
「情報省からの誘いか…」グレゴリーは思案顔で言った。「確かに名誉なことだが、君がいなくなるのは商人ギルドにとって大きな損失だ」
「私も商人ギルドでの仕事は続けたいと思っています」アオリは正直に答えた。「でも、王国レベルで貢献できる機会も魅力的で…」
グレゴリーは理解を示すように頷いた。「君の才能なら、より大きな舞台で活躍するのは自然なことだ。我々は君の決断を尊重する」
アオリは感謝の意を示し、さらに考えを深めた。
3日目、アオリは決断を下した。彼は王宮を訪れ、ヴィクターに会った。
「お待ちしていた」ヴィクターは微笑んだ。「決断は?」
アオリは深呼吸してから答えた。「お受けします。ただし、二つの条件があります」
「条件?」ヴィクターは眉を上げた。
「はい。一つ目は、商人ギルドのアドバイザーの仕事も続けさせていただきたい。二つ目は、情報省での私の役割を『特別広報戦略官』としていただきたい」
ヴィクターは少し考えてから、笑顔で頷いた。「興味深い条件だ。商人ギルドの仕事は構わない。そして、『特別広報戦略官』…良い響きだ。受け入れよう」
二人は握手を交わし、契約が成立した。
「明日から君は情報省の一員だ」ヴィクターは満足げに言った。「王国の未来のために、君の才能を存分に発揮してくれることを期待している」
アオリは丁寧に頭を下げた。「最善を尽くします」
彼は王宮を後にし、夕暮れの街を歩きながら考えた。
「王国の広報担当か…前世では企業の炎上マーケティングを担当していたけど、今度は国家レベルの広報戦略…」
彼は空を見上げた。夕焼けが美しく街を染めていた。
「母さん、私は正しい選択をしたでしょうか?この立場で、本当に人々を助けることができるのでしょうか?」
アオリの新しい挑戦が始まろうとしていた。王国の広報戦略官として、彼はどのような影響を与えることができるのか。そして、その過程で彼自身はどう変わっていくのか…
## 4
アオリの情報省での最初の日は、オリエンテーションから始まった。ヴィクターは彼を省内の各部署に案内し、業務内容を説明した。
「情報省は五つの部門に分かれている」ヴィクターは説明した。「情報収集部、分析部、広報部、噂制御部、そして特別作戦部だ」
アオリは興味深く聞いていた。
「情報収集部は王国内外の情報を集める。分析部はその情報を分析し、重要度を判断する。広報部は公式発表を担当し、噂制御部は有害な噂を抑制する。特別作戦部は…特殊な状況に対応する部門だ」
ヴィクターの説明は明確だったが、「噂制御」や「特別作戦」という言葉に、アオリは少し不安を感じた。
「君は主に広報部と噂制御部に関わることになる」ヴィクターは続けた。「君の『心理戦略』を活かし、効果的なメッセージを作り出してほしい」
アオリは頷いた。「具体的にはどのような案件から始めるのでしょうか?」
「良い質問だ」ヴィクターは微笑んだ。「実は、差し迫った問題がある。北部地域での穀物不足だ」
「穀物不足?」
「ああ。今年は北部で不作だった。しかし、この情報が広まると、パニックや買い占めが起こる可能性がある」
アオリは眉をひそめた。「では、事実を隠すということですか?」
「隠すのではない」ヴィクターは即座に否定した。「情報の『フレーミング』だ。事実は伝えつつも、パニックを防ぐ方法を考えてほしい」
これは「フレーミング効果」の応用だ。同じ事実でも、伝え方によって人々の反応は大きく変わる。
アオリは考え込んだ。「わかりました。案を練ってみます」
彼は自分の新しいオフィスに戻り、北部の穀物不足について考え始めた。単に「不足している」と伝えれば、確かにパニックが起きるだろう。しかし、別の角度から伝えることはできないか?
