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「死んでなんになる。あの男が愚行を悔いてくれるとでも? とんでもない。あの男は、あっさりお前を忘れるぞ。貴族にとって、平民の命は埃も同然だ」


 ロイドは嗤った。その言葉は、メルヴィナの心を深く貫く。


「お前のつらさや苦しみは、俺には推し量ることしかできないが……あれだけの苦痛を味わわされて、このまま泡沫うたかたのように消える気か? あの男は、お前の小指の爪の先ほどの傷すら負っていないのに」

「で、でも、わたし」


 色香を纏う鳩羽色の隻眼が静かにメルヴィナを映す。言いよどむメルヴィナに、ロイドは小さく頷いた。


「メルヴィナ、お前は貞淑な女だ。惚れた男に尽くしたかっただけなんだよな。心からあの男のことが好きだったんだろう?」


 そう。好きだった。子爵の欺瞞に気づきもしないで、のぼせ上っていただけだったとしても。


 確かにメルヴィナは、彼を愛していたのだ。愛していたからこそ、すべてを捧げてしまった。取り返しのつかなくなるほどに。


「お前の涙ぐましい献身に対してあの男は応えたか? 美しい愛を捧げたお前に、あの男が贈ったものはなんだ?」

「あ……愛は、見返りを求めるためのものではないわ……!」

「だが、無限に湧き出るものでもない。互いが互いに無償の奉仕を行うことで、はじめて崇高な循環が生まれるんだ」


 ロイドの声は耳に心地よく響いた。そういう声質なのか、低くなめらかな彼の声を聴いていると安心感がもたらされる。


「あの人のこと……運命だと、そう思ったの。わたし、あの人を信じきっていて……でも、あの人は……! あの人にとって、わたしって一体なんなの……?」


 しゃくりあげるメルヴィナに、ロイドは温かく付き合ってくれた。


 彼は共感の言葉をかけ、泣き疲れたと見ればホットチョコレートを用意し、優しく背中をさすってくれる。最初は男に接触されることに身をこわばらせたメルヴィナだが、次第にその恐怖も溶けていった。


「運命の恋が悲劇で幕を閉じたからと言って、お前自身の恋心まで否定する必要はないさ。……ただ、冥府に連れていく最後の男をドリー子爵にするのは、少しもったいないんじゃないか? お前はこんなにいい女なのに」


 どうせ死ぬなら、あんな男との思い出ではなくて、もっといい思い出を抱いてからでも遅くはない──続けられたロイドのその言葉は、確かに一理あった。


(そうかもしれない。確かにこのまま死んだって、どのみち嘲笑われるだけだわ)


 だったら、屈辱にまみれたままでも生きていたほうが、まだ見返す機会があるように思えた。

 せめてもう少しいい思いをしてからでないと、死んでも死にきれないに違いない。


「なあ、メルヴィナ。俺達が知り合ったのは何かの縁だと思わないか? よければ俺に、何か手伝わせてくれ。俺がお前の力になろう。お前には幸せになってほしいんだ」


 手をそっと握られ、真摯に訴えかけられる。その真剣な眼差しに、メルヴィナの心に迷いが生まれた。


 彼が金で自分を買い取っていたという事実は、ちゃんとメルヴィナの頭にも残っていた。


(けれど──もしかしてこの人は、わたしを助けるために大金を払ってくれたの?)


 そうだ、そうに違いない。だって、彼はこんなに優しくしてくれるのだから。


 気づけばメルヴィナは、こくんと小さく頷いていた。


*


(堕ちたな)


 少女が手を握り返して熱っぽく見つめてきたので、ロイドは心の中で冷笑を浮かべた。


 女があれこれと御託を並べる時は、間違っても本気などではないということを、ロイドは経験をもって知っていた。


 「引き止めないで」は「早く引き止めて」、「構わないで」は「もっと構って」だ。

 断固とした意志によって発せられた短く固い拒絶の言葉以外は、一切信じるに値しない。


 死にたい、死にたいとうわごとのように口にするメルヴィナだって、いざ刃物の冷たさや首を絞めるロープの感触を味わえば、恐怖と後悔に侵されることだろう。本気で死にたいと思っているのなら、ロイドの綺麗事などに耳を貸すわけがない。


