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 殴られた頬と腹部がずっと訴えていた痛みは、いつの間にか感じなくなった。


 それでも歯の根だけはいまだに合わない。下着姿で座り込むメルヴィナは、身を縮こませて自身の体温で暖を取ろうとした。


 だが、その震えは寒さからではなく恐怖によるものが大きい。彼女の行動は、気をまぎらわせるための逃避でしかなかった。


「仕方ない。なら、小金貨十枚ではどうだい?」

「いいだろう。交渉成立だ」

「ふん。吝嗇けちな男だ」

「見た目が売りの女の顔に傷がつけば、値が下がるのは当然だろう。死体の処理代として、こっちから請求してもいいんだぞ?」

「くっ……。わかった、さっさと連れていきたまえ」


 メルヴィナの傍で、二人の男が言い合っている。平民一人であれば半年は遊んで暮らせる金額、それがメルヴィナの命の価値だった。


「来い」


 バサッとかけられたのは、メルヴィナを買った男の外套だ。


 彼に腕を引かれて立ち上がる。どうしてこんなことになったのかと、メルヴィナはまなじりに浮かぶ涙を静かにぬぐった。


*


 地方都市の片隅にある、狭いアパートメントの一室で生まれ育ったメルヴィナ・クラーレ。

 自分は平凡な庶民の娘として、平凡に人生を終えるのだと、物心ついた時にはすでにそう思っていた。


 メルヴィナは十四の時から仕立屋に勤めていた。

 メルヴィナはどちらかといえば内向的な性格だったが、おしゃれが好きだった。


 趣味で着飾ると、昔気質の両親からは「はしたない」だの「慎みがない」などといい顔をされないが、職場であればどんな服にも触れられる。幸せだった。


 両親は、いかにメルヴィナに地味で質素な装いをさせるかに注力していたので、仕立屋に勤めたところで華やかな恰好ができたわけではない。

 だが、色とりどりの生地で仕立てたドレスを着る自分の姿を想像しただけで胸が躍ったのだ。


 そんなメルヴィナに、貴族の男に見初められるという幸運が舞い込んだ。


 相手はこの街を治める領主の息子だ。金も地位も備えた美青年に愛を囁かれて舞い上がるなというのは、十五歳の少女には酷だろう。それからの一年間の蜜月は、メルヴィナに甘美な幸福をもたらした。


 男は女泣かせの子爵だった。柔らかな金の巻き毛と新緑の瞳には、平民にはない気品が感じられた。


 メルヴィナは、身も心も彼に捧げた。恋に盲目になった少女は、婚前に純潔を散らすという愚かでふしだらな行為すらも許容してしまった。

 もちろん誰にもそのことは言ってはいない。けれど敬虔な両親のもとで抑圧されて育ったメルヴィナにとって、その大冒険は何より甘美な娯楽になった。


 周囲……特にメルヴィナの幼馴染である意地悪な少年は、平民のメルヴィナが本気で貴族の奥方にしてもらえるわけがないと馬鹿にした。ブスが調子に乗るなよ、と。

 しかしメルヴィナは耳を貸さなかった。メルヴィナを美しいと、愛しいと言ってくれたのは、恋人だけだったからだ。


 君は、これまで出会った有象無象の女達と違う。

 君こそが私の運命の人に違いない。

 私はきっと、君に会うためにこれまでいくつもの出会いと別れを経験したのだ。

 我が最愛よ、どうかこの指輪を受け取ってくれないか。


 ──子爵はそう言って、メルヴィナにプロポーズした。


 子爵がこれまで火遊びに興じてきたことは、仕立屋に来る上流階級の客達から聞いていた。

 しかしそれと同時に、彼の友人達から彼がいかに本気かを説かれた。婚約までこぎつけた女は、メルヴィナを除けばただの一人としていなかったのだと。


 令嬢の中には、麗しい子爵に針子風情は釣り合わないからと、メルヴィナに身を引くよう迫る者も数多くいた。その嫉妬すら恋のスパイスに感じられた。


 だって彼女達も家の資産が違うだけでメルヴィナと同じ平民か、貴族であっても下級の家の出だったからだ。メルヴィナはこの領地で一番偉い一族の跡取りに見初められたのだから、彼女達に負ける気はしなかった。


