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「メルヴィナさん、朝食ですよ」


 朝になると、寝室に老婆がやってきた。

 鍵はかかっていたはずだが、管理人なら合鍵程度は持っているだろう。


 一睡もできなかったメルヴィナは、か細い声で「いりません」と答えて掛け布団を被った。


「何を言います。食べなければ力は出ませんよ」


 ニコは呆れながらサイドテーブルにトレーを置き、強引に寝具を剥いだ。


 彼女が持ってきたトレーには、オートミールと濡れたタオルが置いてある。ニコは泣きすぎて真っ赤に腫れ上がったメルヴィナのまぶたにタオルを当て、静かに告げた。


「痛みや苦しみを感じるのであれば、それは貴方が生きている証拠です。であれば、その命を大事になさい」

「どうしろって言うのよ……。こんな目に遭って、生きていたいと思うとでも?」

「さあ。ばばあにはわかりませんよ。まあ、生きあがけばそのうち何かがあるんじゃないですか?」


 無責任な老婆は、オートミールをすくって無理やりメルヴィナに食べさせようとした。

 強引に口の中に入ってくるスプーンがおぞましい行為を想起させて、メルヴィナは反射的にその場でえずいてしまう。胃の中のものをすべて吐き出し、メルヴィナは涙目のまま荒い呼吸を繰り返した。


「あらあら。洗濯しなければいけませんね。そら、どいてくださいまし。寝るのなら居間のソファでどうぞ。ついでに顔も洗ってきたらどうです?」


 タオルだけ渡されてベッドの上から追い出され、着替えさせられたメルヴィナはよろよろと部屋を出る。


 洗面所で鏡を見ると、亡霊のような女がこちらを睨みつけていた。


(父さんと母さんは、少しぐらいは心配してくれているかしら。職場にも行かないと。……子爵は今頃、どうしているの?)


 心は鉛のように重く、ソファに沈めた身体は言うことを聞かない。


 メルヴィナを絡めとろうと、不安が次々押し寄せる。それからどうにか逃れたくて、メルヴィナはぎゅっと目をつぶった。


 いつの間にか眠ってしまったらしい。目を開けると、壁際にロイドがたたずんでいた。


「起きたのか」

「きゃあッ!?」


 思わず悲鳴を上げてしまい、とっさに口元を押さえる。


 この男の不興を買えば、その時こそ何をされるかわからない。人を一人殺すのだって、きっと彼なら簡単にやってのけてしまうだろう。


(ああ……でも、今さら何を怯えることがあるのかしら。どうせもう、希望なんてないのに。殺してもらえるなら、いっそ……)


「朝から何も食べていないとニコから聞いたぞ。腹が減っていないのか?」

「た……食べるわけがないでしょう! 何が入ってるか、わかったものじゃない!」


 手近にあったクッションを投げつける。ロイドはそれを軽々と受け止め、すぐそばのキッチンを指さした。


「それだけ吠えられるなら腹も減るだろう。スープを作ってやったから、気が向いたら食え」

「……」


 警戒の眼差しに思うところがあったのか、ロイドはキッチンに向かうと鍋を持ってきて、二人分のカトラリーとスープ皿を用意した。


 メルヴィナの目の前で鍋の蓋が開けられる。チキンのクリームスープだ。


 食欲をそそる匂いに、思わず腹の虫が鳴る。こんな時でも腹が減るのが恥ずかしかった。

 しかしロイドは気にも留めずにスープを皿に盛り、ためらいなく口に運んだ。


「わざわざ薬漬けにすると思ったか? 麻薬だって立派な商品だ、欲しがらない奴……客じゃない奴に渡すわけがないだろう」


 ロイドはふっと微笑んだ。影の差した端麗な顔立ちに柔らかな彩りが添えられる。あれほど恐ろしく見えていた悪魔が年相応の青年へと変化していった。


 ロイドがあまりに美味しそうに食べるので、自然とメルヴィナの手がスプーンに伸びた。


 ロイドは何も言わずにメルヴィナの分のスープをよそう。おずおずと口をつけた。温かい。


 鶏肉と野菜のうまみが溶けたクリーミーなスープが、ゆっくりとメルヴィナの不安を包み込んでいく。優しい味に魅了され、メルヴィナは夢中でスープをたいらげた。


「あ、あの……わたし、これからどうなるの……?」


 空腹が満たされて身体も温まったところで、現実的な問題を直視せざるを得なくなる。スープ皿が空になったのなら、もう未来から逃げられない。


「お前次第だ、メルヴィナ。俺がお前のために払った金を、利子も含めて返せるのなら、お前はすぐにでもここから出ていける」

「それは……」


 小金貨十枚のことだろうが、メルヴィナにそこまでの貯金はない。

 親や近所の人々に頭を下げ、仕立屋の女主人に給料を何か月分か前払いしてもらえば払えるだろうが……金を借りるには、そうなるに至った経緯を話す必要があるだろう。


 もともと両親とは折り合いが悪いし、雇用主に失望されて職を失えば前借りどころではない。馬鹿な娘に向けられる、冷たい視線を思うと手が震えた。


 それに、メルヴィナが打ち明けたことを子爵に知られて、あの忌々しい魔動具まどうぐが記録した屈辱がばらまかれないとも限らない。頼れる人などいなかった。


「ただ、それでも元の生活に帰れるかはわからない。ドリー子爵……というより、その父親はなかなかの食わせ者だからな。もう手が回っているのさ。殺されなかっただけ運がよかったぞ」

「どういうこと?」

「伯爵はお前の両親と雇い主に、お前を領主の城の専属の針子・・・・・にすると言ってな。貴族の言うことに逆らえる平民がいるか? 全員それに同意したから、今やお前は子爵の愛人だ。飽きられたと言えば帰れるだろうが……」


 ロイドはそこで言葉を切った。身を持ち崩した娘の末路はすぐに想像がつく。結局、ロイドに金を払おうが払わなかろうが、純潔を失ったメルヴィナは底辺まで堕ちるしかないのだ。


(じゃあ……やっぱりわたし、死ぬしかないじゃない……)


 後悔が波のごとく押し寄せてくる。両親や幼馴染の言う通り、地味で愚図で不細工な自分が思い上がるべきではなかったのだ。


 恋に浮かれて驕り高ぶっていた己を恥じた。多くの男に慰み者にされる運命を呪った。結婚まで純潔を守り通せという神の教えに、何故従えなかったのか。

 あの日あの時、子爵にそそのかされたときに毅然と対応していれば、きっとここにはいなかったはずなのに。


 死にたい、と。


 はらはらと零れ落ちる涙とともに、その言葉が自然と口をついて出た。

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