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「メルヴィナ、王都に興味はあるか?」
「王都?」
ロイドにそう問われ、ワイングラスを手にしていたメルヴィナは小首をかしげた。
王都。すべての流行の最先端となる、きらびやかな都市だ。興味がないといえば嘘になる。
きっと素敵なドレスや宝石がたくさんあるだろう。そういうもので着飾れば、ロイドはもっと褒めてくれるに違いない。
「春になれば本格的な社交期が始まるから、各地の貴族が王都に集まるんだ。貴族のおこぼれに預かりたい商人もな。だから挨拶回りにちょうどいいし、商売と新しい人脈作りのいい機会になる。貴族に忌避感がなければ、お前と一緒に行きたいんだが。どうだ?」
「行きたいわ!」
大好きな人と、憧れの街を歩く。想像しただけで胸が躍った。メルヴィナの返事を聞いたロイドは鷹揚に頷く。
「向こうにいる間の宿は用意してあるから、荷物は少なくていいぞ。なんなら王都で買い揃えればいい」
ロイドはくすりと笑ってメルヴィナの頭を撫でた。
「お前なら王都の社交界でも十分通用する。期待してるからな、メル」
「ええ!」
たとえ王都であろうとも、なすべきことは変わらない。ロイドの役に立ち、褒めてもらうのだ。
愛してる、最高だ、俺だけの可愛いメル、ずっと一緒にいよう……ロイドはいつだって、メルヴィナの欲しい言葉をかけてくれた。けれどまだ足りない。もっともっともっと言ってほしい。
王都までは魔動列車で行くことになった。渡された一等車のチケットに期待が高まる。これまでメルヴィナは三等車にしか乗ったことはなかったし、遠出と言えば田舎の親戚に会うことぐらいしかなかったからだ。
駅前には多くの店が立ち並ぶ。領都で最大の駅ということもあり、昼時はよく賑わっていた。王都となればどこでもこうなのだろうか。
「メルヴィナ!? もしかしてお前、メルヴィナなのか!?」
ロイドと、そしてお付きの者達と駅舎に入ろうとしたメルヴィナを呼び止める野太い声が聞こえた。
振り返ると、作業着姿の醜男がいる。近くに建設現場があったから、そこから来たのかもしれない。
「どなたぁ?」
メルヴィナは困りながら彼を見たが、すぐに顔をそむけることになった。
「お前、そんなところで何してんだよ? しかもなんなんだ、その格好。なんでさっさと帰ってこねぇんだ? 俺はずっと待ってんのによぉ」
黄ばんだ乱杭歯にぎょろりとした目。男らしさの象徴となるはずの筋肉も、あの男の場合はぴくぴくと不気味にうごめく塊にしか見えない。
よれた薄汚いシャツから漂う、饐えた臭いがこちらまで届いてくるような気がする。こんな醜い生命体を、わずかにでも視界に入れたくなかった。
「誰だか知らないけれど、馴れ馴れしく話しかけないでくれる?」
吐き気をこらえて冷たく告げる。気に食わない相手は棘で刺して構わない。だってメルヴィナは、ロイドのためだけに咲く気高く美しい花なのだから。
男は唾を飛ばしながら、何か喚き散らしてメルヴィナの元に駆け寄ろうとしてくる。
だが、メルヴィナが悲鳴を上げるより早く、周囲の黒服の男達が男を取り押さえた。フェルワース一家の若い衆だ。
「メル、あの男に見覚えはないんだな?」
不気味な男の下世話な視線から守るように、ロイドはメルヴィナの肩を抱く。
「全然知らない人よ、ロイド。一体なんなのかしら。怖いわ……」
「だそうだ。さっさとそいつをどこかにやってくれ。殺しても構わないぞ。断りもなく俺の女に声をかけたんだからな」
薄笑いの問いかけにメルヴィナが眉根を寄せると、ロイドは若い衆に指示を出した。
もともと見送りだけの予定だった彼らはきびきびと返事をし、おぞましい男を連行していく。
男はがなり立てていたが、数発殴られるとおとなしくなり、無様に命乞いを始めた。