数時間後、アオリはヴィクターにプレゼンテーションを行った。
「私の提案は、『北部農業改革計画』というフレームで情報を発信することです」
「農業改革計画?」ヴィクターは興味を示した。
「はい。『北部地域の農業生産性向上のため、王国は特別な改革計画を実施します。その一環として、南部からの穀物供給を増やし、北部の農民には新しい農法の指導を行います』というメッセージです」
これは事実を隠すのではなく、別の角度から伝える方法だ。「不足」という否定的なフレームではなく、「改革」という前向きなフレームを使用する。
「さらに、『サンクコスト効果』を利用して、北部の農民の協力を得ることも提案します」アオリは続けた。「『既に多くの資源が投入されている改革計画』という印象を与え、農民たちが『もう後には引けない』と感じるようにするのです」
ヴィクターは感心した様子で頷いた。「素晴らしい提案だ。早速実行しよう」
アオリの提案は採用され、情報省は「北部農業改革計画」として情報を発信した。予想通り、パニックは起きず、多くの人々は改革計画を前向きに受け止めた。
この成功により、アオリはヴィクターからさらに信頼を得ることになった。
「君の手法は効果的だ」ヴィクターは称賛した。「次はより重要な案件を任せよう」
次の課題は、隣国ガリアとの緊張関係に関する情報管理だった。
「ガリアとの国境地帯で小競り合いが増えている」ヴィクターは説明した。「しかし、国民に不安を与えたくない。どう伝えるべきか、君の意見を聞かせてほしい」
アオリはこの問題に取り組み、「バンドワゴン効果」を利用した戦略を提案した。
「多くの国民が『平和を望んでいる』という印象を作り出し、それに同調する心理を利用します。『国民の声に応え、王国は平和的解決を目指す』というメッセージを発信するのです」
この戦略も成功し、国民の間に不必要なパニックは起きなかった。
アオリの評判は情報省内で急速に高まり、彼は次第に重要な会議にも招かれるようになった。そして、ある日、彼は情報省の最高機密会議に初めて参加することになった。
会議室には、ヴィクターを含む情報省の幹部たちが集まっていた。アオリが入室すると、一瞬、会話が途切れた。
「アオリ君、来てくれたか」ヴィクターが彼を迎えた。「今日は特別な会議だ。君にも参加してもらいたい」
アオリは緊張しながら席に着いた。
「では、本題に入ろう」ヴィクターは声を低くした。「南部鉱山地帯の問題だ」
南部鉱山地帯は王国の重要な資源地帯だが、過酷な労働条件で知られていた。
「鉱山労働者たちが不満を募らせている」ある幹部が報告した。「労働条件の改善と賃金の引き上げを要求しているが、それを認めれば王国の財政に大きな影響が出る」
「しかし、彼らの不満が爆発すれば、鉱山の操業が止まる」別の幹部が言った。「それも避けなければならない」
ヴィクターはアオリを見た。「君ならどうする?」
アオリは考え込んだ。これは単なる情報管理の問題ではなく、実際の労働条件という現実の問題だ。
「まず、実際の状況を正確に把握する必要があります」アオリは慎重に言った。「労働者の具体的な不満は何か、改善できる点はないのか…」
「それは既に調査済みだ」ヴィクターは冷静に答えた。「問題は、どう情報を管理するかだ。労働者の不満を抑え、同時に他の地域に不満が広がらないようにする方法を考えてほしい」
アオリは不快感を覚えたが、表情に出さないよう努めた。これは前世での「炎上商法」に似ている。問題の本質を解決するのではなく、表面的な対応で済ませようとしているのだ。
しかし、彼はプロフェッショナルとして冷静に対応した。
「『アンカリング効果』を利用する方法があります」アオリは提案した。「まず、非常に厳しい労働条件の『噂』を流します。実際よりも厳しい条件です。その後、実際の条件を『改善策』として発表するのです」
これにより、労働者たちは「最悪の状況は避けられた」と感じ、不満が和らぐ可能性がある。
「さらに、『おとり効果』も利用できます」アオリは続けた。「労働者たちに複数の選択肢を提示し、その中に明らかに劣る選択肢を含めるのです。そうすれば、他の選択肢が相対的に魅力的に見えます」
会議室の幹部たちは感心した様子で頷いた。
「素晴らしい提案だ」ヴィクターは満足げに言った。「早速実行しよう」
会議が終わり、アオリは複雑な心境で自分のオフィスに戻った。彼の提案は技術的には正しいが、倫理的には疑問が残る。労働者の実際の問題を解決するのではなく、心理的な操作で不満を抑え込もうとしているのだ。
「これは本当に正しいことなのか…?」
アオリは窓の外を見つめながら考え込んだ。前世では、視聴者数と収益のためなら何でもする「炎上の帝王」だった彼。この世界では違う道を歩みたいと思っていたのに、また同じような道に進んでいるのではないか?
しかし、彼はまだ情報省の内部にいる。この立場を利用して、内側から変化を起こすことはできないだろうか?
「まずは信頼を得て、発言力を高める必要がある…」
アオリは決意を新たにした。表面上は協力しながらも、少しずつ良い影響を与えていく。それが今の彼にできる最善の道だと考えた。
その夜、アオリは自分の部屋で、前世の記憶に思いを馳せた。
「母さん…私は正しい道を歩んでいるでしょうか?」
彼は窓から見える月を見上げた。銀色に輝く月が、まるで彼の迷いを映し出しているかのようだった。