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フェルワース一家という名前は、この国の人間……それも特に西側で暮らす者であれば、子供であっても一度は耳にしたことがあるはずだ。
だが、直接働く構成員ならともかく、組織のボス本人となれば面識がある者はそうそういない。市井に知れ渡っているのは肩書と存在だけだ。
特にロイドは二年前に当主を襲名した時から、堅気を巻き込む派手な抗争よりも狡猾かつ確実な暗殺を好んでいたので、代替わりを知らせるべく数度新聞に顔と名前を載せられた以外はさほど話題にはなっていなかった。街を歩くロイドを見て顔を引きつらせながら道を開けるのは、大なり小なり裏の稼業にかかわる者だけだ。
外見だけで言うならば、ロイドは組織の誰より上品かつ軟弱そうに見える。傷を負って失明した右目を覆う大きな黒い眼帯だけは異彩を放っていたが、長い前髪を右目に垂らして隠しているのであまり目立たなかった。
見る者が見れば、その印象が思い違いであるとすぐに気づくだろうが……ロイドは、悪の匂いを消して表の社会に溶け込めるよう己を偽装する技術に最も長けていた。
そのせいで、クラーレ夫妻のような善良な小市民に疑われることなく近づくのは、皮肉なことにロイドが一番適していた。
「貴族の愛人になるぐらいだったら、もっと早く隣のせがれの嫁にやるんだった。あのせがれが独り立ちしてからなんて、悠長に構えるんじゃなかったぜ」
クラーレは苦々しげに吐き捨てる。それは娘を案じていると言うより、思い通りにならなかった苛立ちの表れに見えた。
「だからさっさとお隣さんにもらってもらうべきだって言ったじゃないですか。お父さんが意地なんて張ってるから。……メルヴィナは頭が悪いし、生まれつきの愚図なんです。そのぶんあたしらがしっかりしないといけなかったんですよ、あの子を守るために! あの子が悪魔に取り憑かれて道を踏み外さないように、大切に育ててきたんですけどねぇ。結局こうなっちまった。まったく、恥ずかしいったらありゃしない」
涙をぬぐい、クラーレ夫人は深いため息をつく。どうだか、とロイドは心の中で毒づいた。
「あんたにもわかるだろう? 人間にゃ身の丈相応の幸せってもんがあるんだ。メルヴィナを幸せにしてやれるのは、隣の家のせがれのジョズしかいねぇのさ。幼馴染のあの坊主が、メルヴィナのことを一番よくわかってんだ。それなのに、あの馬鹿娘ときたら! 領主の坊ちゃんなんかにうつつを抜かしてないで現実を見ろって、俺達がどれだけ言い聞かせても聞きやしねぇ」
クラーレはもごもごと、「うちの娘が坊ちゃんのお眼鏡に適ったのは名誉なことだってのはわかってるぜ」と付け足した。ロイドは子爵の従者で、メルヴィナの足りない私物を引き取りに来たと伝えたから、遠慮があるのだろう。
「坊ちゃんもすぐ娘には飽きるでしょう。貴族のお嬢さんにはべっぴんさんが多いですからね。……あんなあばずれでも、あたしらにとっては大事な娘です。奉公が終われば、どうかそのまま返してやってはくれませんか」
「子爵には伝えておきます。きっとよくしてくださるでしょう。ですが……私の立場でこういうことを言うのもはばかられるのですが、この家に帰ってお嬢さんはどう暮らしていかれればいいとお考えで?」
「そりゃ、ジョズと結婚させますとも。ジョズはよくできた子なんですよ。出戻りでもいいって、お隣さんとも話がついているんです」
「結婚もしてない男に股を開いたふしだらな女を、嫁にもらってくれる男なんざいねぇと思うだろ? だけどジョズは違うのさ。あんな心の広い男はいねぇ。これで万事解決、すべてがあるべき形に戻るってなもんだ」
「ジョズと結婚すれば、メルヴィナも人並みの人生に戻れます。もうあたしらはお隣さんに頭が上がりませんよ」
「……なるほど。さすがご両親は、お嬢さんのことをよく考えていらっしゃるんですね」
