求婚と共闘①
後ろ手に閉めた講堂の扉は、強く打ち付けたせいかミシミシっと音を立ててひび割れた。
学院生活を送るうえで、人間の世界で生きるためにずっと力を封印していたせいか、どうにも力加減が難しい。
大魔族だった曾祖母の血は、私の体には八分の一しか流れていないはずだった。しかし力というのはその血の濃さにはあまり関係がないらしい。魔族の血が四分の一流れている父には魔力などほとんど発現しなかったが、曾孫である私はかなり曾祖母の力を色濃く受け継いでいた。
男女の差もあるのかもしれない。交渉役を任じられるだけあって、父や叔父はそれはそれは口が達者だし。
対して女である私が受け継いだのは筋力と、それを増強する魔力だ。
筋力だけを単純に比較すれば、普通の人間の数倍以上ある、らしい。
今は意識的にそれを抑えているし、私にかけられた封印を解放すれば魔力の上乗せで城の一つは簡単に吹き飛ばせるほどの力を発揮できる、らしい。
伝聞形式なのは私にもはっきりしたことが分からないから。
曾祖母の娘であるおばあさまによって、私は生まれてすぐに魔力を封印する術をかけられた。平和な時代には不要であり、発動させたら人間に恐れられてまた魔族と人間が争うようになるかもしれないから、と。
まあそれでも常人より筋力があったため、学院生活を送る際は重々気を付けるように言い含められていたし、自分でも気を付けていたのだ。
いくら腹が立っているとはいえあちこちを壊して回るのは得策ではない。私は何回か深呼吸をして気持ちを宥めた。手指に集まった血液がすうっと冷えていくと、震えだしそうなほどだった筋肉も落ち着きを取り戻していく。
最後に細い息を吐くと、頭に上っていた血も幾分か降りてきたらしい。冷静さを取り戻した私は男爵家の別邸へ向かうため学院の門をくぐった。
とりあえずは皇都に構えた男爵邸に戻ってサラを連れてエスピネル領に戻らなくてはいけないだろう。あんな啖呵を切ったけれど、エスピネル男爵領は皇国の一部であり父である男爵は皇帝の臣下だ。今日のあれこれを父に説明しなくてはいけない。
屋敷の前までたどり着き、今から皇都を発てば暗くなる前に一番近い宿場までは馬車を進ませられるかなと空を仰いでいると背後からおおいと声が聞こえた。
聞き覚えのあるその声に私の眉根が寄る。今はあまり会いたくない相手だ。
無視して歩き始めると、もう一度おおいと声がする。そして間を置かずに肩を叩かれた。
「ダナ! ちょっと待てって」
身分的には男爵という下級の爵位家とはいえ、一応は貴族の一員であり私はその家の娘である。いわゆる令嬢である私に対して、肩を叩き不躾に声をかけてくる相手など皇都広しといえども幾人もいないだろう。
気が進まないながらも応じないわけにもいかず、振り返った私の目の前には一人の青年が立っていた。ついさっきまで講堂で私を取り囲んでいたバルカルセ学院の制服を着て、公爵家の身分を表す赤いサッシュを下げている。目線を上げると、明るい茶色の髪と人懐こそうな茶色い瞳が視界に飛び込んできた。
ああ、やっぱりこの男だ。
皇太子殿下の従兄弟であり、次期公爵でもあり、そして私の幼馴染で同級生でもあるこの男。卒業式に姿が見えないと思ったら、なんで今頃現れたのだろう。
「……なによ、リカルド」
じっとりとした目で睨んでやると、名を呼ばれたリカルド・ベルトランは眉を吊り上げた。
「お前、仮にも公爵家の嫡男を呼び捨てにするなよな」
「……だったらあんたも男爵令嬢を街中で呼び捨てにして、あまつさえ気軽に肩なんか叩くような真似やめなさいよ。しかもここ、ウチの前よ?」
自らの行いを棚に上げたことをいう幼馴染にちくりと言い返してやると、当の本人もしまったという顔をした。
とはいえ私のほうも今更こいつを「ベルトラン公爵家のリカルド様」と素直に呼べるかと言えば怪しいんだけれど。
「で、なによ。あんた卒業式にいなかったじゃない?」
「親父ともども皇帝陛下の呼び出しを食らってたんだよ。それはそうと、お前、一体何をやらかしたんだ。講堂が阿鼻叫喚の騒ぎだったぞ」
「……ん-……と、婚約、破棄」
「は?」
ぼそりとつぶやいた言葉は端的過ぎて、リカルドは理解しかねるように首をかしげる。思い出すと怒りが再燃しそうで嫌だなぁと思いながらも、なおも問う視線を投げてくる彼のために私は口を開いた。
「グラシアーノに婚約破棄を言い渡されたのよ。アリシアにまんまと乗り換えられて、答辞を読む檀上でいきなり、ね」
「はあ? あいつ、あの留学生に本気になったのか」
「相当本気みたいよ。で、黙って従うのも癪だったからあの子の素行についてちょっと教えてやったの。そしたらグラシアーノが余計な一言をね、口にしたから、お仕置きをね」
してやったのよ、と言って私はリカルドから目を逸らす。その一言を思い出すとはらわたが煮えくり返るかと思うほどだけれど、それを親同士の決め事とはいえ婚約していた相手から聞かされたことがどうしようもなく悲しくなったのだ。