 身分を超えた、真実の愛。

 運命という絆で結ばれた自分達が、恋に落ちるのは必然で。


 この愛は必ず実るのだと、メルヴィナは信じて疑っていなかった。


 風向きが変わったのは、子爵が結婚すると噂が流れだした時だった。最初はメルヴィナのことかと思ったが、どうにも違うらしい。


 子爵はめっきりメルヴィナに会いに来なくなった。こちらから押しかけて噂の真偽を尋ねようにも、「君は私より流言を信じるのか」と言われてしまえば引き下がるほかない。満ち足りていた幸福に、ぼたりと闇が広がっていった。


 ほどなくして、子爵はこう告げた。


「世界が私と君を引き裂こうとする。だが、私達は必ず愛を手に入れよう。君のことは妾として迎えさせてくれ」


 ……あまりにも話が違うと、メルヴィナは抗議した。


 真相は、とても簡単だ。

 別の領地で暮らす、さる男爵の令嬢が子爵を見初めた。

 息子が平民と結婚することに、子爵の父であり現領主である伯爵は難色を示していた。

 その男爵の家が裕福で、王からの覚えもめでたい名家であることで、子爵も考えを改めた。

 愛人という立場で納得できないメルヴィナは、もう子爵にとって邪魔者だった。


 メルヴィナが、婚礼の障害にならないように。子爵は早々に手を打った。

 すなわち、言うことを聞かないメルヴィナを暴力で屈服させ、貴族社会と縁遠い場所に追放する手はずを整えたのだ。


 一方的な婚約の破棄に対する釈明がしたいと呼び出され、のこのこと応じてしまったメルヴィナは、それまでの子爵の鬱憤を晴らすかのようにひどく乱暴に抱かれて写真まで撮られた。

 抵抗の意思は拳で奪われ、恥辱の秘匿と引き換えに沈黙を求められた。頷く以外の選択肢がメルヴィナにあっただろうか。


 けれど、子爵はそれだけで信用する気はないらしい。彼はとある男を呼んでいた。現れた細身の優男は、露骨に残った暴行の痕を嗤いながら商談のテーブルについた。


 男の名前はロイド・フェルワース。

 弱冠二十歳でこの国の暗部を牛耳る、巨大な犯罪組織の元締めだ。


 フェルワースという名前だけなら、メルヴィナだって聞いたことがある。

 フェルワース一家といえば、醜悪なる恐怖の象徴だった。その悪の名がまさか自分の世界と交わるなんて、思ってもいなかった。


 こうして恋に溺れたメルヴィナは、残酷すぎる絶望の中へと堕ちていった。


*


「ニコ、この女の世話をしろ。名前はメルヴィナ・クラーレだ。顔の怪我が治るまででいい」

「はい、フェルワース様。奉仕先はお決まりですか?」

「まだだ。使い物になるか確かめてから考える」

 

 メルヴィナが連れていかれたのは、ダウンタウンのアパートメントだった。

 こじんまりした館を管理しているのはこの老婆一人なのだろうか。ニコと呼ばれた老婆はロイドに恭しく一礼し、メルヴィナを中に入れた。


 ニコはさっそくメルヴィナのために部屋を用意し、傷の手当と風呂の支度を整えた。


 うつろな目をしたメルヴィナは、されるがままになっていた。たとえ老婆の細腕であっても身体をまさぐられるのは不快だったが、抗うだけの気力は残されていなかった。


「明日また来る」


 身を清められたメルヴィナを見てから、ロイドはそっけなく帰っていった。

 傷にお湯や石鹸がしみてひりひりと痛んでいることに、メルヴィナはようやく気づくことができた。

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