残念ながら、メルヴィナがクラーレ家に戻ることは二度とないが。
メルヴィナが元の世界に戻ってジョズとやらと結婚したところで、夫やその家から永遠の服従を求められるのは目に見えていた。その束縛を拒むには、メルヴィナの瑕疵があまりに大きすぎる。世間様はいつだって、立場の弱いほうしか責めないのだから。
愛人になるのは、召し上げた貴族ではなく見初められた平民のせい。純潔を失うのは、奪った男ではなく奪われた女のせい。弱者に責任を押しつけていれば、反逆されることはない。
「なあ、奉公してる間は毎月お手当てが出るんだろ? いつからもらえる? 毎月いくらぐらいなんだ? ほら、結婚式のために貯めとかねぇといけねぇからな。その一部を持参金にするって、隣ともう決めてあるんだよ」
「それについては、改めて子爵から使いが出ることでしょう」
どれだけ待とうが、子爵がクラーレ家に金を払うことはないだろう。愛人にされた娘が金に見えるぐらいなら、この夫婦も金を払ってまで娘を取り戻そうともしないはずだ。
家の様子からも夫婦の経済状況は把握できる。手狭なアパートメントで暮らす、中流の下に位置する家だ。金にはならない。
(帰らない娘と支払われない手当てを一生待ちながら、せいぜい間抜け面をさらしていろ)
ロイドだって、メルヴィナを返す気は欠片もない。今日クラーレ家に来たのは、娘の失踪についてその親が何か余計なことを考えていないか確かめるようにと子爵からの依頼があったからで、娘の身柄を預かる者として夫婦から引っ張れる金がないかついでに確認したかったからだ。
子爵直々の使命なので、適性の面以外でもロイド自身が足を運ばなければならなかった。子爵の元婚約者メルヴィナがフェルワース一家の手に落ちていることを知っているのはロイドだけだ。世話係のニコも遣わせた売春婦達も、メルヴィナの素性までは知らない。
子爵への報告は、「一切問題なし」でいいだろう。この夫婦の様子なら、隣の家に一生ぺこぺこしながら恥をかかせた娘に毒づき続けるに違いない。
(親が金にならないのは残念だが、隣の家の男から金を引き出せるかもしれない。後でその男にも接触してみるとしよう)
メルヴィナの私物を引き取るという名目があるので、茶を飲むのもそこそこに彼女の部屋に通してもらう。十六歳と聞いてはいたが、とてもその年頃の娘の私室とは思えないほど殺風景な部屋だった。
「馬鹿を見ないように、きっちり教育してたんです。器量よしだからって増長すれば、嫌われたりひどい目に遭ったりするでしょう? そうならないように、身の程をわきまえさせてきたんですよ」
ロイドが何を言わずとも、クラーレ夫人は得意げに胸を張った。だが、すぐにその表情が曇る。
「そんな親心も知らないあの子は針子なんかになって、挙句お貴族様のお屋敷に行っちまった。真面目ないい子になってくれたと思ってたんですけどねぇ」
「地に足つけて生きてくれりゃあそれでよかったのになぁ。だから仕立屋なんぞに勤めさせるのは反対だったんだ。浮ついた奴しかいねぇんだから。働くなら西区の工場にしろって、あれほど言ったのに」
「一度目は勤め先のこと、二度目は領主の坊ちゃんのことだけですよ、あの子があそこまで反抗的になったのは。誰に何を吹き込まれたんでしょうね。そういう悪い考えに染めてくるような、品のない友達と付き合わせた覚えはないのに。ほら、あの子はちょっと足りないから、人に影響されやすいんです。だから、あたしらやジョズみたいなしっかりした人が守ってやらないといけないんですよ」
夫婦の嘆きを聞き流しながら、ロイドはクローゼットを開けたり机の引き出しを覗いたりする。より深くメルヴィナの心に踏み込むために、メルヴィナの情報が必要だった。自分の心の内をぴたりと言い当てられれば、人はその相手を慧眼の持ち主だと信じ込んでくれる。
(なんだこれ。芋臭いババアの部屋着か?)
