あの子の庭
同じクラスの高橋蓮慈は、変な子だった。今彼は口をへの字に曲げて、クラスで一番の美少女、瑠愛ちゃんに向かって、ズイと右手を差し出していた。その手には、うさぎ柄のハンカチが握りしめられている。蓮慈の鋭い目つきに、瑠愛ちゃんはすっかり怯えてしまっている。
「これ――」
言い終わる前に、瑠愛ちゃんはハンカチをひったくるようにして蓮慈の手から取り返した。
「これ私のっ」
瑠愛ちゃんは蓮慈の目も見ずにそう叫ぶと、パタパタと走り去っていった。あとには、手を差し出したまんまの蓮慈が残された。
さっきから暇を持て余していた私は、たまたま蓮慈の行動の一部始終を目撃していた。この場面の少し前、廊下を歩いていた瑠愛ちゃんは、ポケットからハンカチを落とした。後ろを歩いていてそれを目撃した蓮慈は、迷わずハンカチを拾った。それを瑠愛ちゃんに渡してやった。ただそれだけのことだった。しかし、瑠愛ちゃんはこの同級生の醸し出す異様な威圧感に気圧されてしまったのだ。蓮慈は目つきが悪い。一重の釣り目で、たぶん三白眼というやつだと思う。何となく眉も釣り上がっているし、唇を引き結んでいることが多いから、とにかくいつも人を睨んでいるように見える。それにあまり喋らないから、友達もいない。スポーツも、勉強も得意じゃない。蓮慈はいつも一人ぼっちだった。
その時、突然蓮慈の視線がこちらを向いたので、私はビクリとして目を逸らした。どうも見過ぎたらしく、気が付かれてしまった。目を逸らした後も、ずっと痛いほどの視線を感じる。私は耐えきれなくなって、仲良しの美優ちゃんをトイレにでも誘おうと慌てて席を立った。
もうすぐ帰りの会が始まるという時だった。ガヤガヤ騒がしい教室で、皆に倣って、私もランドセルに荷物を詰めていた。その時だった。蓋を開けたランドセルから、パッと本が飛び出してきて床に落ちた。振り返ってみて私の心臓はひっくり返りそうになった。それは、昨日小遣いで買ったばかりの漫画だった。昨晩間違えて荷物に入れてしまったのだろう。しかしまずい。こんなものを持ってきたと分かれば、すぐに先生に言いつけられて、悪ければ親に連絡がいきかねない。誰にもばれないうちに拾わなくては――そう思った時には遅く、私じゃない誰かの手が、それをサッと拾い上げてしまった。
「アッ」
小さく声を上げて見上げると、蓮慈が私のランドセルにさっきの漫画を突っ込んでいる。驚いて見上げると、蓮慈はいつもの不愛想な顔で、用事だけ済ますと、さっさとその場を立ち去って行った。ハッとして辺りを伺った。どうも、蓮慈以外の人間は先ほどの事件には全く気が付いていないようだった。蓮慈の方は、何事もなかったかのようにそのまま自分の席に帰っていく。あっけに取られてそれを見ていると、先生がやって来て、帰りの会が始まってしまった。
帰り道、美優ちゃんと別れた私は、前方を歩く蓮慈を見つけた。実は蓮慈とは家の方向が同じだ。私は、今日の礼だけ言おうと、早足で追いつこうとした。しかし、蓮慈の足は思いの外速い。おまけに、何を思ったのか小走りを始めたので、私も仕方なく早足で追いかけた。いつもなら通り過ぎる角を折れて、私の知らない住宅街に差し掛かった。足が速くて、見失いそうになる。
「ねぇ! 待って!」
私は大きな声で彼を呼び止めた。蓮慈は初めて気がついた様子で、やっと立ち止まった。その彼のもとに近づいて向かい合ったが、そうすると急に、どんな態度でいたら良いのか分からなくなってしまった。
「さっきはありがとう」
口から出た言葉は、酷くぶっきらぼうで不機嫌そうな言い方で、自分でもがっかりした。蓮慈はなおも驚いた様子でこちらを見つめていたが、「いいよ」と掠れた声で言った。
「……間違えて学校に持ってきちゃったの」
「ふーん……家、こっちじゃないでしょ」
「うん」
「それ言うためにここまで来たの」
「まぁそうだけど」
そこまで喋った時だった。突然カランとベルが鳴って、私たちのすぐ横にあった家のドアが開いた。そこから、見慣れない中東風の衣服を身にまとった若い男がひょっこりと顔を出した。頭にはターバンのような物を巻いて、ドアノブを掴んだ手首では、いくつもの輝く腕輪がシャラシャラと鳴っている。
「おや、お客さんかな?」
男は、私たち二人を見下ろして、愛想良さげににっこりと笑った。驚いてその家の佇まいを確認すると、どうやら家ではなく、何かの店舗の様だ。ビーズの暖簾で中の様子は分かりにくいが、何かごちゃごちゃと陳列してあるのが見える。
「暑いし、良かったらどうぞ。口に合うか分からないけど、珍しいお茶があるから飲んでいきなよ。よく冷えてるよ」
