覚醒の祝宴②
しかしこの期に及んで皇太子を止めようともしない学院の教師陣は何をやっているのだろう。あたりを見渡せば、教師たちは皆青い顔をして目を逸らしている。次期皇帝とはいえ学院で導くべき生徒の一人が癇癪を起しているのに、我関せずとは情けない限りである。
では心置きなく、遠慮なく、こっぴどくやらせてもらおう。
「そうそう、慣習を大切にされる殿下のお耳に入れておかねばならないことがございます」
「な、なんだ……!」
「慣習では、婚約者がいる異性とは、気軽に二人きりで会ってはならないと言われております。学院に在籍されている諸侯のご子息には既に婚約者がいらっしゃる方が多いのですけれど、そのような方々に気安くご挨拶をされるアリシア様の無礼についてはいかがお思いです?」
「あ、挨拶くらい……!」
「お休みの時間などに中庭の片隅や誰もいない教室で、アリシア様が殿下をはじめとする諸侯のご子息――ええ、もちろんご婚約者がいらっしゃる方々とよくご歓談されていると伺っておりますわ。それについては?」
「僕はいいんだ、僕は……え? 諸侯のご子息……?」
はっと皇太子の動きが止まった。胸に縋り付いていた黒髪の少女が険しい顔をしてこちらを振り返る。
化けの皮が剝がれてるぞ、と言いかけてやめた。そこを注意してやれるほどこちらも大人ではない。そもそもこいつが皇太子に近づかなければ前世の私だって処刑されることはなかったのだ。仕返しに痛い目を見せて何が悪い。ーー物理的にやるわけにはいかないだろうけど。
「それに対して誠実にご忠告なさったアバロス男爵のご令嬢を、先日かなり厳しくお咎めになったそうですね。取り巻きを使って嫌がらせをしたのかとおっしゃいましたが、ほとんどがアリシア様の振る舞いについての真っ当な忠告ですわ。しかも私は全く関与しておりません。皆、学友の一人として真摯にアリシア様のことを思って忠告に及んだのです。それを悪意を持って殿下のお耳に入れるとは」
私はそれまで皇太子に向けていた目をアリシアの顔へと下した。ばちっと彼女と視線が合う。憎々しげにこちらを見ているが、まだどこか余裕の色が見えるアリシアは皇太子の服をつかむ手に力を込めた。
この期に及んでまだそのポンコツに、と思うとバカバカしさが増す。身分とそれに伴う周りの配慮を権力と思い込んだ皇太子に、前世の自分が虚仮にされた情けなさに頭が痛くなりそうだ。
「お里が知れましてよ?」
心底蔑んだ気持ちを込めて、わざとらしく鼻を鳴らしてやるとアリシアではなく皇太子が激昂した。
「う、うるさい! アリシアを悪く言うな!」
「悪く言っているのではなく、こう見られるのでご注意あそばせという忠告です。まあ、ご自身がおっしゃったこともころっと忘れる方とはお似合いかもしれませんが」
「ダナ! 貴様、馬鹿にするのもいい加減にしろ!」
「馬鹿になどしておりません。ええ、わかりやすい色仕掛けに引っかかったポンコツと、そんなポンコツを手に入れて満足気にしている性悪にあきれているだけですわ」
これ見よがしに肩を竦めてやると、檀上の二人はあっさりと我慢の限界に達したようだ。安い挑発に乗りわなわなと唇を震わせていた皇太子が足音も荒く駆け寄ってくるではないか。おまけにずいっと人差し指で私を指すと、地団太を踏みながら喚きだす。
「皇太子を馬鹿にするなど許さん! 許さんぞ! 大体僕はお前との結婚なんて望んでいない!」
みっともない言い訳だった。
まあここまでポンコツぶりを見せておけば、時世に敏い諸侯の家の者たちがこの男から離れていくだろう。皇帝陛下もこいつを皇太子にしておくことに再考の余地があると思うんじゃないかな。地位をはく奪されてほえ面かけばいい。
でも今ここにいる野次馬がご注進してくれない可能性もあるし、だったらいっそ陛下に直訴でもしてみてくれないかな。私は最後のダメ押しをしてみることにした。
