9
*
「メル」
横たわる少女に短く呼びかけると、媚を含んだ薔薇色の眼差しが向けられる。調教を終えた女豹はいともたやすく腹を見せた。頭を撫でると、メルヴィナはあでやかに腕を絡めてくる。
「ねえ、ロイド。この前素敵なクラッチバッグを見つけたの。ワニの革でできてるんですって。面白いと思わない? 黒いバッグでね、とっても大人っぽかったのよ。ロイドの隣にいるのは、ああいう恰好いいバッグが似合う女の人のほうがいいかしら」
その問いには答えず額にキスする。「で、いつ買いに行くんだ?」「明日!」メルヴィナは当然のようにロイドの予定を把握していた。明日はロイドも暇な日だ。
メルヴィナが何か欲しがれば、ロイドはそれを与えることにしていた。はたから見れば貢いでいる風にも見えるだろう。
しかしそれこそが、メルヴィナとの恋人ごっこで演じることにした役割だ。優秀かつ忠実なエージェントに報酬を現物支給しているとも言える。
時には焦らし、時には即決で。サプライズのプレゼントにすることもあれば、今回のようにデートの口実に使うこともあった。
周囲にもわかる形でメルヴィナを可愛がることで、周囲に対する牽制になるからだ。メルヴィナはわざわざ命じずとも「ロイドに買ってもらったの」と吹聴するから効果はてきめんだった。ロイドの情婦に手を出す愚か者などフェルワース一家にはいない。フェルワース一家の優良顧客も同様だ。
それに、物を与えれば与えるだけメルヴィナへの洗脳もより強固になる。贈り物をもらえば、それに恩義を感じて礼を返そうと思うのは人のさがだ。メルヴィナもその例に漏れなかった。
これまで女に貢がれることはままあったが、言葉と快楽以外のものをロイドが捧げることはめったになかった。そのため「ボスが女ごときに腑抜けにされた」と憤ったり嘲笑ったりする部下もいないことはないが、そういう手合いもメルヴィナを知れば即座に黙る。
凄惨な拷問を見てもけらけらと笑いながら返り血を浴び、敵対組織の襲撃を受けても一切動じず、ロイドの命令ひとつで迷うことなく人を殺す少女に、一体誰が異論を唱えられるというのだろう。その肝の据わったありさまは、「ああでなければボスの情婦は務まらない」と誰をも納得させた。もっともそれは、肝が据わっているどころか心が虚ろだからこそできた芸当なのだろうが。
望みの物を手に入れる約束を取り付け、満足したのかメルヴィナはするりとロイドから離れていく。気まぐれなその視線にもうロイドは映っていない。
一糸まとわぬ姿ながら女王然とした気高さを失わないメルヴィナは、そのままシャワールームへと消えていく。水音が響くたびに情事の残り香が消えていくような気がした。
少し考えてからロイドもその後を追ったが、すげなく締め出されてしまう。残念だ、とひとりごちる口元にはうっすらと笑みが浮かんでいた。
約束の日はよく晴れた買い物日和だった。
目当ての鞄屋に着くと運転手が魔動車のドアを開けたので、ロイドはメルヴィナの手を取って降りる。高級感と威圧感にあふれた黒塗りのキャリッジは、フェルワース一家の財力の証だ。
眺めているうちに、メルヴィナは欲しい物が増えたらしい。「どっちのほうが似合うと思う?」と聞きながら、あれもこれもと手に取り出した。彼女の目線や声のトーンから、ロイドは求められているであろう言葉を選ぶ。
「そっちの真紅の鞄は、この前贈ったヒールによく合いそうだな」
引き合いに出すことで、プレゼントはただの作業で渡しているわけではないと印象づけ。
「どれも捨てがたいが、こういうシックな青い鞄ならいつもと違うコーディネートが楽しめるんじゃないか?」
普段のおしゃれもしっかり把握しているとアピールし。
「お前が純粋に欲しいと思った物こそが、お前を一番輝かせる。さあ、お前は何が欲しいんだ?」
そして、欲望をすべて肯定する。甘い囁きに、メルヴィナは期待に瞳を輝かせた。
「じゃあ、全部」
検討していた品をすべて買い込み、メルヴィナはご満悦だ。この前彼女に殺させた市議会議員がいるので、彼を強請って得た金と、彼のライバル議員から引っ張った金を思えば十分経費の範疇で処理できる。たかが鞄をいくつか買った程度で殺し屋への報酬になるならむしろ安上がりだ。
プレゼントは報酬の現物支給、生活費は情婦への手当て。メルヴィナを飼うためにかかる金は思ったより高くない。上下関係に起因する信頼ではなく恋愛感情を担保にしているため量産はできないが、一点ものとして性能は十分だった。この辺りが、組織の経理担当もロイドの遊びに口を出さない理由だろう。
「そろそろ次の店に行くか。新しい鞄に合う、新しい服と小物が必要だろう?」
「ええ!」
メルヴィナにはまだ未払いの仕事が何件かあった。まとめて清算してしまおう。