 ロイドはそれを見抜いていたからこそ、仮初の救いの糸を垂らした。

 それにメルヴィナが飛びつけば、勝手に金を運んでくる便利な道具のできあがりだ。そして、すべてはロイドの思い通りになった。


 優しさとか信頼とか、そういう言葉がロイドは大好きだ。金になる木を育てる合言葉なのだから。

 だからロイドは目をかけた者には優しくするし、信頼を勝ち取るべく努力していた。そうすれば、相手はロイドのための従順な奴隷になってくれるからだ。


 ロイドは誰のことも信用しない。

 だが、傍に置く者はロイドに絶対の忠誠を誓っていなければいけない。忠実な下僕は、多いに越したことはなかった。


 ロイドをよく知る者は、ロイドのことを魅力的な男だと言う。だから彼らはロイドを信じ、愛し、期待に応えようとする。


 魅力という幻想の正体は、言ってしまえば相手の好みだ。

 外見、性格、仕草、表情、言葉遣い。なんであろうと、自分が好むものと合致することがあるのなら、その瞬間から惹かれていく。

 捉えさせるものは、有象無象に理解できないもので構わない。眼前の獲物を虜にできればいいのだから。


 相手の好みを即座に察知し、それに応じた振る舞いを見せて理想を演じることができる者。


 それこそが魅力的な人間で、ロイドはまさにそんな人間だった。

 

 メルヴィナと内容のない会話をする間にも、ロイドは今後の方針を固めていた。


 借金苦から逃れたいか、麻薬クスリのやりすぎでまともな仕事に就けないか、あるいは他の事情があるか。様々な理由で売り込まれた売春婦の買い付けと教育は、部下に任せるようにしている。

 そんな些事にロイドが出る必要はないし、そもそもロイドが一人であれこれとやったところで組織は回らないからだ。一家のボスが雑用をこなすとなれば、組織の面子めんつにもかかわってくる。


 だが、メルヴィナ・クラーレの場合は事情が少し違った。

 なにせ、彼女を売り飛ばしたのは領主の息子なのだ。

 貴族、それもこの領地を預かる一族の人間からの呼び出しなら、ロイドだって重い腰を上げざるを得なかった。


 メルヴィナは一見すると地味だが、長い前髪を寄せればきらめく薔薇色の瞳が見える。子爵のお気に入りになるだけのことはあり、彼の支援の結果か髪や肌もよく手入れされていた。

 形のいい眉や鼻筋、そしてあどけない唇が少女の可憐さを引き立てる。出るところは出て引き締まるところは引き締まったその体型も、昨日しっかり確認済みだ。


(子爵がメルヴィナを殺すことを思いとどまったのも無理はない。この美貌と体つきを前にしたら、欲が出て当然だ)


 フェルワース一家に売れば、何かの折にまた抱けると思ったのだろう。

 その時こそ、女の結婚願望にも血統の問題にも悩まされることなく、ただ欲望のままに彼女の身体を貪ることができる。薬を使うなり拘束と目隠しを行うなり、捨てた女であろうと抵抗されずに平然と抱く方法はいくらでもあった。


 犯罪行為に対する目こぼしの返礼として権力者にへつらう真似をするのは、ロイドだって慣れていた。先代も先々代も、権力者に便宜を図ってもらうために何かと献身的・・・に振る舞っていたのだ。


 金、武力、そして女。

 権力者の側もフェルワース一家と懇意にすることを望み、必要なだけの報酬を用意した。なんと崇高な循環だろうか!


 平民においた・・・をしすぎた貴族の尻拭いは、仕事としてはそこまで珍しいものではない。

 とはいえ、大抵はぼろ雑巾のようになった死体を片付けるだけなので、生きて子爵の屋敷から出られたメルヴィナは幸運だったと言えるだろう。せっかく拾った命なのだから、ロイドのために使ってほしいものだ。