「貴族間の婚姻は国や家の利害によることが多いものです。ご不満であれば、お決めになった皇帝陛下に直接お申し出ください。陛下からのご命令であれば、私に否はございません」
「うるさい! 屁理屈ばかり言うな! たかが男爵家の娘のくせに、口答えなど許さんぞ! お前のような下賤の血が流れる女など願い下げだ!」
二十になる男とは思えない癇癪ぶりに閉口しそうになったが、皇太子の発したその一言で私の頭がカッとなった。
瞬時に右手が伸び、タイで結ばれた皇太子の襟もとをねじり上げる。私の手の甲に押され、男の喉から異音がこぼれた。
しかし手に込めた力は緩まない。むしろ右手にはどんどん血が集まり熱くなった。筋肉が膨張していくような錯覚さえ覚える。私は力の赴くまま、ねじり上げた襟ごと男の体を持ち上げた。
「……下賤と言ったか?」
自分の口からとは思えないほど低い声が出た。宙づりになった男をじろりとにらみ上げれば、ひゅっと息が漏れる音がする。檀上でアリシアが小さく悲鳴を上げた。
「貴様、下賤と言ったのか? この身に流れる血を。お前の先祖が欲してやまず、爵位をもって迎えたこの血を?」
「ま……まっとうな……人間で、は、ない……げ、せんな、まぞ…く、ではないか……!」
首が締まり呼吸もままならないはずの皇太子が、それでもなお口にするのは「下賤」という言葉だった。
許さない。
大魔族である曾祖母は、人間の国との戦いに疲弊していた自国を憂いていた。そして人間の国の使者となった騎士エスピネルと協力し、長く続いていた戦に終止符を打つ和平を成立させたのだ。
両国の友好の懸け橋として曾祖母は騎士エスピネルとともに爵位を賜り、国境付近に居を構えた。そこがエスピネル男爵領だ。
以後、男爵家に生まれた男児は魔族の国との「交渉役」、女児は大魔族の血から発現する能力でこの国を隣接するほかの国から守護する「聖女」の地位が皇帝じきじきに与えられている。
近年になって情勢がきな臭くなってきた隣国への牽制のため、エスピネル家の聖女から皇妃を迎えようとなったのを忘れたのか。
国家の重要ごとを任せているくせにそれを理解しないばかりか、いうに事欠いて「下賤な魔族」だと?
ぶつり、と頭の片隅で私の理性の糸が切れる音がした。そして視界に入る景色が一瞬まばゆく輝き、赤く染まる。
「上等だ!」
襟をねじり上げた右腕に力を籠め、私は皇太子を投げ飛ばした。まるで小さなぬいぐるみのように檀上まで吹っ飛んだ皇太子にアリシアが駆け寄る。
「そこまで言われて黙ってられるか! お望み通り婚約なんぞ破棄してやる。私の方こそ貴様のようなポンコツに嫁がされるなどまっぴらごめんだからな!」
体の中で血が沸き立つ。腹の底から罵倒すると、あたりの窓にはめられた硝子がびりびりと共振した。きゃあ、と各所で令嬢たちの悲鳴が上がるが知ったことではない。男たちは悲鳴こそ上げなかったが、何人もその場で腰を抜かしてへたり込んでいる。
しかしただ一人、檀上で皇太子を抱き起したアリシアだけは違った。青い顔をしながらもこちらを睨みつけてくる。性悪で尻軽だが、その度胸だけは褒めてやってもいい。
「ぶ、無礼者! 殿下に向かって!」
「無礼結構! いますぐにここから出て行ってやるさ」
ただし、と私は周囲の野次馬全体を見回した。
どいつもこいつも皇太子の顔色を窺ってびくついていたくせに、今度は私に恐れをなしている。
くだらない。
こんなくだらない奴らのために聖女だなんだと持ち上げられ、魔族の力をあてにされていたということか。バカバカしい。
そしてそんな奴らに持ち上げられ、皇太子の婚約者だとちやほやされ、くだらない男を愛そうとして目を曇らせていた自分が情けない。卒業式が始まるまでは茶番劇をひっくり返せればと思っていたが、今となってはもうこの国の人間自体に愛想が尽きた。
「覚えておけよ。これよりこの国から魔族の庇護が失われることをな! 無事に新年を迎えられるように無力な神にでも祈っておけ!」
私はそう言い残し、腰を抜かした大勢の卒業生に背を向けて講堂を後にしたのだった。