部屋と同じく、クローゼットもまったく無味乾燥だった。黒、灰色、たまに茶色。露出のろの字もない、古臭い服ばかりだ。色気どころか若々しさの欠片もない。間違えてクラーレ夫人の部屋に通されたのかと思った。
初めて見た時の下着はまあまあだったが、あれは子爵の趣味で贈ったものだった可能性がある。よくこのみじめな古着で仕立屋の針子が務まったものだ。偶然子爵に声をかけられただけで、接客はあまり担当してこなかったのだろうか。
思えば、これまでメルヴィナの私服を見たことはなかった。領主の館から連れ出した時は下着姿だったし、仕入れたばかりの女を一時的に置いておくあのアパートメントにはニコが見繕った衣装か、不要になったと先輩売春婦が置いていった衣装しかない。
もしフェルワース一家が経営する店の商売女達にメルヴィナの私服を見せたら、金をもらっても絶対に着ないと突っぱねられることだろう。そのあたりの下町の娘でも、もっとましな服を着る。
あれほどの美貌に恵まれながら、メルヴィナに自信がない理由がもう一つわかった。こんなしなびた服を着ている女に声をかける男はいない。いかに顔がよくても、不釣り合いな装いに甘んじているというのは何かしらの欠陥があることの証明だ。
図らずも子爵の眼力がメルヴィナを見つけてしまうまで、あの原石はただの石くれとして転がっていた。それこそが、彼女の両親が娘に望んだ通りの姿だったはずだ。子爵の嗅覚が冴えわたっていなければ、メルヴィナは自分の価値にいつまでも気づかず、かといって心に深い傷を負うこともなかっただろう。
(皮肉だな。綺麗な水だけ与えて純粋に育てようとしたはずなのに、根元から歪んで腐るんだから)
こんな服は必要ない。曲がりなりにもフェルワース一家が雇う商売女がこんなものを着るなどロイドの美意識が許さないし、着る機会も与えるつもりはなかった。
植木鉢だとか日記帳だとか、そういう代替の利かなそうなものだけ回収するにとどめた。日記帳を確認したが、まあまあ読み書きはできるらしい。字も綺麗だ。教会主催の日曜学校にでも通っていたのかもしれない。
読み込んだ後のある詩集や小説もついでに持っていく。隠すようにこっそりとしまい込まれていたから、クラーレ夫妻の目に留まるとまずいだろう。残していた愛読書が見つからないか、それだけのためにメルヴィナの集中が削がれるぐらいなら渡してやったほうがいい。
「おい。この辺じゃ見ない顔だな。おじさん達に何の用だ?」
用事を済ませてクラーレ家を出ると、隣の部屋から声をかけてくる筋肉質の青年がいた。雰囲気からして大工職人かもしれない。
昼間から酔っているのか、その無骨な顔は赤らんでいる。手には酒瓶が握られていた。きっと彼がメルヴィナの幼馴染のジョズだろう。見るからに鼻っ柱が強そうで、ロイドをじろりと睨みつけていた。
「子爵の使いでまいりました」
「けっ。メルヴィナに何かあったのか?」
「いえ、そういうわけでは」
ジョズは無遠慮にロイドをじろじろと見つめて鼻で笑った。まあ、そのたくましい二の腕をぶら下げていれば、いつでもロイドの骨を折れると高をくくりたくなるのも仕方あるまい。この野蛮な青年がいっそ哀れに思えてきて、ロイドは凪いだ気分のまま微笑を浮かべた。
「子爵もとんだ好き者だな。よりによってあんなスベタを選ぶなんて」
「まさか本気でおっしゃっているわけではないでしょう?」
「おっと、子爵を馬鹿にしたわけじゃないぜ。女がより取り見取りなんだから、たまにはブスを見たくなる気分にもなるだろ」
悪いのは目なのか、それとも頭や心なのか。医者か悪霊の祓い師、好きなほうにいけばいいと専門家の訪問を勧めると、ジョズは目を白黒させた。
可哀想に、医者でも手遅れかもしれない。どうやら彼の美醜感覚はもはや手の施しようがないようだ。
「その子供じみた意地は、昔から張っているのでしょうか? 貴方が何を主張しようと、客観的な真実は何も変わらないと思いますが」
「はぁ? てめぇイカれてんのか?」
これからフェルワース一家の商品になる女にケチをつけられ、偏見で喚かれるのはさすがに不愉快だ。これではまるで、買い取ったロイドの審美眼に文句をつけられているようではないか。
「まあいいや。メルヴィナに伝えといてくれよ、俺は子爵のお下がりで我慢してやるからさっさと帰ってこいってな。どうせあんなズベ公、他に行く当てもねぇだろ。もらってやるだけありがたく思ってほしいもんだぜ」
(この男には、商談を始められるほどの知能はなさそうだな)
何がおかしいのか、ジョズはげらげら笑っている。クラーレ夫妻には聞こえていないのだろうか。
これが美しい幼馴染の絆を信じて初恋に夢見る無垢な青年であれば、捕らわれの姫を助け出すためにいくらでも金を差し出してくれただろうに。当てが外れて残念だ。
「なあ、聞いてんのか!」
無言のロイドに気分を害したのか、粗野な酔っ払いが酒瓶を構える。おどしのためのそれは、ロイドの鼻先を通って力いっぱい壁に叩きつけられるはずだった。
しかしそうなる前に、向けられた敵意に対して身体が自然と反応する。一瞬のうちにロイドの身体能力が魔力で強化される。ロイドはジョズの手から酒瓶を叩き落とし、その腕をひねるように取り押さえた。
「ああ、悪い、つい手が出た」
酒瓶が床に落ちる音が響く。近所の部屋から住人が顔をのぞかせたので、ロイドはそのまま手を離した。ジョズは茫然と立ち尽くしている。ひねる時にだいぶ力を入れたので、当分腕は使えないだろう。
「外見と暴力を誇示するのは自由だが、威圧する相手は見極めるべきじゃないか?」
真っ向から絡んでくるチンピラに遭遇したのは久しぶりだ。新鮮な気持ちになった。
近隣住民に「騒いですまない」と帽子を取って頭を下げ、ロイドは帰路へとついた。
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