 気に障ったから、たまたま目に入ったから、顔が好みだったから……どんな理由であれ、私刑も強姦も貴族にとっては日常茶飯事だ。


 貴族達の悪行は、フェルワース一家のような優秀な掃除屋のおかげで巧妙にもみ消されている。一部の過激で間抜けな貴族の醜聞がたまに漏れ出る程度だ。


 だが、平民ごときが貴族に逆らえば何か良くないことが起きるというのは、暗黙の了解として平民の間に知れ渡っていた。


 貴族などという生き物には、金を吐かせて地位を利用する以外の目的で近寄るべきではないのだ。

 どうせ向こうも平民のことなど家畜程度にしか思っていない。ロイドのような立場の者のことすらも、犬かよくて狼ぐらいにしかみなされていないだろう。あるいは、腐肉にたかる禿鷲かもしれない。


 それにもかかわらずメルヴィナは、貴族に人間として扱ってもらえると誤解した。馬鹿な小娘だ。その凋落ぶりは自業自得と言えた。だが、だからこそ付け入りやすい隙がある。


 この国の裏稼業、その大部分を牛耳っているのはフェルワース一家だ。

 東のアルヴァク一家、西のフェルワース一家。それがこの国の闇を象徴する二大犯罪組織だった。


 特にフェルワース一家の本拠地であるこの領地では、酒場に賭場に売春宿と、一家が直接経営に関与している店が多い。代替わりの仕方は少々荒っぽかったものの、ロイドはすでに組織を掌握していた。


 メルヴィナほどの美貌なら、ある程度のグレードの娼館に置いてもいいだろう。ただの酌婦にするのは惜しいが、男と寝るのが嫌ならば賭場の給仕にしてもいい。芸を仕込んで舞台に立たせるのも悪くなかった。


 いずれにせよ、経費はすぐに回収できる。さすがにこの街では体裁があるため難しいが、それならよその街に連れていけば済む話だ。評判を気にしなくていいから、メルヴィナも気兼ねなく新生活を始められることだろう。


「あの……わたし、貴方のことをなんて呼べばいいのかしら」

「ロイドでいい。堅苦しいのは嫌いなんだ。その代わり、これからもメルヴィナと呼び続けていいか?」


 メルヴィナははにかんだ。それこそがロイドへの信頼の表れだった。


 メルヴィナを商品として売り出すめどは立った。だが、彼女がここに堕ちた経緯を考えると、雑に扱えばまた壊れかねない。


 せっかく芽生えた忠誠の芽が、何もしないうちから潰えてしまうのは惜しかった。だからロイドは、新しく手に入れたこのおもちゃをなるべく大切かつ丁寧に育てていくことにした。


 もともと、歯の浮くような台詞を本気にして調子に乗るような小娘なのだから、ロイドにだって簡単に操れる。時間はかかるが、楽な仕事だ。


 他の売春婦と引き合わせ、今の環境がいかに恵まれているか刷り込み、徐々に仕事を覚えさせればいい。

 専用の娼婦としてであれ子爵を入れ込ませたのだから、味は保証できるだろう。子爵以外の男を知らないのか、若干男慣れしていない風にも見えるが、初々しさは武器になる。土台が整えば、すぐにでも商品になるはずだ。


「少しは元気になったようでよかった。これからはきちんと食事できそうか?」

「うん……」


 顔を赤らめ、メルヴィナは小さくうつむく。


 きっと彼女の目に映るロイドは、自分を窮地から救い出したヒーローなのだろう。実態は、彼女を利用することしか考えていないヴィランなのに。


 ロイドは傷心の女や不幸な女が好きだ。優しくすればたやすく懐く。彼女達は恋愛対象としての好みとは真逆に位置するが、商品としてなら最適だった。


 だからロイドは恵まれない子供達への支援を惜しみなく行って死を恐れない兵隊に育てるし、絶望する男女の前に現れては命を金に換えさせる。


 それで万事うまく回るのだから、フェルワース一家とはあらゆる人を幸せにできる実に素晴らしい慈善家の団体なのだ──それはロイドがよく口にする皮肉であり、本心でもあった。


(生きる希望を見出せてよかったな、メルヴィナ。骨の髄までしゃぶらせてもらうから、せいぜい俺の役に立ってくれよ)


 悪魔の心をひた隠す青年は、聖人君子の笑みを浮かべた。

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愛は、見返りを求めるためのものではない。だが、無限に湧き出るものでもない。 っていうのは、いいセリフだなあ。愛でも親切心でもいいけど、そうだよね。そして、ロイドさんは凄腕だった。現代でもそういうとこあ…
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