さあさあと急かされて、私たち二人は、戸惑いながらも店に入れられてしまった。
店内はクーラーが効いているのかひんやりとしていた。店は雑貨屋なのだろう。六畳ほどの薄暗い空間は、異国の不思議な雑貨で溢れかえっていた。私たち二人は、物珍しさにキョロキョロした。天井まで届きそうなほど長い壺、ガラス細工の美しいランプ、どういう仕組みなのか、回り続ける観覧車のような装置、持ち手をこれでもかと宝石で飾り立てた鋏など、美しい物と用途不明のもの物ばかりだ。私のすぐ横には、上皿天秤のような装置がある。金色にピカピカ光っていて、美しい唐草模様の装飾がある。左右の皿の上には何も乗っていないのだが、二つの皿は何かに呼応するかのように、時々右が下がったり、かと思えば左が下がったりする。それを繰り返し、ふと均衡が訪れる。かと思うと、また皿は揺れ始めるのだ。私が屈んでそれに触れてみようとしたとき、店の奥に引っ込んだ男が、ひょいと戻ってきた。
「触らないで」
私はビクリとして、動きを止めた。
「それは危ないから。あとのものは大丈夫。優しくならね」
男は微笑むと、年季の入ったカウンターに、細かな装飾の入ったアルミ細工の小さなカップを並べた。
「はい。とても珍しい花で香り付けしたお茶だよ。この花は満月の夜に一時間ほどしか咲かなくてね。だけどそれはそれは美しくて馨しい花なんだ。どうぞ。飲んでってよ」
私は少し怖くなって、蓮慈の方を見た。蓮慈も少し怖気付いている。そういえば、私たち以外の客は誰もいない。店の中はとても静かだった。
「怖いのかい? 大丈夫。君らを取って食ったりしないよ。僕はここで商売してるんだ。悪い噂が立ったらたまらないからね。ほら、どうぞ。僕はいただくよ」
そう言って、男は盆の中の一つを手にとって、ぐいと杯を傾けた。それを見て、私たちもカウンターチェアによじ登り、おずおずとカップに手を伸ばした。
「いただきます」
「美味しい……」
キンキンに冷えたお茶が、体を洗っていく。口に含むと、なんとも言えない豊かな花の香りが広がって、ほんの少しの渋みとともに過ぎ去っていく。とても美味しいお茶だった。
「気に入ってもらえて良かったよ。君たちこの辺の子?」
「はい」
「南小です」
「ミナミショウ? 僕この辺のことよく分かんなくて。まだこの街には来たばっかりだからさ。ところで」
男は肘をついて、カウンターの向こうから、ズイと身を乗り出してきた。日に焼けた肌に、目鼻立ちがはっきりしていて、よく見ると、瞳は茶色の中に、黄色や緑みたいな色が散っている。
「君たち、何か見たいものがあるんじゃないかい?」
男が突然訳の分からないことを言うので、私たちは顔を見合わせた。
「いえ、とくに」
「何も……」
「いやいやそんな訳ないんだよ。じゃなきゃ僕は君たちを見つけられなかったんだから」
男はややオーバーな身振り手振りをしながら喋った。
「はぁ」
「よく分かんないです」
「全く、自分が何がしたいか、そういうことすら分からない人間ばっかりなんだ。近頃は」
男は少々腹立たしげにそう言ったが、「まぁ、君たちは子供だもんねぇ」と語気を弱めた。
「じゃ、もうとりあえずさっさと見せちゃうね。まずは君のから」
そう言うと、男は私の方を無遠慮にズイと指さした。
「えっ何を?」
「庭だよ庭。君の庭を、彼が見たがってる」
「僕が? 何をって?」
驚いた様子の蓮慈だったが、怪しげな店主は、「ハイハイこれ持って」と、蓮慈に筒状の物を渡した。
「これを彼女の方に向けて。そう。もうちょい下の心臓辺りだ。そうそうそれで除いてご覧」
「何が見えるの?」
私が不安になって聞くと、「分かった、君にも見せなきゃね」そう言った店主がパチンと指を鳴らすと、フッと強い風が吹いて、気が付くと私はおばあちゃんの家の庭に立っていた。平屋の日本家屋に、縁側。青々とした柳の下に、小さな池があって鯉が泳いでいる。池の畔には、おばあちゃんが集めた珍しい野草が咲く花壇があって、甘い実のなる柿の木がある。風が吹くと、カラカラと柿の葉が鳴った。しかし、記憶の中にあるおばあちゃんの庭とは違うところがあることに気がついた。私が育てていた朝顔の鉢が置いてあったり、おばあちゃんが植えそうもないチューリップが植わっていたりする。しかし、なんとも言えず居心地の良い庭で、あとはここにおばあちゃんがいてくれたら完璧なのに、と悲しくなった。花が大好きだったおばあちゃんは去年亡くなって、家も売ってしまったからこの庭はもうどこにもない。溜息をついたとき、パチンという音がして、私は雑貨屋のカウンターチェアに戻っていた。
「何今の」