「……余計な一言って、あいつ、お前に何を言ったんだよ。いくらお前が馬鹿力だからって、あんなに講堂をめちゃめちゃにするほど……あれ?」
さらにあの一言を思い出させようとするリカルドが、まじまじと私の顔を覗き込んだ。いくら幼馴染でも、こちとら年頃の、ええ、一応年頃のご令嬢という立場なのに、ちょっと不躾すぎる。
なによ、と顔を背けようとしたけど、リカルドの手がそれを阻んだ。両頬に手を添えられ、頭半分ほど背が高いリカルドの顔のほうを向かされる。
間近に迫った幼馴染の目がぱちぱちと瞬いた。その明るい茶色の瞳に、目を丸くした私が映った。
こんな状態を家の者に見られたら、と顔が急に熱くなる。
「ちょっ、やめてよ」
「いや、お前、目が」
「目が? なに?」
「赤くなってる」
「はっ?」
赤い? 泣きそうになって充血しているということか。
ばつが悪くなって私はリカルドの胸を突き飛ばした。いや、もちろんかなり手加減して、だ。それでも細身の幼馴染は大股で五、六歩も後ずさってしまう。
しかし、リカルドは違う違うと首を振って自分の瞳を指さした。
「目、瞳の色! お前、そんなに赤くなかっただろ?」
「ひと、み?」
あいにく卒業式帰りなので手鏡の類は持っていない。どういうことかわからず眉値を寄せると、リカルドが懐から小さな鏡を取り出した。マメな奴だ。
ほら、とそれを渡され覗き込むと確かに瞳の色が赤い。赤毛の前髪の下にあるからというレベルではない。そしてじっくり見てみると、瞳孔の部分が極端に縦長になっている。
この形は見たことがあった。おばあ様や、ひいおばあ様――つまり大魔族であった曾祖母の目である。
人間の瞳孔はほぼ真円のはずだし、つい今朝身支度するときに見た自分の目はこうではなかったはずだった。いつの間にこんなことになったんだろう。
いや、待てよ。さっき皇太子をぶっ飛ばすとき、一瞬目の前が変な色に変わらなかったっけ。やけに軽々しくあいつをぶっ飛ばせた気がしたけど、まさかおばあさまの封印が、と息を飲んだ。
「ダナ?」
「み、見ないで!」
近づいてきたリカルドから咄嗟に私は距離をとった。ばっと両手で目の前に庇を作り、顔を覗き込まれないようにする。
祖母の封印が解けたとすれば、魔力に満ちた今の私はどちらかと言えば魔族に近い存在だ。
曾祖母の時代から和平が結ばれ、この国において魔族は友好的な隣人という位置づけになったはずだった。しかしそれは教科書に書かれたことでしかなく、多くの純粋な人間にとって魔族は自分たちとは異なる、卑しいものなのだ。
自分もほぼ人間であるし、普段は人間として生活していたのに、ちょっとした出来事でその差別的な感情をぶつけられる相手として認識されてしまったのが今になって辛い。ここで再び幼馴染に同じような感情をぶつけられたら――それが怖くなったのだ。
しかしリカルドはそんなこっちの気持ちなどお構いなしに、ずかずかと近寄ってくる。必死に顔を伏せると、今度は私の足元にしゃがみこんでしまった。
「見ないでよ……」
「なんで? 色が変わったからか?」
「そうじゃなくて、その、瞳孔の形が……」
「瞳孔?」
腰をかがめたままリカルドが私の目を覗き込む。
もうだめだ。
観念した私は顔を覆っていた手をどけ、これ見よがしにリカルドへ目を近づけた。
「見なさいよ。ほら。瞳孔が縦長になってるでしょ? 封印が解けて、私、人間より魔族に近くなったのよ」
吐き捨てるように言ってやれば、きっとリカルドも驚愕の表情を浮かべて去っていくに違いない。
そう思ったのだ。
ちょっと胸が痛むけれど、こんなことはこの先きっといくらでもある。皇太子との婚約も破棄になったし男爵領に戻れば何の問題もない。あそこには同じような仲間がいくらでもいるし、この目を見て怖がるやつも少ないはずだ。それでも怖がられるなら帽子に目隠しのベールでもつければいいんだ。
「――なるほど、それであの惨状か。グラシアーノが言った余計な一言っていうのも、まさか……」
「これで分かったでしょう? ねえリカルド。私、魔族だから怒らせると怖いわよ。さっさとあんたも公爵邸に帰んなさいよ」
しっしと手を振って私は背を向けた。
これでいい。さっさと帰って、サラと皇都を発とう。リカルドの気配を背中に感じつつ、私はそのまま歩き出した。
ところがだ。
リカルドが私の手首を掴んだのだ。そして立ち上がる気配がしたかと思うと、くるりと私を振り向かせる。
「な……!」
「人間であれ、魔族であれ、ダナはダナだろう? 少なくとも俺にとってはそうだ」
「なに?」
「エスピネル家の働きがあってこその我らがベルガンサ皇国ってのは俺ももちろん理解しているし、ダナが魔族の血を引いているってことはよく知ってる。でもそんなこと、ダナがダナであることに何の影響もないじゃないか」
恐れの色も侮蔑の色もない明るい茶の瞳で、リカルドはじっと私を見つめてきた。まっすぐな視線と言葉に何も言い返すことができないでいると、何を思ったかリカルドは膝をついた。