「きっと、頭のおかしい奴なんだろう。それか、知り合いを騙って近づいてくる詐欺師か。そういう手合いはたまにいるんだ。絡まれるとは運が悪かったな」
「大丈夫よ。ああいう変な人が来ても、あなたが守ってくれるから」
ロイドは笑ってメルヴィナにキスをした。
あの男の正体がなんであれ、これでもう大丈夫だろう。たとえ明日の朝刊に、身元不明の若い男の惨殺体が発見されたという記事が載っていたとしても、メルヴィナにはもう関係のないことだ。
メルヴィナは安心して、ロイドの腕に絡みつくよう抱きついたまま駅舎に入った。王都行きに同行する数名の構成員もそれに続く。みなロイドの側近だ。
列車はすぐに走り出す。
流れていく車窓は、まるで過去のメルヴィナを置き去りにしていくかのようだった。
*
ドリー子爵アルフォニー・ロットベイツは苛立っていた。嫉妬心ばかりが一人前のつまらない女と結婚してしまったせいで、自由で気楽な生活が失われたからだ。
子爵夫人はアルフォニーの行動をまるで逐一監視しているようで、気の休まる時がない。独身時代は気まぐれに街へと遊びに出かけては蝶々達と戯れていたものだが、その放蕩ぶりはもう許されなかった。
それならばと身近に咲く美しい花を愛でようにも、妻の意向で女性使用人は年増ばかり。さすがの子爵も食指が動かず、退屈な日々を過ごしている。
それでもなんとか妻の目をかいくぐり、束の間のスキャンダラスな逢瀬を叶えることができたとしても、胸にはむなしさが広がった──別れてしまった平民の恋人、メルヴィナのことをどうしても考えてしまうから。
(どこを探しても、メルヴィナよりいい女が見つからない。私の寵愛を受けるにふさわしいのは彼女だけだった)
純で素直な可愛い乙女を思い出す。男爵令嬢との結婚の障害になるからと、彼女を手放したのは失敗だった。
だが、アルフォニーには完全にメルヴィナとの縁を絶ったつもりはなかったのだ。後腐れのないようにひとまずやくざ者に管理を任せ、ほとぼりが冷めた頃に秘密の愛人として囲うはずだったのに。
しかしアルフォニーの思惑を嘲笑うように、メルヴィナを下げ渡したやくざ者……裏社会を牛耳る若き大悪党はまんまと彼女を毒牙にかけた。社交界であの男が見せびらかすように連れ回す麗しき毒婦に、かつての純情なメルヴィナの面影はどこにもない。
(ロイドめ。これだからものの価値がわからない下民は嫌なんだ。私が咲かせたあの美しい薔薇を、下品な色に染めるとは)
身勝手で傲慢な男のたわごとも、彼自身の中では筋の通った正論になる。メルヴィナを裏切り、傷つけ、手ひどく捨てたのが自分であることを、アルフォニーはすっかり忘れ去っていた。
だから彼の怒りは、いまや恋敵となったロイド、そして自分というものがありながら他の男になびいたメルヴィナに向かう。
(私を満足させてくれるのはメルヴィナしかいない。愛しいメルヴィナよ、君は変わってしまったが、私は君を寛大な心で許そう。だから、私のもとに戻ってきておくれ)
今のメルヴィナはもう、アルフォニー好みの清楚で控えめな淑女ではない。
それでももう一度、あの無垢な少女の影を追い求めずにはいられない。離れていた時間のせいで余計にその思いが強くなる。それはまるで、酒や麻薬の中毒症状のようだった。
「あなた、社交期は王都で過ごすでしょう?」
「ああ……そうだね」
実家の金と権力以外とりえのない、冴えない女が何か囁く。その耳障りな甲高い声に頭痛を感じながら、アルフォニーは適当に頷いた。
友人達ももう、王都に発っている頃だろう。かつてはアルフォニーも社交期には浮かれていた。着飾った令嬢達と擬似的な恋の駆け引きを楽しむためだ。
だが、嫉妬深い妻を得てしまってからは、そんな自由な時間は作れないだろう。華の王都でも灰色の結婚生活から逃げられないことに、アルフォニーは深いため息をついた。