「彼女の庭だよ。誰でもみんな、心のなかに庭がある。誰か大切な人との思い出が詰まっているように感じたよ。温かな思い出だ。とても素敵な庭だね」
男は優しく笑って、私にそう言った。
蓮慈はなんだかぼうっとしている。「次は交代だ」と言って、男は万華鏡のようなそれを私に渡してきた。受け取った私は反射的にそれを覗いた。
また旋風が吹いて、気がつくと私は、石造りの建物に四方を囲まれていた。見渡すと、頭上に空がぽっかり空いていて、どうやらここは中庭のようだった。白や青の煉瓦で出来た建物には、アーチ状の出入り口がついていて、この庭に出られるようになっている。庭も同じく煉瓦敷きで、あちこちに植木鉢が置かれ、見たことのないエキゾチックな植物が植わっている。ベンチの横に植わった、これもまた見たことのない種類の木が、柔らかな木陰を作っている。庭はとても静かだ。その中に水の音が混ざっているのに気がついて、庭の中央に進むと、そこには小さな噴水が作られていた。手洗い場のように少し高くなっていて、タイルで装飾された噴水だ。空はよく晴れているのに、涼しく感じるのは、ここに水が流れているからかもしれなかった。手を伸ばして、サラサラと心地よい音を立てている噴水の水に触れる。とてもひんやりとして気持ちがいい。一体ここはどこだろう。日本じゃない、きっととても遠い国のーー
「だぁめだよ。僕の庭なんか見ても何もならないんだから」
万華鏡をグイッと避けられて、私は元の雑貨店に戻った。どうやら、店主の方を向いて覗いてしまったようだ。
「何? 何だったの?」
どうやら蓮慈は見れなかった様子だ。
「僕のはいいの。ほら。元はと言えば君が彼の庭を見たかったんだろう。彼のを見なよ。ね?」
そう言って店主が万華鏡を、蓮慈の方に向かって傾けた。蓮慈の不安そうな顔を見ながら、そっとそれを覗いた。
気がつくと、私は原っぱにいた。側には古びた木造二階建てのアパートがあって、周りには広い広い野原が続いている。私は、蓮慈の中にある庭を見に来たのだった。しかし果たしてここは庭と呼べるのだろうか。だってここには何の区切りも無いし、花壇があるわけでも、鉢が置いてあるわけでもない。庭というよりはやはり野原だった。しかし、野原は野原でも、そこは大変居心地が良かった。今は真夏だというのに、春のような柔らかな陽が差して、吹く風は爽やかだった。私は、脚にサラサラと触れる柔らかな草をかき分けて、そこを歩いて行った。見渡すと、どこまでも続く草原のあちこちに野生の花が咲いていた。タンポポ、シロツメクサ、ハルジオン、カラスノエンドウ、オオイヌノブグリ……そんな春の花々があちこちで群生していて、草の間を柔らかな色で満たしている。私はその景色に、ほうっと溜息をついた。美しかった。手入れしてきちんと整えた庭はもんろん素敵だけれど、こんなふうに飾らないありのままの自然が生き生きとしているのも、また美しかった。
そこで私は気がついた。何も無いと思っていたが、ここには小道があった。アパートから、うねって続く小道。そこ以外の場所は、誰にも踏み荒らされることなく、植物の楽園になっているのだ。この庭の主が、植物を踏まないように、この小道に沿って歩くのを想像した時、アパートの扉が開いたような気がした。
パチンと音がして我に返って、私は面食らった。私は蓮慈と二人で、日の照りつける空き地に転がった土管に腰掛けていた。二人で目を見合わせてキョロキョロしたが、さっきの雑貨店も、不思議な男も、跡形もなくなっていた。
「ここ……どこ?」
「僕の家の近くだ。ここ、ずっと空き地だった」
「えっ、ずっと?」
「うん……」
蓮慈はじっと空き地を見つめていたが、パッと振り返った。
「うち来る? ここ暑いし」
私は、びっくりして相手の顔を見つめた。何だか、出会って初めて、ちゃんと蓮慈と喋ったような気がした。
「うん……行く」
「こっち」
蓮慈は歩き出す。その後彼が連れて行ってくれたのは、さっき見たのとよく似た、横に小さな原っぱのある、古びた木造のアパートだった。
それから、私は蓮慈とよく遊ぶようになった。仲良くなってみれば、蓮慈は良い奴だった。言葉は足りないし、目つきはやっぱり悪いけど、とても優しいところがあるし、自分を飾ったりしなかった。私が蓮慈と仲良くするようになって、それに陰口叩く奴もいた。だけどそれもそのうち収まったし、蓮慈は徐々にクラスの輪に溶け込むようになった。
あの空き地には、その後も時々二人で行ってみた。もう一度あの不思議な男に会ってみたかったし、あの出来事が夢ではなかったと確かめたかった。しかし、何度行ってもそこには荒れた草地と土管があるだけで、あの不思議な雑貨店には二度と辿り着けなかった。