街を歩いていても、誰もメルヴィナに気づいた様子はない。地方都市では誰もが自分のことにしか関心がないからだ。赤の他人は通行人か店員という置物でしかなく、顔も名前も知らないというのは都会ではよくあることだった。
ましてや美しい毒蛾へと変貌を遂げたメルヴィナを、誰が領主の息子の元婚約者だと見抜けるだろう。メルヴィナの知人ですらも、あの地味で純朴で清楚な乙女とこの鮮烈で華麗で淫靡な娘を結び付けられなかった。
さすがにかつての勤め先である仕立屋や、実家のアパートメントの周囲には立ち寄らせていないが、ロイドに愛されることにした彼女にとってもうそこは過去の場所らしい。
彼女はそこに一切の未練を見せていなかった。いい傾向だ。ロイドが用意した標本箱の中にだけいれば、洗脳も早々解けないだろう。
ドリー子爵にはとっくに手を回してある。彼はメルヴィナの現状を快く受け入れた。元々子爵やメルヴィナと付き合いのあった上流階級の人間も、「子爵は結婚を目前にして心を入れ替え、平民の愛人をよそに下げ渡したのだろう」と納得している。知らないのは下層市民だけだ。
貴族の恋人でなくなった平民を、上流階級の人間が相手にする道理はない。メルヴィナの次の男が裏社会を支配するロイドだったということもあり、表立って詮索する者もいなかった。あの嫉妬深い婚約者がいなければ、子爵はもう少し食い下がったかもしれないが……その時は、彼に警告するだけだ。いくら手懐けられた野犬でも、頑強な牙があることには変わりはない。たまにはそれを思い出してもらわなければ。
メルヴィナは何も言わずとも、ロイド好みの扇情的な装いで自らを飾り立てる。眩しいデコルテやすらりと伸びた手足の魅力を知り尽くし、そしてくびれがいかに可愛らしいかを理解していなければ着こなせない服ばかりだ。
かつてのメルヴィナであれば、きっと選択肢にも数えなかっただろう。彼女にそれを求めていた者はいなかったのだから。だが、今それらを手に取って鏡の前で体にあてるメルヴィナに、一切の迷いは感じられなかった。
飾れば飾るほどメルヴィナは美しくなる。すっかりロイド好みになったこの美女を彩るのは、ロイドにとっても楽しい仕事だ。メルヴィナにはいつまでも美しく咲き誇ってもらわなければ。
濃い赤のリップは自信の象徴だ。長いまつげに覆われた薔薇色の瞳は淫靡に潤み、常に獲物を探している。甘い香りを放つ肢体に息を吞んだ男は数知れない。そんな彼女はロイドのことすら澄まし顔であしらい、けれど必ずロイドの傍にいる。メルヴィナほど可愛い女を手放すつもりはなかった。
レストランで夕食を済ませてから屋敷に帰ると、ロイド宛に花束が届いていた。表の名前で出資している孤児院の孤児達からだ。
病院、孤児院、そして救貧院。ロイドの息のかかった福祉施設からは、運営に関する報告と一緒に、つまらないものが定期的に贈られてくる。記録に残してから捨てるよう伝えた。
形として残る物なら倉庫代わりの家に運ばせて保管し、しかるべき時を劇的に演出する小道具として利用するが、花はどうせすぐ枯れる。取っておく意味はない。
「いいか、メルヴィナ。有象無象に対してどれだけ善行を積もうが、それが自分に返ってくるわけがない。やるだけ時間と労力の無駄だ。それでもやるとしたら、ただの自己満足以上の意味はないんだよ」
どこかで一度助けた者が、今度は自分を助けてくれる。何か施した善い行いが、巡り巡って自分のためになる。実に馬鹿馬鹿しい確率だ。そんな不確かなものに頼る気はない。
通りすがりの他人のことなんて、人はすぐに忘れてしまう。大々的に功績を伝えなければ、誰にも気づかれず埋もれていくだけだ。「いいことをした」と安い自己満足で完結できる、都合のいい真似はまっぴらだった。
「じゃあ、どうしてロイドは孤児院に寄付してるの?」
「あいつら一人一人が、俺にとっては重要だからだ」
ただの背景ではなく、便利な手駒として。
価値を与えてロイドの舞台に引き上げるためには、向き合ってスポットライトを当ててやる必要がある。
自分の、あるいは身内の窮地に手を差し伸べてくれたのは誰なのか。一体誰にどうやってその恩を返せばいいのか。それをしっかり教え込ませたいなら、やみくもに陰ながらの優しさを振りまいたって意味がない。特定の個人に、目に見える形でなければ。
「ふぅん。じゃあ、やっぱり貴方はいい人なのね。取るに足らない人達のことを気にかけてあげるなんて」
メルヴィナは嗤う。間抜けな善人を嘲笑っているのか、あるいは綺麗事で包んだ本音を見透かして詐欺師を嘲笑っているのか。
それとも、自分もそうやって引き上げられた側の人間だと自嘲しているのか。
ロイドはその答え合わせをせず、優雅に微笑んでみせた。
「善行を積む時は相手をしっかり見て、相手のことを考えないと駄目だからな。どうせなら、お互い円満に付き合えるようないい関係を築きたいだろう?」
*